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43 海の上で 向野

     *  そんなことも知らずに、向野は沖であくびをした。 「ハル。オマエ、釣りしたことある?」  暖かい陽射しと潮の匂い。青い海面を覗いても、下に魚がいるとは思えない。吸い込まれそうになるので、覗き込んで見ることはせず、残してきた三枝がいるあたりを眺めた。水面でキラキラと光が反射する。海は初めてだった。 「名前で呼ぶな」 「えーやん! 奈都とは呼び合ってるくせにー」 「あと、オマエって呼ぶな、いっこ上だぞ」  航は子どものように「イ―だ」と歯を剥き出して笑ったあと、向野の救命胴衣を整えなおす。 「下手くそ」  あばらはボートの振動でかなり軋んだ。まだ完治していないようだ。服を着るのも人の手がいる。こんな状態で釣りなどできるわけがない。 「持ってればいいよ。かかったら俺が釣ってやるし」  もうちょっと、ちゃんとしたもの食わないと、治るものも治らんぞと、航はムカつく顔を向けて竿を振った。そのまま渡され、しかたなくグリップを握る。  隣でもう一本竿を振り、航が腰を下ろす。 「なーんか、ここ来てよかったなぁ」  話しかけるでもなく、航が呟いた。 「ホント、田舎嫌いだったんだー。帰りたくないなーって思ってたし、ましてや兄貴にも会いたくないなーって思ってたのに。どっちも一緒になるともう、なんか笑うわなー」 「兄貴…も、嫌いなの?」  兄貴という言葉がなんだか羨ましく思った。田舎が嫌い、兄弟して訛りがでないのはそういうことなのか。 「嫌いっつーかぁ、うーん…」 「…オトコとイチャついてるとこみて、キモイと思った?」  あばらが軋む。航が鼻を膨らませながら、こちらを見る。 「えー? そういうこと言う? オマエで想像すっから、やめろやぁ」  がくっと肘が落ちそうになる。自らを卑下するつもりだったが、航の受け止め方は独特のようだ。竿を海に落としそうになって、慌てて航が支えた。 「ウソウソ、いや、なんかね。兄貴はそうなんじゃないかなーって、薄々わかってたから、別にそれほどショックじゃなかったんだよね。あっちは結構、気にしちゃったみたいじゃーん? 自分からカミングアウトしたようなものなのにさ、それからずーっと音信不通でさー」  酷くなーい? 俺が悪いわけじゃないのに。と女子高生のような口調で、航は文句を言い続けた。 「ナイーブすぎるんだよ、アイツ」  そういうところはあると思う。 「だからさ、アイツに言えないことあったら、俺が聞いてやるからさ」  いつもニヤけている航が、少しだけ真面目な顔にみえた。 「重い荷物は、降ろしちゃいなよ」 「……」  こんなタイミングでグリップにビンと力を感じた。察しよく、腕が添えられた。 「リール巻いてみ?」  負担はない。言われた通りリールを巻くと、少しずつ重みを感じ、合図されては止め、また合図でリールを巻く。航がグリップをボートと膝で挟みながら、手を添えてくれた。航の二の腕が筋肉で盛り上がる。三枝の腕とはまた違う。 「でかいぞ、これ」  水面にうっすらと魚影が見えた。膝で押さえたグリップが暴れ、向野は慌てて両手で掴むと、航がリールを握りながら網を投げた。  網が海面から掬いあげられると、魚がビチビチと悶えた。 「釣れたねぇ」 「なんだよ、もっと感動せい!」  航が笑いながら、魚にかかったフックを外し、持ってみろというようにビチビチと暴れるそれをこちらに差し出してきた。身体ごと避けると、笑いながらボックスに投げ込んだ。再び餌をつけて釣り竿を振るとまた、手渡してきた。  再び静かになると航が続けた。 「俺の嫁がそうなんだよ。俺はナイーブじゃないけど、女じゃないからなー。私の悩みはわからんわって。ここ来る前はずっと喧嘩してたの。奈都が生まれてからずっと、体調悪くてね。母親したかったのに、できないとか、そういうの、女じゃないとわかんないって」  子どものように口を尖らせる。 「そんで母さんに頼ったのね。母さんが、つきっきりで看てくれて、最近ちょっと元気になってきたみたい」 「…病気?」 「それも教えてくんなかったの。女性の病気? 子ども生んだばかりなのに、死んじゃうのかと思って怖かったらしいよ」  ナイーブじゃないから、逆に伝えづらかったのだろうか。  