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40 奈津 向野

     *  ハッと目が覚めて、天井をみた。月明かりで、部屋の中が見える。  この家にきて、家の中で寝ていても飛んでくる虫や、夜の草場に潜む虫の存在も、「実在するものだ」と認めると恐怖は消えた。眩暈に景色がゆらぐとあの時の恐怖を思い出したが、薬のせいだと思うと、永遠に続く恐怖ではなく、耐えることでやり過ごすことができた。  そんな風に、男たちも克服できればいいと思った。  ただ、三枝の存在が未だに近いのか、遠いのか、時々区別がつかなくなってしまう。常に自分を守ってくれているはず、腕の中にいるはずなのに、遠くに感じてしまうのだ。抱き上げられただけで、コンビニでスカート中に入れられた手を思い出してしまう。髪に触れようとしただけなのに、アツシのベトついた指を思い出してしまう。こんな汚い自分に触れてほしくないと思う。なのに、悪夢と現実の堺を確認したくて、三枝のぬくもりを求める。矛盾している。触れていたいと思うのに、包まれると罪悪感が強くなる。  誘蛾灯のようだ。助けてと叫んで引き込もうとしているようだ。こんなにも汚く、生きている価値もないのに。  きっと、三枝は勘違いをしているのだ。なにもかも自分のせいで起こったことなのに、三枝は向野を可哀そうな被害者だと思っているのだ。だったら、すべて晒して、早く三枝を解放してあげたほうがいい。  アツシに愛されていると思った。彼の庇護のもとでなければ生きていけないと思っていた。違う、と気付かせてくれる三枝の手を離して、アツシのもとへ戻ったのは自分だ。アツシに頼りにされているからこそ、転職に失敗しても踏ん張ってきたのだ。アツシに褒められたいために、二人の生活を支えるために、頑張ってきたのだ。社会生活不適合者だと言われながら、騙しだまし働いてきた自分は、当然の報いを受けたのだ。ただ、それだけだ。  三枝を巻き添えにしてはいけない。そう思う。  とっくに死んでいたのに、羊の群れに憧れた。壊れた骨にモコモコの綿を詰めて羊のフリをしていたから、オオカミや猟犬にすぐばれて噛みつかれただけだ。痛みなど感じない。骨しかないのだから。  あの日遭ったことを三枝に話せば、三枝は離れていくに違いない。向野の愚かさを理解し、汚れた身体に二度と触れようとはしないはずだ。窓を開けて、出てゆくこともできなかった太夫の代わりに、誰にも見られずひっそりと死にたい。  そっと起き上がってみる。ポトリと音を立てて三枝の腕が布団に落ちる。自分を抱き締めていた腕だ。庭を見ると窓は開け放たれている。小さな島は砂浜よりも岩場の崖が殆どだ。死に場所を見つけるのは簡単かもしれない。  立ち上がろうとすると、手が絡まった。三枝がぼんやりした顔で身体を起こす。 「…トイレ?」  初めての朝、身体に巻き付いていた三枝の手を払っても、起きなかった。後ろからのシャッター音にも、出ていく音にも気づかなかった三枝が、こんな微かな動作で起きてしまう。 「…ぅ」  涙が出る。こんなにも愛されたことはない。消えてしまうことよりもまず、自分は愛される価値もないことを、三枝に知らせなければならない。    *  火に直接触れたような泣き声が響いた。  子どもの頃、ストーブに触れて火傷をした。祖母がオロオロしながら手当をしてくれた。何故ここに、母がいないのだろう。父はどこへいったのだろう。子どもの泣き声を聞くと、あの時の不安を思い出す。 「ああーあ、あーん」  ぼんやりと目を開けると、縁側の部屋で眠っていた。続き間の畳の部屋は相変わらずシンとしている。三枝がいない。  陽の当たる廊下から、航が現れた。腕から落ちそうなほど奈都が身体をそらせて泣いていた。 「なぁに? オシメ変えたし、ミルクも飲んだでしょー?」  よしよしとするようにゆすりながら、抱きかかえている。