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35 覚悟 三枝

 髪を撫でるとすぐに寝入ってしまった。  診察室へ行くと、清原がボールペンを投げてきた。 「いつまでイチャついてんだ、ドアホ」  頭を下げ、ボールペンを机に置いて向かいの椅子に腰かけた。 「それで、三枝さん? 警察には言わないとなると、私は心療内科の紹介状を書いてお渡しすればよろしいですかね?」 「…もう退院できるのか?」 「あ? 勝手に連れてきたくせに退院? できるわけねーだろ!」  医者として話始めたくせにもう悪態をつく。無精髭をさすりながら清原はつづけた。 「粘膜の爛れは痛みの度合いに関わらず、神経を逆なでするものだから鎮痛剤を多めに与えている。苦痛に暴れれば肋骨に影響しかねないしな、しばらく安静だ。食事もできないから点滴が続くしな」 「心療内科といったか? 時々ぼーとしてたり、暴れたりするのはクスリのせいじゃないのか?」  髭をさする手をとめ、チラリと清原がこちらを見る。 「普通セックスで使うのはハイになる方のものだと思うが、どうも違う気がする。そっちだったらまだ、時間がたてばなんとかなるんだが、な」  余程質の悪いものか、下手な交ぜものだったかもしれないけれど…。そう続けられて、指先が冷たくなる。 「顔のみじゃなく、全身に殴られたか蹴られた痕が数ヶ所あるしな、念のためCTは取ったほうがいいと思うが、今はまだ動かせないしな」  医者として退院は認めん、と付け足した。 「…精神的な原因も考えられる」  ぐっと指先に力が入り、膝のあたりを強く握った。叫びだしそうだった。「精神的」その一言を恐れていた。医師の顔で清原は同じ高さまで顔をさげて、鋭い視線をこちらに向けた。 「トラウマやPTSDについて、今更説明する必要もないだろうけど、改めて聞いておいてくれ。  大きな事故や恐怖体験がトラウマとなって、その状況を思い出す。或いはその状況に似た環境や想像させるもの、言葉、音、色、においなんかで、その場面に戻ったような感覚になる、これがフラッシュバックだ。これは、本人の意思ではどうにもならない」  医者である男を見ないように、ぼんやりと足元を眺めていた。 「症状は様々で、悪夢や白昼夢、幻覚のようなものを繰り返し見たりする。拒否反応が起こるが、何度も繰り返すと、気持ちが落ち込んで、無力感、不安や罪悪感に囚われる。発狂することもある。それを抑えるには、カウンセリングや治療で抗不安薬や…」  三枝は両膝を手で押さえて首を振った。それでも医師は警告を続けた。 「…回避、警戒をして眠れなくなったり、自傷行為に走る者もいれば、不安や気落ちを繰り返し、自分が生きていることを責めたりする患者もいる。そうして死を選ぶ者もいる。だから…!」  やはりそれほどに重大な事件だったということだ。どうにか、比喩を用いて忘れさせることができるほど、あるいは時間とともに忘れられるほど、簡単な経験ではないということだ。今日一日で目や耳から入ってきた情報だけで、簡単なことではないということは、説明されなくても判っていた。 「…手に負えなくなったら、専門医に診せるよ」  手に負えない、選ぶ語彙ではないと思った。自分の力でどうにかできると思っている方が傲慢だ。 「そうなる前に連れていくべきだと言ってるのだが?」  医者が全うな意見を言う。向野が壁を見つめながら、葛藤を語っていた顔を思い出す。それは何度失敗しても戦いたいという意思を持った顔だ。 『俺、ホントはアスペルガーかもしれない…』  あの日、ソファーで打ち明けた向野の掌の温度を思い出す。その不安を抱えながら、生きてきた彼の覚悟だ。 「あの子は、随分前から、適応障害と言われることを恐れて戦ってきたんだ…」  引籠り、イジメ、ブラック企業。馴染める環境がないなかで、一人…。否、こうなる前は唯一の避難場所であった彼氏の存在を支えに、戦ってきたのだ。 「ずっと、そう指摘されない環境を探して…、戦ってきたんだ。だから…」  もしここで、専門医に頼るべきと判断してしまったら、すべての戦いが無駄になってしまう気がする。 『普通じゃない』とレッテルを貼られないように、普通の人に見られるようにマニュアルを駆使して生きてきたのに、努力しても無駄だったと、思わせてしまうかもしれない。それこそ、生きる気力を奪ってしまうことになるかもしれない。 「僕が……」  傷を抉るような回想を、一から医者に伝えるより――。  根治という言葉のない病と闘わせるより――。  カウンセリングや薬より――。  言えるほどの何かを持っているわけではない。それでも…。 「…不安や痛みは、薬じゃなきゃとれないわけじゃない」  医者の顔をやめた清原は、煙草を咥えようとして、診察室だったことを思い出し、煙草をポケットに戻した。 「愛が勝つとは言わないが、医療が勝つとも言えん」  ザリザリと頭を掻きながらため息をついた。 「えらく時間がかかるんだぞ?」 「医者に任せても根治するわけでもないだろう?」  医者は反論しようとして、舌打ちをすると、ブツブツと下を向いていった。こいつ昔っから、ホントに人の話聞かない…。 「戦い慣れてるなら、案外強いかもしれん。だが、しばらくは四六時中、見張ってやらんとならんから、お前独りじゃもたないだろうな」  それもそうだ。閉じ込めておくわけにもいかないが、まずマンションの7階では、一瞬の隙に飛び降りられたらアウトだ。 「…実家に連れて行こうかと思う」 「長距離移動は難しいと思うが…?」呻る医者に、計画を伝えるとバカを見る目でうんうんと頷いた。 「紹介状を書いておくよ。田舎なら、点滴が自宅でできるよう出張してくれるだろうから」  そうして、バストバンドの替え方講習を始めた。肋骨の骨折が治るまでは暫くの時間がかかるようだ。最低でもその期間は実家にいることになるだろう。  ここを離れる準備が必要だ。  時間を貰って自分の仕事を片づけた。暫く、都内を離れることで、支障をきたす仕事を断った。向野のパソコンIDから、携帯電話会社にスマホの契約を確認してもらい、解除した。「お守り」とやらを、消してしまうことが気にかかったが、スマホ本体が見つかればデータの復活はできると聞き、希望はあると思った。  向野に委任状のサインをもらい、転居届を出した。カード使用を止めてもらい、盗難届を出した。二日前に大量の買い物をされていたが、支払いを止めることができた。キャッシングの審査に、二度失敗していることを伝えられた。向野には伝えずに淡々と処理した。  見つけた源泉徴収票から深夜のバイト先にも連絡を入れた。大きな会社の総務部は、素っ気なく契約解除手続きについて説明してくれた。

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