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45 覚醒 向野

 *  明け方から雨が降りだしたようだ。窓を開けてみると、空も海も白く靄ってみえた。  少し肌寒く感じて、三枝のシャツを羽織り母屋へ向かった。いつも食事をしたり、寝転んだりしている部屋に三枝が見当たらない。縁側の方から隣の部屋を覗いてみるが、障子で閉められた部屋の中は覗えない。奈都がまだ眠っているのかもしれない。航はいつも夜明け前に出かけて、朝7~8時に帰ってくるという。時計を見ると6時半。こんな雨でも航は漁へ出るのだろうか。三枝は朝の支度で忙しい時間だろうか。  規則正しい生活は体調のリズムを整える。バカにならない定説で、夜同じ時間に眠り朝のうちに起きるようになってからは、自分でも少し体調がよくなった気がしていた。ただ、これほど早く起きたことはない。 「京さん…」  雨のせいか、家の中は酷く静かだった。時計の音が響く。  チッチッチッ――。少し遅いのでは? そう思うくらい重々しく時を刻んでいる。  急激に不安を感じた。いつもそばにいると思っていた。三枝がいないとしても、航や奈都がそばに居ることが当たり前になっていた。広い屋敷の中を歩き回っても人の気配がない。黒光りする廊下をペタペタと音を立てて歩いた。広い家屋の廊下は照明がなく、窓からの自然光と部屋の明かりに頼るしかない。普段、風呂や台所へ向かうときは、いつも誰かがいたので、それ程不安を感じなかったが、一人で歩いていると、夜の校舎よりも長く暗く感じた。 「京さん」  この時間に起きてきたことはないから、単に家事に勤しんでいるだけなのかもしれない。奥にある台所を覗き、風呂場を覗いた。掃除でもしているのかと思ったからだ。  ふいに雷に打たれたように、身体がビクンと跳ねた。これまで全く考えもしなかったことが、頭をよぎったからだ。  部屋の掃除――。記憶からすっかり抜けていた。散乱した部屋がちらついた。  退去の手続きをしたと、ぼんやりと聞いたが、三枝があの状態のまま不動産屋に明け渡すわけがない。  ゴツンと音がして、膝から崩れたことに気付き、両手で上体を支えた。悲鳴を上げそうになったが、喉が空気に擦れてざらりと音を立てるだけだった。  事件のことを三枝に話すべきかどうか悩んだことはあったが、あの部屋を思い出すだけで、知られたくない気持ちの方が強かったのに、すでに知っていたのだ。医者も三枝の友人だ。怪我の具合も自分以上に知っている可能性だってある。  話す必要もないほど、三枝は知っているのだ。そんなことにたった今まで気が付かなかったことに衝撃を受けた。丸まったままの指先が小刻みに震えている。  本当なら専門医に連れていかれてもしょうがないのに、三枝は自分の仕事や生活を捨てて、向野の面倒をみることを選んだ。病名を付けられること。それをずっと拒み続けた人生だから、三枝はこんな状態でも自分を棄ててでも、傍で見守ることを選んだのだ。 『言えない辛さの方が、きっと重い』と航は言った。  自分のことだと思っていた浅はかさに吐き気を覚えた。三枝は“知っている”ということを言えないでいたのなら、自分以上に苦しんだのではないか? 向野が怪我したことを自分のせいだと思い詰めてしまうこともある。  フラッシュバックが起こらないように、気を遣ってくれていたことを知っている。けれど、寄り添うことで介護者が同様に精神を病むことも多いという。自分のせいだと思い悩むことで、死を選ぶこともあるという。  人の気配のない家。雨。海。心臓の音が早くなる。こんなところに座り込んでいる場合ではない。 「きょ…さ……」  震える手で支えて立ち上がろうとするが、かまいたちに足を掬われたように、冷たい空気に転んだ。  またアツシの嗤い声が聞こえた。 「オマエの大事なものを奪ってやる」 「…やめて!」  慌てて立ち上がって長い廊下を走る。白い雨、遠い海、アツシが自分の代わりに連れて行ってしまったのか。そう思うと景色がぐにゃりと歪んだ。死に場所を探すのは難しくないと思った自分以上に、三枝なら簡単に見つけられるかもしれない。崖から落ち、海へ飲まれる三枝の姿が目に浮かび、つんのめるようにして玄関までたどり着く。 「やだ……」  裸足で歩き出すと、雨に濡れた縁石に足が滑った。昨晩、久々に幸せな気分で眠りに就けたのは、夢だったのか。頬に雨が当たる。雨は激しくはないが、一瞬で全身がずぶ濡れになった。身体が重くなって動けない。立ち上がって走ろうとするが、泥に足を取られて転びそうになる。  ドン、と音を立てて顔が何かで覆われたかと思うと、身体が浮いて、玄関まで押しやられた。玄関の扉が閉められて、誰かに抱えられたまま土間にペタリと座り込んだ。 「……っ、…」  眩暈がする。息ができずに、見えているはずの視界も認識できない。 「息、吐いて」  息、息ができない。濡れた両腕を持ち上げられて、掌で口元を覆う形をとらされる。 「手の中で、呼吸が聞こえるだろ? 吸わなくていい。音に合わせて息吐いて」 「はっ…はっ……」  言われたとおり、手の中の呼吸に耳を澄まし、息を吐く努力をした。声の主はそっと背中を撫でてくれた。耳鳴りのせいでうまく聞き取れないが、航の声だろう。 「息を吸うのが難しいときは、吐けばいいんだよ」 「そう。音を聞いて。うまいよ」  三枝に似た口調は兄弟のせいだろうか。