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41 浜辺 三枝

     *  浜辺へ降りてみる。  今日の向野は昨日のようには喋らない。履かせていたサンダルを脱がせ、裸足で歩く。 太陽は燦燦と照り付けているが、痛いと感じるほどでもなく、砂もそれほど熱くはなかった。都会で感じる不快指数の高い、夏の熱気はここにはない。  風や波ででこぼことした砂地は、普通に歩くだけでも足腰のトレーニングになる。向野はバランスをとることが難しいらしく、繋いだ手に時々力が入る。ゆっくりと、海を見ながら狭い浜辺を往復した。  30分くらい歩いて、石段に座る。風が心地よい。もうすっかり秋の気配だ。  持ってきた手提げ袋から、タッパーを出して蓋をあけると、向野の膝の上に置いてみた。視線が落ちる。  以前、ピンチョスを楽しそうに食べていたことを思い出し、一口サイズの小さいおにぎりを作ってみた。ふりかけやアオサ、ピクルスなどを細かく刻んで包んでみたり、中に具材を入れたりと、カラフルなおにぎりを作った。向野は午後まで起きてこないこともあるので、航や奈都の昼食に合わせて食事を作るが、食欲がなく殆ど口にしない。センスのない流動食も大概拒否される。まず、興味を持たせることが第一だ。 「お弁当を作ってみたんだ。お腹、空かない?」  先に手を伸ばして、ひとつを口に放りこむ。そのまま飲み込んでしまうことがないよう、米には胚芽米や玄米、ゴマなどを混ぜてよく噛めるようにした。  向野は黙って持たされたタッパーを眺めていた。  そう簡単にはいかないかと諦め、三枝は2個、3個と立て続けに口に入れた。次のものに手を伸ばすと、左手で遮られた。  向野がじっと眺め、ひとつを手に取った。高菜を頭に乗せた海苔巻き状のおにぎりだ。半分齧って口に入れる。ゆっくりと噛んでいる様子をみて嬉しくなった。 「味、わかる?」 「…しょっぱい」 「ホント?」と手に残っている半分に齧り付いた。「あ…」と向野が横で声を上げる。  カブの漬物と梅干を刻んでまぶしたピンクのおにぎりを次に摘まむと、向野が笑う。 「かわいい、これ」  胸がいっぱいになった。  痛みがわかるから、優しさがわかる。辛いことを乗り越えるから、幸せだと感じる。なんでもない日々の中でも、小さな喜びを感じているのに、もっと多くを望んでいたのかもしれない。向野がこうして笑うことや、楽しそうにする姿を見たいと思うが、誰かに傷つけられることを見たいとは思わない。誰かに傷つけられた過去を知りたいとも思わない。  それはどこか、半端なのかもしれない。痛みを分け合うということは、感じたことを共有することならば、逃げてはいけないのだろう。  海を眺めながら、片膝を立てる向野を横目で見た。彼の癖だ。やせ細った身体はそれでもしなやかな猫のように見える。昨晩は魘されることもなく、静かだった。ただ気が付くと息苦しそうにしていたので、抱き寄せた。腕の中で、両手を縮め丸くなって眠る向野が愛おしいと思った。  あんなことがあったあとだから、暫くは抱けないのだろう。事件を連想させる行為というより、そのものが恐怖かもしれない。  あの雨の日、酷い抱き方をした。  彼氏と比べて選ばせるような意地悪をした。そんな風に強引に、上書きすることができれば、事件のこともやがて薄れていくだろうか。…いや、そんな単純なものではないだろう。 眠たそうな目で向野は、ずっと海を見つめている。少し伸びた髪を、手を伸ばしてそっと指に巻き付けてみた。  伏目がちな目で、向野はそれを確認するとされるがままになっている。 …また、自分だと理解していないようだ。ここに三枝がいるということを、わかっていないようだ。ついさっきまで笑っていたのに。 「向野くん」  呼んでもぼんやりとした瞳に、自分は映らない。何度も呼びかけることで、ようやくハッとしたように、向野が首を上げるのがわかった。 「…疲れた? もう帰ろうか?」  向野が辺りを見回して、躊躇うように目線を合せた。そのまま腕を伸ばして、向野の肩を引き寄せると、全身総毛立つようにピクリと身体が震える。  そばに居る。まず、それを理解させてあげないといけない。やがて、向野がポツリと言った。 「恋の終わりって、いつだと思う?」  波を眺めながら静かに考えた。  まだ、傷つけられてもまだ、彼のことを想っているのだろうか。嫉妬に歪みそうな胸の空気を深く吐き出して、自分のことに切り替える。  一夜で終わる名前も知らない相手もいた。初めての彼女も、何故付き合いだしたか今は思い出せない。「恋」と言える対象は誰だったろう? その終わりがどうだったかを辿って口にした。 「急に昨日までの熱情がなくなって、終わったなと思ったこともある。僕じゃないんだ…、そう気づいて妙に頭が冴えたこともあるな…」 「…僕じゃない」  呟く向野に視線を投げる。頷く代わりにゆっくりと睫毛を伏せる彼を見た。  向野の中で、彼とのことを終わらせようとしている最中なのだろうか。彼氏への想いを終わらせることで、悪夢や恐怖も封じ込めることができるならいいのに。

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