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38 傷 三枝

 バストバンドを外して身体を拭く。もともと、汗を搔かない体質のせいか、この時期の不安となる汗疹や褥瘡に悩まされることはなかった。しかし、あばらが浮くほど骨と皮だけのやせ細った身体は、何度みても悲しくなった。あれほど、たくさん食べるのに、楽しそうに食べるのに、その楽しみを一つ体感させてあげられないのが辛い。  9月下旬を過ぎても相変わらず暑い日は続いたが、夜になると秋の虫が早くも鳴き始め、涼しい気分になった。昼間は家事全般を担うため、母屋の陽の当たる部屋へ向野を連れていくが、夜は増設を繰り返した敷地の端っこの部屋で、寝ることにした。昔使っていた三枝の部屋は、今や奈都のベッドルームになっている。  夜はクーラーが無くても、窓を開け放っていれば風が通る。ここに着いた頃、向野は連日魘されていたが、最近は回数も減り、落ち着いてきているようだ。手当を終わった向野の手を引いて、縁側から庭へ出る。意識があるときに、少しずつでも身体を動かすようにしている。  リリリリ…。  涼し気な虫の声がする。はじめの頃は怖がっている様子が見られたが、今日の向野は落ち着いている。少しずつでも、慣れていければよいと願いを込め、状況を見ながら連れ出してみる。  庭というより、所有しているだけの土地と言った風情の場所であり、離れから延びる裏山の道は、明かりもなく伸び放題の草や木もあるので、月明かりがなければ三枝も進めない。見晴らしのよい場所まで、向野を背負っていくことにした。 「京さん…」  向野から声を掛けてきたのは久しぶりだった。 「うん?」 「…重くない?」  思わず笑ってしまった。 「倍の体重になっても、大丈夫だよ」 「…ヘンタイ、なの?」  普通の会話に、泣けてくる。意識はここにあらずという向野をずっと見てきただけに、声が届いていることが嬉しい。 「…今日、航さんが、すごく美味しそうに食事しているとこ見て、悔しくなったよ」  見上げた月が歪んで見えた。 「え? 文句ばっかり言ってたけどな」 「なんか、口に運びながら、俺のほう見て『おいしい』って口動かしてた」 「…あいつめ」 「早く、食べれるようになりたいなって思ったよ」  足元を取られ、バランスを崩した。向野が、細い腕を首に巻き付けてくる。ミカン畑を少し歩くと、芝生の庭先へ出る。今は整備する人がいないため、多少荒れてはいるが、平地に慣らされた庭だ。サッカーがしたいという弟のために作られた場所だった。 「明日から、ちょっとずつ、食べれるようにしてみようか」  首すじに息がかかるが、返事はなかった。快復したい気持ちはあっても、意識は思い通りにはいかないのだから、約束はできないのだろう。開けた場所に出て、向野が声を上げる。 「あ、キレイ…」  向野を降ろして、手を引いて歩く。 「満月は……砂浜だったよね」  向野は手を引かれながら、星空に手を伸ばしてそう言った。少しだけでも、自分との記憶が残っていることが嬉しかった。  月明かりに照らされた芝生と、対岸の港、遠くの山並も少し見える。海は月の明かりの下で細波を称え、キラキラと揺らめいていた。  向野の視線が、海へ走るのを見た。自分が子どもの頃見ていた景色を、彼はどう受け止めるだろうか。遠くに見える中国地方。都会だと思っていた街並は、この時間になると、港の明かりと、建設中の明かりだけになる。東京が「眠らない街」と言われる意味を、そこに住むようになって初めて知ったが、学生時代は対岸の光を、まばゆく思ったものだ。 「ここからの景色を、昔は随分と眺めてたよ。あれっぽっちしかない光でも、向こう側にある都会に憧れてた」  遠く霞む港の明かりを眺めながらいう。 「高校時代彼女ができたのに、違和感があった。楔を打つようにわざとレールを決めて、大学進学を理由に東京に出て、彼女と別れて、初めて自分を解放したんだ。  正体なくすほど酒を飲んで、朝目覚めると、横に裸の男が寝ている。そんなことが何度かあってようやく、自分がそっちの人間だと認識した」  向野の頭が肩にぶつかる。色素のない髪が、サラリと肩に落ちる。 「認識、っていうのかな。そうかと思う自分を否定するように、まさかって気持ちが強くなる。戦っている時期に、航に見られちゃったんだ。  少し歳が離れている弟は、東京に居を構えて、仕事を始めた兄貴を慕ってたと思うけどね。頼って上京した日に、兄貴が、男と絡んでるところを見てしまったんだ」 「…見られちゃったんだ」  そう言われて改めて思い返す。 