ぼんやりと起き上がった向野と視線が合うと、航はニカっと笑って近寄ってきた。奈都を向野の膝に置き、 「あーごめんごめん。母さん、何?」  ポケットからスマホを取りだし、次の間へと歩き出した。 「…え?」  思わず声を出したが、航は振り向くことなく奥の部屋へと消えていった。奈都は膝の上で大暴れし、死にゆく蝉のように回転した。もう一度、航の方をみるが現れる様子はない。奈都は顔をくしゃくしゃにして泣き続けている。 「…ど、したの?」  向野が出した声は泣き声に消される。奈都は大声で泣きながら、腕を振って暴れ、向野の平たい身体から滑り落ちた。慌てて手を添え、もう一度聞いてみる。 「どうしたの?」  赤ん坊が応えるわけがないのだが、必死になって手を伸ばした。柔らかくて小さいその存在に、加減を考えながらそっと抱き寄せてみると、奈都は頭の重さに負けるように、ガクンと向野の胸に額を打ち付けた。 「どこか、痛いの?」  向き合う形になったので、おっかなびっくり尻のあたりを抱え、ぐらつく頭を支えるように左手を回した。  泣き声が少し小さくなった。伝えたいことがあるのに、伝える言葉がない自分と同じにみえた。三枝に抱き締められている安心感を思い出し、そっと身体を揺すりながら、背中を指でトントンと叩いてみる。 「好きな人を愛撫する」  身を委ねたいと思ったあの感覚。思い出しながら、立ち上がって奈都をなだめた。 「大丈夫だよ」  声を掛けると、奈都はううっと呻り、泣くのをやめた。胸のあたりの服をぎゅっと握り、おでこを胸に擦り付けて、泣かないようにしている。  なにかを振り払おうとしているように見えた。自分と同じように、悪夢にうなされたのだろうか。泣き止んだものの、服を掴む力は強く、このままだとすぐにまた泣き始めてしまいそうだ。  自分が子どもの頃、なにに落ち着いただろう。向野は必死に考えながら、裸足で庭に出た。 「…どんぐりコロコロ、どんぐりこ」  歌いだすと奈都は耳を傾けるように、首を左胸に傾ける。 「お池にはまって、さあたいへん…」   最近は三枝に連れ出されて、歩くようになってはいたが、寝てばかりの生活で、筋力はなまっている。赤ん坊の体重は意外に重かった。数歩歩いただけで、腕がだるくなり、腰のあたりまでずり落ちる。  奈都がくしゃりと顔を歪める。慌てて腕に力を入れて、抱えなおすと、 「ぶぅ」  注意された。 「どじょうがでてきて、こんにちは」 「やぃ」  泣いてたことを忘れたように、奈都が顔を向けた。    庭の端っこまで行くと、急斜面には青々とした木々があり、眼下には青い海が見えた。無数の船が浮いているのが見える。向野には漁船なのか観光船なのかわからない。  だっこすることに疲れてへたり込むと、片足に寄り掛かるようにして、奈都もおとなしく座った。向野の指を握って遊び始める。 「ああー」  ひっぱるような仕草で、催促されたような気がして歌い続ける。 「どんぐりコロコロ、どんぐりこ」  きゃっきゃというように奈都がはしゃいだ。掴まれた指が痛い。奈都を抱きかかえていた部分が、風にさらされるとひんやりとして心地よい。頭にやわらかい陽射しがあたる。生命を感じた。 「お! 奈都、ご機嫌だなー」  航がお盆を手に近寄ってきた。 「え? なんで泣いてんの?」  言われて頬を擦る。なんでだろう…? 「トウモロコシ、食べる?」  航は隣に座るとお盆を横に置き、返事も聞かずにトウモロコシを二つに割ると、片方を寄越してきた。 「これ、兄貴が作ったかぼすジュース」  奈都に指を握られているので受け取れないとわかると、航がグラスを傾けてきた。ほれほれ、というように揺するので、仕方なく顔を寄せて飲んでみる。 「…すっぱ」  航がゲラゲラ笑った。奈都もつられて笑う。  口直しにトウモロコシに齧りついた。

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