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42 向野の父 三枝
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こちらに来て3週間が経っていた。点滴治療は最初だけで、最近では量は少ないものの、向野はちゃんと食べるようになっていた。相変わらず日中眠ったりはするが、朝起きる時間や寝る時間も規則的になり、天気がよければ三枝と散歩するようになった。航がいうように、奈都と過ごすことで、少しずつ健康的になっているように見えた。
拒否反応を叫んだり暴れたりで示していたのに、最近では自分で意識してそれらを押さえこんでいるようだった。ただ、限界はある。暗い廊下で航とすれ違いざまぶつかった。よろけて転びそうになった向野の手を引いたとたん、悲鳴を上げた。抑えようとして蹲った向野に触れたとたん、また声を上げた。
「触らないで!」
「僕だよ」
「ダメ! 京さんには……ッ!」
言葉を飲み込んで、丸まった向野に手を伸ばすことができなかった。…自分を拒んだ。
航に「しっしっ」というように手で払われ、離れた。航が丸まった向野の隣に座り込み、黙って見守る。それを離れた位置で見守った。航が何か声を掛けていていたがこちらまでは聞こえなかった。やがて、向野がゆっくりと起き上がり、何か言葉を交わし立ち上がる。
こちらに向かって歩き出したので、道を譲るように壁に寄りかかって待った。
向野は通りすぎることなく、抱きついて胸に顔を埋め、何か呟いた。
「…ごめんなさい」
航は何を言ったのだろう? 廊下の先を見ると航はすでにいなかった。
母は航の嫁に付き添って、病院で寝泊まりしている。着替えや差し入れを持って病院へ行くと、昔より元気になった母の話が止まらず、聞いてやる時間も増えた。父は相変わらず仕事人間で、深夜に帰宅する。対岸の福山市まで片道2時間も掛けて通勤しているのだから、仕方ない。サラリーマンにはなりたくないと、子供のころ密かに思ったものだが、いまだにそれを続けているということが、今では称賛に変わっていた。
口数の少ない父は、航や三枝がそろって家に帰ってきていることに対して、特になにも言わない。航が朝の漁を終えて朝食につく時間に、父がわざわざ合わせていることが、昔とは少し違う。
快復という意味では、自分以外の存在を認めるということは前進なのだろうと思う。
奈都が向野に懐いているようなので、航は安心してバイトを増やしたらしい。昼間、漁船で観光客を釣りや回遊に舟を出すようになった。向野は意外に赤ん坊の相手がうまいらしい。知らない間におシメや食事の世話まで、向野は抵抗なくやっていた。
「ほらぁ。飲み会とかで、先に潰れる奴がいると深く酔えなくなるじゃん。あれと一緒で、保護しなきゃって責任感が生まれるもんだよ」
それとこれとは違うと思うが。
「自分より弱いものがいると、自分がしっかりしなきゃと思うのが人間なんだよ」
航のように楽観的にはなれなかったが、奈都と向野が遊んでいても、以前よりは安心感があった。手の届く距離に居なくてはという気持ちが薄れていた。
自分とわかって拒否をされたのは、あの一回限りだった。注意深くみていれば、時々、身体に触れたとき、身構えることがあることも知っていた。それでも、散歩のときも、寝るときも向野の方から手を伸ばしてくる。嫌われているわけではないと思う。
向野が一人で立ち上がるだけで、そのまま崖から飛び降りてしまうのではないかと不安になるが、奈都といるときは、そんなことも過らなくなった。
向野の父親という人から電話があったのは、そんな時期だった。
実際、不動産屋には伝えたのに連絡がないことで、三枝は少し向野の父親について不可解に思っていた。親として不安はないのだろうか。挨拶をするなら三枝のほうから向かわなくてはならない立場だが、どこの誰ともしらない男が、自分の息子を預かっているというのに。成人はしているのだから、保護が必要な存在かと言ったら義務ではないかもしれないが、連絡なしでもよいものなのか。退去した状況を説明しないわけがない。なのに、こちらには連絡ないのはどういうことだろうか。
考えながら、向野と海岸線を歩いているとボートが近寄ってきた。
「だぁ」
三枝の腕の中でウトウトしていた奈都が声を出すと、
「あ、ホントだ」
といって向野が手を振った。二人の会話は成立しているらしい。ボートが横について航だとわかった。
「海釣りしたいって客がさー、船酔いして逃げたわー」
向野が興味深げにボートに近寄る。電話が鳴ったのはそのときだった。
『もしもし、春山と申しますが、三枝さんですか?』
「…はい」
友人ではない。仕事関係にはいない名前だったが、少し向野から距離を取った。
『その、向野ハルの父親です』
「え?」
まさかの言葉に聞き直した時、後ろでエンジン音が高くなった。
