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36 夏休み 向野
*
「ぶぅー」
聞いたこともない声に目を覚ました。
広い、16畳ほどの部屋が奥にふたつ続いている。凝った彫刻の欄間が見えた。不似合いな点滴の袋が釣り下がっているのが見える。足元に目をやると床の間が見える。掛軸などはないが、一本木のような表情豊かな立派な床柱がある。
どうやら民家のようだ。寝返りうつと、畳の先に縁側が見えた。広い庭と、青々とした木、空が見えた。真っ青で、絵のようだと思った。窓を全開にした部屋で寝ていることを、ぼんやりと把握した。廊下に発声者がいた。
「ぶ、ぶぅー」
赤ん坊だ。目が合うと、ハイハイしながら接近してきた。赤ん坊は近寄ってきて、小さな手を伸ばして顔に触れた。温かい。
「ぶ…」
反応がないのを不思議に思ったのか、その手を振り下ろして頬を叩いた。髪を摘まんで引っ張る。遊んでいるようだった。呆然と、されるがまま見ていた。生まれたままの命は無垢だ。バランスを崩して頭から転ぶと、不思議な恰好で笑った。起き上がって、向野の肩を掴むと揺すって遊ぶ。固定してある肋骨が、少し痛い。針を刺したままの点滴は大丈夫なのかと少し不安になった。
「あ、こーら、ダメだろ」
先ほど、赤ん坊が現れたところに男が立っていた。陽に焼けて健康的で、少し若返ったような三枝の顔が寄ってきた。赤ん坊を抱きかかえようとするが、赤ん坊は彼の手を拒み、向野の頬を掴んで抵抗した。痛い。
「ああー、うー」
「だーめだって、こら」
赤ん坊は抱き上げられると、火を噴いたように泣きだした。よしよしといいながら、若い三枝が廊下へ出た。変わりに左側から本物の三枝が姿を現した。
「大丈夫?」
二人の様子を見送りながら、近寄って腰を下ろす。三枝だ。随分、久しぶりのような気がしたが、ぼんやりと彼を見つめ返す。
「しばらく実家で過ごすことにしたんだ」
三枝が言うと、さっきの若い三枝が戻ってきた。
「ちわーす。弟の航でーす。兄貴は名前のとおり都会に出て、俺は名前の通り海の仕事してまーす。さっきのはうちの長女のナツでーす」
もう少しなんとかならんのか、という顔で三枝が弟を見るとニヒヒと笑った。三枝に目線を向けると相変わらずの穏やかな表情を返す。弟がもう一度「ちわーすー。弟のぉ…」と繰り返すので、
「向野、ハルです」
横たわったまま挨拶をすると、弟の航が、興奮したような顔でドスンと座りこんだ。三枝の肩をバンバン叩く。ニコニコしながらバンバン叩くそれを、三枝は片手で払いのけながら、こちらを見ていた。コンプレックスだったから、フルネームを三枝には教えていなかったことを思いだした。
「ぶっうー」
廊下にまたナツが現れた。
「おぉー! 名前が兄弟っぽいから、あいつは興味津々なのかなー?」
航が向きを変えて手を広げ、奈都がこちらに近付くことを阻止するように壁を作ってみせた。
「まー、なんかあったら俺でも兄貴でもかまわないから言ってー。ゆっくりしてって…よ」
防壁を抜けてナツが突進してきた。小さな手が届く前に抱き上げられ、ナツは身体を仰け反らせてまた泣いた。
「オマエ―、今から男に手を出すなよ」
言いながら航が部屋を出ていく。泣き声が遠くへと消えていった。
「…ごめんね、うるさいかな?」
「さっき…、触った。柔らかくて、いい匂いがした」
そういうと三枝が微笑んだ。実家と言った。どうやって四国まできたのだろうか、記憶がない。三枝の袖から見えるひっかき傷や痣が目に止まった。暴れた、という記憶だけはある。
「…仕事、大丈夫?」
「夏休みにしようと思う。少し、長めの夏休み」
そういいながら三枝が横に寝転がった。いつものように髪を撫でられる。
「君とのんびり過ごしたい」
鼻先を指で突っつき、目を細めて三枝が笑う。眠っていたはずなのに、また眠気が押し寄せた。
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