擦られた背中が温かくなって、涙が零れた。呼吸できるようになって、口元に手を当てたまま声を出してみる。 「京さん…を、助けて…」  暫く間があった。手をついて、頭を下げる。お願いだから、あの人を、大切なあの人の命を守ってほしいと思った。 「京さんを、助けてあげて」 「あいつは、大丈夫だよ。君がいるから」  土下座してもいい、もっと深く頭を下げようとした時、両手を取られた。背中を摩ったときのように、温められる。 「俺じゃ、助けられない…」  フルフルと何度も首を振ると、三枝がするように髪を撫でられた。 「助けようと思わなくたって、君が生きていてくれるだけで、助けられてる」  廊下の奥から足音が聞こえてきた。声が耳元に近付き、囁きになった。 「好きな人が生きていることは、生きていく活力になる」  トンと胸を叩かれた気がした。暗い雨雲が日差しに割かれるように、不安な気持ちが目に見えて晴れる。ゆっくりと声の主の顔をみた。 「わ! わあぁぁ!」  廊下の奥から近付いてきた声が、航のものだとわかり、改めて前にいる男の顔を見た。ぼんやりと眺めていると、航が後ろから引き寄せて、顔を覗き込む。 「大丈夫か? どした?」  航の慌てた顔をみて、もう一度顔を向ける。どう考えても、ずぶ濡れのスーツ姿の男は三枝の父親ということだろう。中年というより、もう60前後だろうか。髪に白いものは混じっているが、航と同じように陽に焼けて健康そうだ。向野と目が合うとニッと笑って立ち上がり、廊下へ上がった。 「え? オヤジ、濡れたまんま歩くなよ!」 「どうせ、掃除するだろ? あー、俺着替えてすぐ出るからー、お風呂、その子使わせてやってー」  なんだよ…といいながら、航に手を引かれて立ち上がった。 「もー、オマエ、雨の日くらい裸足で出るのやめろよなー」  そういいながら引っ張られ、泥だらけの足で三和土に上がってしまった。 「京さ…」 「あー、親父の車がエンストして牽いてもらってる。いつもならこの時間、オマエ起きてこないし、俺、時化で今日仕事ないからいいかって…」  もー、怪我してない? と、風呂場まで連れて行かれ、航は態勢を変えながら身体を見る。無事なのかと思うと腰が抜けて、脱衣所でペタリと座り込む。航は乾いたタオルを投げつけ、湯舟にお湯を張る準備をする。足首を引っ張られて、風呂場のタイルに足をつけるとシャワーで丁寧に泥を落としてくれた。 「もー、泣きたいのこっちでしょーが」  正面でヤンキー座りした航にデコピンされて、涙が飛ぶ。こういう時くらいちゃんと聞いてほしい。涙をすすり上げた。 「どうしよう。京さんには、見られたくないと…思ってたとこ、全部……」  航は面倒くさそうに頭をガシガシと搔いた。 「そんなの、ワイドショーやゴシップと一緒だ。事実や事情を知ったって、受け止め方は人それぞれ。当事者の気持ちはわからんだろ。オマエがそこで感じた痛みや恐怖は、この口から出たもの以外、すべては推測だ」  航が目を合わせながら、口元を指さす。 「言って楽になるなら聞いてやる。見られたくないと思うなら、消してやろうと思うし、辛いと感じてるなら和らげてやりたいと思ってる。ただそんだけだ。自分の推測で潰れてしまうような男は三枝家にはいねぇんだよ」  心臓を掴まれたようにキュンとした。航は下口唇を突き出して、真剣な目線を向けてくる。先程、三枝の父親に囁かれた言葉が蘇り、胸がさらに熱くなった。  それでも自分は愛される資格はあるだろうか。重荷ではないのか。三枝は自分以上に傷ついているのではないか。さっき、不安が晴れたと思ったのに、すぐに落ちてしまう。そういう自覚はある。もどかしいくらいに、二極の感情に振り回されていることもわかっている。それでも、どうにもならない。  胸の痞えを航に吐露した。  湯舟に浸かってだいぶ落ち着いてきた。  普段なら気付いていたことが、つい先ほどまで思い至らなかった。 「オマエはまだ万全じゃないんだから、今は無理しなくていーんだ」  航は平然とそう返した。 「きっとな。欠落しているものがあるんだよ。事件のせいか、後遺症かわかんないけど…。万全じゃないってことは理解しとけ」  直接的な言葉を選んだことに躊躇うように航は、途中言い淀んだ。でも、今落ち着いて思えば、確かにその通りなのだろうと感じる。部屋のことだけではなく、会社にしても部屋の管理会社にしても、三枝が自分に確認してくることはなかった。と、いうことは、自分なしでも問題なく処理できてしまったということだ。ある程度の情報が、三枝の元には集まっているということだ。改めて、三枝の覚悟を知った気がした。  航の言葉をもう一つ思い出した。 『世界は二人っきりのものじゃないんだ…』  アツシとの生活を守るために、仕事やバイトを続けてきたが、上手くいかなかった。バンドメンバーの募集や活動にしてもそうだ。二人っきりの世界を守ろうとしながら、隔絶することなく、中途半端に社会に関わろうとしていたことが、そもそもの間違いだった。平日サボって恋人と出かけるなんて普通の社会人ならしない。なのに、それを責められて怒っている自分の方が間違っていたのだ。 『自分を理解していない』 バイト先で言われたことはそういうことだと、ようやくわかった気がした。

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