「じゃー、ちょっと行ってくるねー」
航の声に振り向くと、ボートに向野の背中があった。
「え? 嘘だろ、待て! 航!」
思わず大声を出してしまったため、奈都が泣きだした。呼び止めたかったが、それ以上続けることができず、手を振りながら遠ざかっていく航と、向野の背中を見送った。
奈都をあやし、おとなしくなったのをみて、スマホを耳に戻した。
『お取込み中でしたか?』
小さくなっていくボートを睨みながら、適当な岩に腰を下ろした。奈都が眠りに落ちる。
「いえ、大丈夫です」
そう答えると、連絡が遅くなったことを父親は謝罪した。低く、冷静な声だが、向野のように滑らかな説明ではなく、少しずつ、考えながら話しているような感じだった。
遠方に居たので帰国に手間取ったが、不動産屋に直接会って、退去の事情をまず聞いてきたそうだ。
『それで、三枝さんのお宅へ向かったのですが、どうも、行き違いだったらしくて、郵便受けとゴミを漁りました』
「…はい?」と思わず聞き返した。どうして後半に繋がるのか、理解ができなかった。しかし、彼はそのまま話を続ける。
『ゴミから、ハルがお世話になったんだろう病院がわかったので、まずそちらに伺いました』
言葉は丁寧だが、とんでもないことをしている。
ゴミからとは? レシート類は確定申告用にとりあえず、すべて取っているが、そういえば、頓服薬としてもらった袋を捨てた。あれに友人のクリニック名が入っていただろうか。記憶にないが、わかるとしたらそれくらいだ。郵便物はこちらに来ると決めて止めたから、大した情報はないはずだ。
『ハルが暴行されたことをそこで知りました』
父親は淡々と話し続ける。
『で、同居人を探しました』
「…同居人をご存知だったんですか?」
その存在を思うだけで、三枝の声にも怒りが滲む。
『はい。高校の同級生という紹介だったと思います。何度か、帰国するたびに、ハルに会いたくて突撃して…怒られたりして。そいつ、居ましたからね』
遠く、沖に居るはずの向野を探す。救命胴衣もつけずに出たが、航はちゃんと着せてるだろうか。ふいに、海へ飛び込んだりしないだろうか。
『調べてみたら、どうもプーらしくってね。ま、うちのもしょっちゅう転職してたみたいですから、二人とも、あんまり仕事が続かないってのは一緒だったみたいですけどね。同居人の方はもう、今年に入ってから働き口を探さなくなってたみたいですよ、完全にヒモですね』
「そうだったんですね」
やっぱりという気持ちは、ますます自分の判断が甘かったのだと自戒させた。
『ま、それをハルが了承してたのならしょうがないですけど、どうも最後の方の家賃やら公共料金については、そいつがくすねてたらしいんですよね』
「…らしいとは?」
急に手の中の奈都が重く感じた。抱えなおして、落ちないように姿勢を直す。
『春先に、事件を起こしてるんですよ』
「え?」
次から次へと驚く言葉ばかりが出てくる。向野も聞いたという『留置』というのはそのことか。
『どうも風俗のオンナにハマったらしくてね。通い詰めて店だけじゃ足りず、そのオンナの部屋に侵入して強姦しようとしたらしくってね。逮捕されたんですよ。でも親がね、どこぞの県議会議員らしくて、金で出てきちゃったらしいんですわ』
言葉がでなかった。
『でね、またどこかの風俗で気に入ったコ見つけると、入り浸って暴力で居座って、飽きると別のオンナ探してって。そんなことを繰り返すうちに悪いのに会っちゃって、クスリにまで手を出すようになったらしいんですわ』
長くしゃべったせいか、心からか、電話の向こうでため息が聞こえた。
「最低な奴ですね…」
もう一度ため息が聞こえる。
『ですね。私もクズな親ですけど、向こうの親も結構なクズでね』
「……」
連絡のないうちに、この人はそんなに動きまわっていたのかと驚いた。
『踏み倒された家賃だの、横取りされた分を返せと言ったら、適当に札束投げられました』
淡々と話していたが、少し語気に揺らぎがあった。言葉通り投げられたのなら、自分なら拾わないだろう。
『それはね、取り返したハルの口座の方に入れておきました。あ、お友達のお医者さんに、ハルから奪ったらしいものは預けてありますんで、あとで回収してください』
「奪ったもの?」
『財布と壊れたスマホ、ですね。猫も見つけたんですけど、女の子がね、…泣かれちゃうと取り上げづらくてね。可愛がってくれているらしいから、ハルも譲ってくれるかなって…』
想像はしたくないが、そんな男が転がり込んできたら、良い生活ができたとは思えない。逃げられない恐怖に耐えながら、猫は、唯一の救いの存在になるのだろう。
『でもね…』
父親が細く、長く息を吐く。
『受けた傷は、慰謝料とかじゃない。返してもらう形はないと思うんですよ』
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