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34 月 三枝
友人のクリニックに戻り、向野の部屋へ行く。ベッドに姿がなく、窓際に見つけてドキっとした。青いガウン型の入院着に裸足で立っていた。
「向野くん…」
近寄って、振り返る顔は真っ白だが穏やかそうだ。一階だったと、外を見て落ち着いた。鼻に酸素カニューレをつけたまま、外を見てたようだ。後ろから抱きしめると、ゆっくりと向野の手が添えられた。
「…京さん」
「うん」
「京さん」返事をしても何度も呼ばれた。呼ばれるごとに返事をする。互いの体温を、呼吸を、力加減を理解していたはずだ。力まないように抱きしめながら、何度も返事をした。
やがて向野が向きを変えて、三枝の胸に手をあて顔を埋めた。
「…留置、っていってた」
意味を理解できずに黙っていた。
「なにか…犯罪を犯して…たんだ。知らない間に」
背筋が震えて、向野の肩を強く抱きしめた。
「知らない間に、オンナ…覚えて…」
とっくに、捨てられてたんだ…。声がくぐもった。胸にあてた手がぐっとシャツを掴んで震える。
好きだった。ずっと支えられてたことを伝えたかった。
京さんとの時間を邪魔されたくないから、ちゃんと終わりにしたかった。
自分が裏切った報いなのか?
息苦しそうに向野はつづけた。慰める言葉が出てこない。
好きだった。その一言さえ憎悪する。
どちらが先に裏切ったのかはわからない。ただ、他人の心を踏みにじっていい理由はない。
「まともに話もできないやつのことなんか、気にするな」
ピクリと肩が動く。
「これが報いだというなら、やつは近いうちにもっと痛い目にあう。そんなクズ、忘れてしまえ」
驚いたように向野が顔を上げた。怒気は籠らなかったが、冷静な分、逆に自分でも怖くなった。
「…京さんでも、そんなこと、言うんだね」
向野が少しだけ笑う。
「言うさ。クズがだめなら虫けら野郎だ。邪魔しに来たら叩き潰すよ」
向野が再び顔を埋め、大きく息を吸うのがわかった。
「月が見たい…な」
そう言う彼を抱き上げて、中庭に連れ出した。
柳が風に揺れている。今日はそれほど暑くない。
「夏も…もう…終わりだね」
接触した胸が大きく上下する。やはり酸素がないと苦しそうだ。呼吸に負担があると肋骨が辛いかもしれない。酷く傷つけられた部分もあるのだし…。
「戻ろうか…」
そういうと向野が小さく首を振った。肩に回した腕を、さらにきつく巻き付けてきた。
「ごめ……なさ…い。少し…」
「いいよ、しゃべんなくて」
苦しそうなので遮った。それでも向野は首を振って続けた。
「ヒ…ヒカル…、猫……いな…った?」
ゼイ、ゼイ、と耳元で息が聞こえる。いい嘘が思い浮かばず、隠し事は結局果たせなかった。
「手紙があった。ヒカルは連れいていくって」
少しだけ言葉を変える。肩先が濡れるのを感じた。泣いているのだろうか。
「…そう。生きて…なら…よかった」
向野の代わりにじっと下弦の月を眺めた。滲むほどに眺めた。弱々しいが、力の限り抱きつこうとしている向野の思いが痛かった。
「もう戻ろう」と言って部屋に帰った。
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