「どうかな? 投げやりだったから、そういう形でバラす、みたいな。俺なんか、頼るなって気持ちの方が強かった気がする」  そうだ、航とあったのはその日が最後だった。 「いつ、和解したの?」 「和解というか、しばらく会ってなかったんだよ。結婚したとか、子ども産まれたって連絡は貰ってたけど、…どんな顔で会えばいいかわからなかった」  しばらくの間が生まれた。向野が静かに言う。 「時間が解決することもあるんだね」  そうだなと頷いた。ここで航に会うとは思っていなかったが、どう対処するかも考えてはいなかった。ただ、連れてきた向野を見て、状況を説明すると協力すると言ってくれたのだ。 「…ねぇ、京さん」  腕に掴まる手に、もう片方の手が重なる。 「自分の辛い過去を人に話せるって、その傷に触れられても、もう大丈夫だからだと思うんだ」 「そう…かもしれないね」  噛みしめながら頷く。 「俺も…話せたら、楽になるかな?」  腕に掴まる手に力が入るのがわかる。向きを変えて向野を正面から抱きしめる。  風呂場の血痕、ベッドの血だまり…。散乱したあの部屋を片づけただけでも、ある程度の想像はできた。想像しただけでも恐怖と狂気を感じたのだ。いまだに、意識と無意識を彷徨っている向野の傷が、そんなことで癒えているとはとても思えない。 「…急ぐことはないんじゃない?」  少しでも早く快復したいという思いもわかるが、話すことで起こるかもしれないフラッシュバックや、話したとしても乗り越えられないかもしれないトラウマを、確信してしまうと取り返しがつかない。 「…でも、京さんの腕に傷があるのは、俺のせいでしょ?」  ふいを突かれた。 「俺が暴れて、俺が傷つけているんでしょ?」 「大した傷じゃ…」 「俺が…!」  頭を強く胸に押し付けて、向野を黙らせた。そうだ、自分が逃げてはいけないのだ。一緒に同じ方向を見ようといったのは自分だ。右腕の小さな蚯蚓腫れを、向野の目線の高さに持ってくる。 「…これは、昨晩の傷。君が悲鳴を上げながら、身体を掻き毟ろうとしたから。止めようと思ったら、ひっかかれた」  胸のあたりがジワリと濡れ、向野が静かに泣いているのがわかる。二の腕を高く上げる。これっぽっちの傷で、向野の負担を増やしたくはない。 「内側にうっすら痣がある。これも君に叩かれてできた。何かを押しのけようとして、叩かれた。…わかる?」  あの嫌な体験を何度も無意識の中、体験しているのかもしれない。それとも、意識の中で夢をみて、無意識に記憶が飛ぶのだろうか。何が怖かったのか、何が辛かったのか、言葉にできないからこそ戦い、悲鳴を上げるのではないかと思う。 「ここにくるまで何日経ったか、君が何度暴れたか、君が覚えていなくても僕がちゃんと受け止めている。君の痛みや恐怖は、僕もこうやって少しだけだけど、受け止めてる」  ぎゅっと、向野が強くシャツを握る。 「この傷は、君が戦ってる証。君のそばいるのは僕だ」 「京さん…が、そばに…いる」 「そうだよ、ずっと、そばにいる」  細すぎる肩に掌を乗せると、向野はさらに手を伸ばしてしがみ付いてきた。 「言葉に…することで、も少し整理できれば、怖くなくなると思ったんだ……」  肩を撫でながら、言葉を探す。植え付けられた恐怖は、言葉にできても頭を整理しても、消えることはない。高所恐怖症の人は、橋の上の写真を見るだけでも怖いと感じるように、その場にいなくても、高いと感じれば紙切れだとわかっていても足がすくむ。 「…時間がかかっても、僕は君をひとりにしない。だから、焦らないで」  部屋に戻って、寝間着に着替えるといつも通り、向野を寝かせた。離れ難くて、隣に入ると向野は身体ごと三枝の方へ向ける。 「ねぇ、手袋とかして寝ればいいかな…」  ため息をつき、 「夏にそんなもの。第一探すの面倒だよ」  というと、しょぼくれた顔をする。 「僕は大したことない。僕が怪我するより、君が傷つくことの方が、嫌なんだ」  腕を枕替わりに頭に乗せると、向野は胸に手を添えてゆっくりと瞬きをした。 「…痛みがわかるから、優しさもわかるんだと思う」  長い睫毛が瞬いた。 「アツシは、優しさも無くしたから、痛みもわからなくなってしまった。そんな気がする…」  睫毛が震えた。  まだ、彼のことを思っている。掛ける言葉が見つからず、寝息が聞こえるまで、ずっと髪を撫でていた。  痛みがわかるから、優しさに逃げているのかもしれない。

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