水面で白く光が反射する。海の色は浜辺の色とは違い、底のない深い色だった。これを青というのだろうか。潜ってみたら青くみえるのだろうか? 釣り糸の先をじっと眺める。航が片手で釣り竿を引く。先に付けた餌が消えているのをみて、付け直した。 「 “らしいよ”って話も聞けなかったら、俺はきっと自信無くしてたと思うんだ。でもさ、そんなことより、言えない辛さの方が、きっと重いと思うんだ」  キラキラ光る水面を見続けていると、目がつぶれそうになる。瞼を閉じても白い残光が揺れる。自分が抱えていることは、光の中にいる人間に話すようなことではない。 「…それは、家族だからでしょう」  そう口にすると、航が驚いたようにこちらに視線を向ける。 「え? 俺とオマエも家族でしょ?」  目線を向ける。何言ってるの? そんな顔をしていただろうか。 「え? 何その、バカを見るような顔は? 家族でしょー? だから実家に連れてきたんでしょー?」 「バカ…そんなわけない…」 「え? そりゃオマエだ。バカバカバカ。あ!」  握っていた釣り竿が大きく揺れた。危うく持っていかれそうになって、慌てて航が握るが、その時にはもう重みがなくなっていた。逃げられた。 「もー、バカバカバカ」といいながら、航が餌をつけなおす。ここまでバカ呼ばわりされたことはない。 「京さんは、治療のためにいい環境を提供しようと思って、ここへ連れてきただけだ。別に家族として紹介しようとか、そういう状況じゃない」 「そういう状況じゃないんだったら、離れからオマエを連れ出さない。そっとしといてくれと言われれば、俺たちは誰も近寄らないけど、わざわざオマエをこっちに連れてきている。それは、俺たちとの交流を望んでいるからだろ? 俺たちに助けを求めているからだろ?」 「……」  そういう意図があったのだろうか。 「世界は二人っきりのものじゃないんだ…」  なぜか、出会ったころのアツシの顔が浮かんだ。言われるまま、好かれたいために、自分を変えた。無理をしても、周りを遮断しても、二人でいたいと思った。二人きりの世界だった。 「良くも悪くも関わる人がいて、生活は成り立っているんだ」  会社の人、バイト先の人を思い出す。アツシの元へ戻ると言った自分を、引き留めようとした三枝の顔を思い出す。その時の三枝も同じようなことを言っていた。自分は理解していなかった。 「母親がいない。なんとなくそれを感じて泣く奈都を、オマエが癒してくれている。多分、成長したら忘れちゃうかもしれないけど、俺はずぅーとオマエに感謝する。できればこの先、兄貴のとこに遊びにいけば、オマエにも会えるといい、そんな風に思っている」  なぜかあばらが軋んだ。 「…オマエ、ホントに楽観的だな」  そういうと航はまた、口を尖らせて頬を膨らませた。いい奴だと思った。そんな楽観的な未来がもしもあったら、幸せだろうなと思った。 「ハルって名前は季節じゃないんだよ…」  航は、こちらに向けていた視線を海に投げた。そういうところは、兄弟で似ているなと思った。 「根無し草だった父にべた惚れだった母は、父を繋ぎとめるために俺を生んで、父の呼び名をつけたんだ。その証拠に、子どもを産んだくらいじゃだめだと知ると、母は俺を捨てて出て行った」 「…いきなり重いな」  父を繋ぎとめるための道具だった。それを知って、自分の名前が嫌いになった。自分の存在が嫌いになった。引篭もるようになったのはそのせいだ。三枝に名前を伝えなかったのはそのせいだ。 「オマエらが、易々と呼ぶからバカらしくなったけど」 「俺と誰? あー、やっぱオマエ、奈都としゃべれるんだなー」  クッソ―と呟く航をみて、ホントに馬鹿らしく思えた。悩んでいたことが馬鹿らしくなる。 「ただ、自分を否定しても、生きていかなきゃならない。巻き添えを食う形で迷惑をかけた祖父母になにか返したいと思って、勉強して高校に進学した」 「あー、おばあちゃん子だったのか。道理で童謡をいくつも知ってるはずだ」  奈都をあやしていたのを聞いていたのか。騙されたな、と思うと同時に、あきれるほど論点がずれている航の返事を心地よく感じた。

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