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39 悪夢 向野
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始まりも終わりもないフィルムを何度も巻き返すように、一瞬、視界をよぎることもあれば、断続的にあの日の光景が目に浮かぶことがあった。思い出すというより、突然見えるアツシの歪んだ顔や、押し付けられたおもちゃ、胸で崩れた菓子パン、動かなくなった太夫…、あの日のシーンが突然現れ、襲ってくる。順序通りではなく、不快感が気ままに連鎖する。繋ぎ目に不自然さを感じないほど、スマートに苦痛と恐怖を与えてくる。
夢だ、思い出しているだけだと、わかっていても身体が震える。目の前に見える暗いシーンを、あの時感じた恐怖や痛みも、何度もリアルに感じている。現実じゃないとわかっていても、振り払わずにはいられない。
「俺のオンナになれ。俺と地獄に落ちろ」
アツシが歪んだ顔で笑う。
「――さん、助けて」
声を出したつもりが、喉になにか押し込まれる。
焦点が合うとそこにあるのは、突き出た腹と太腿の肉に挟まれた肉棒だ。口に広がる生臭さに耐えられず、首を振ると濁った液体で、視界も濁る。何故、こんな奴のモノをトイレで咥えているのかわけがわからなかった。ここに来た理由を思い出そうとして、エレベータの前で呆然としていたら、腕を掴まれた。アツシの笑い声に似ていた。逃げられないと思った。
…何をしにここへ? 誰かに…。
オトコが何故か慌てて出て行った。口の中のものを吐いて立ち上がる。貧血だ。立っているはずなのになにも見えない。フラフラしながら歩き出す。トイレの出入口にぼんやりと影が見える。
「俺のオンナになれ。俺と地獄に落ちろ」
支配されている。アツシの云うオンナのすることを自分で試している。知らない間に、そんな女と付き合うようになっていたアツシの好みに、アツシのオンナになろうとしている。死神と化したアツシが次々と使者を送りこんできているようだ。
「次はアンタ?」
口を濯いで顔を洗う。鏡の中に死神のような自分の顔が映る。鏡の中に、信じられないものを見るような目で、誰かが視線を注いでいた。耳鳴りがうるさくて、よく聞こえない。
「向野、くん」
ふいに声が聞こえて、耳鳴りも頭痛もすっきり晴れた。自分がたった今までしていたことを、唐突に理解して、足元から崩れ落ちた。
京さんーー。
助けて。
あなたにだけは見られたくなかった。
助けて。
あなたの元には戻れない。
助けて。
…もう、死にたい。
「はっ…はあ…はあ…っ」
息を吸おうとするが、声が出るだけで少しも肺は満たされない。息が吸い込めなくて、頭の中で絶えず金属をひっかくような耳鳴りがする。血が廻っていないせいで、暗闇の視界が訪れ、振り払ったはずのあのシーンへ戻される。起きているはずなのに、悪夢の続きは繰り返される。
フラッシュバックというのだと、どこかで分かっている自分がいるのに、あの場所にあの場面に何度も戻される。どうしたらいいのかわからなくて悲鳴を上げる。
「京さん…!」
叫んだつもりでも、声が出ていないことを実感している。助けてほしいと思いながら、見られたくないと思う。三枝を求めているのに、どんどんと汚れていく自分を、三枝が受け止めるわけがない。何度も汚される自分を、三枝が受け入れるわけない。涙がこめかみを伝う。
「俺のオンナになれ。俺と地獄に落ちろ」
落ちていく。地獄へ落ちていく。だから見えないのかもしれない。だから、聞こえないのかもしれない。闇へと落ちて、手を伸ばしても、光の元にいる人に、この手は届かない。
アツシのために、彼の理想へと近づいているのかもしれない。
「…っ、あ…はぁ、はあ…」
息をしようとしても、肺が潰れたように吸い込むことができない。死にゆく身体に酸素などいらないからか。身体を這う虫が、腐りかけた肉を食いつくす。浅黒く残った痣の下で肋骨が溶けていく。呼吸するだけでこんなにも苦しいのは、もう腐食が始まっているせいか。払っても払っても、虫が身体をよじ登ってくる。
地獄へ落ちるのをじりじりと待つより、早く死んだほうがいいのではないか。
…死ねば、いいのか!
どこかで、飛び降りれそうな景色を見た気がする! 身体を起こそうとすると、背中をスルリと掌がすべった。温かいものに巻かれる感覚がある。腰が支えられて、痛みが薄れる。
ぼんやりと人の形が目の前にあるのがわかる。じっとりと搔いた汗を乾いた肌で撫でられると気持ちいい。頬に張り付いた髪が払われる。大きな手がゆっくりと、髪を撫でつけるように頭を撫でると、不快感がなくなる。それでも、小さく息をするたび、胸が痛む。汚染された身体は呼吸一つが針を飲み込むように心臓を刺し、血を流し続ける。
死にたい。
死にたくない。
鬩ぎあい叫びそうになる。
「…あーッ……ッ…」
「……の…くん」
悲鳴を飲み、今かすかに聞こえた声に耳を澄まそうとする。目の前にある胸板に顔を寄せると、嗅ぎなれた甘く香ばしい臭いに、少しずつ呼吸ができるようになる。
「向野くん」
涙が出る。三枝の腕の中にいるようだ。これも夢だ。あの日の出来事を三枝が知ったら、きっともう愛されることはない。こんな汚い身体に、触れてもらえない。
呼吸の仕方を教えるように、鼻先で大きく繰り返されるリズムに合わせ息をする。死神は三枝のふりをしてやってくる。三枝の臭いまでまとって、騙しにやってくる。
死神に抱かれながら、自分を守るように身体を丸めた。三枝への未練を残して死ぬことは、向野が一番望まない、アツシの一番望む方法なのかもしれない。
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