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46 三枝 向野
「向野くん」
部屋に戻ると、三枝が待っていてくれた。肩と腰のあたりに腕を回される。力強さを感じるのに、乱暴でも強引でもない。この家の人はみなそうだ。それでもやはり、誰の抱き方とも違う。
「ごめん…なさい」
大騒ぎになってしまったことを謝る。一度、ぎゅっと抱き締めると、三枝はすぐに頭から被ったバスタオルに手をやり、髪の毛を拭くようにゴシゴシと始める。
昨日はとても良い日だった。ふざけてじゃれあった。快復に向かっていると思っていただけに、まだ手の掛かる奴だと思われるのは悔しかった。航のいうとおり、そういうこともしょうがないと、今は諦めるしかないのか。
「お父さんにまで、迷惑かけちゃった…」
濡れた髪をタオルで拭いてくれていた手がとまり、三枝が覗きこんできた。微笑むでもなく、ドヤ顔でもなく、当たり前の顔。「おいで」そう言われた時の顔と一緒だ。この顔が好きだと思う。
「うちには、迷惑だなんて思う人はいないよ?」
後頭部をリズミカルに拭かれると気持ちがよい。
「君に手を貸してあげられたことを、親父は自慢げに言うし、廊下と玄関掃除してやったと航もえばりやがる」
情けは人の為ならずっていうけど、巡り巡って自分に返ってくることを知ってるからね、と付け足されたが、そんなものだろうか?
髪を乾かし終わって、少し寒かったのだと伝えると、部屋の隅に重ねられた箱から、服を引っ張り出してくれた。
「冬を越すかもしれないって、思った?」
三枝の大きなカーディガンを羽織る。
「期限は考えなかったけど、こっちは夜寒くなるしね」
君の冬物を買いに行かないとかな? と笑いながら付け足す。
隣に座って腕を絡め、雨の庭を眺めた。
「俺の面倒みるのがしんどくなって、京さんが死んじゃったらどうしようって思った」
言うだけで、また涙が滲んでくる。三枝の腕にしがみつき、両膝をたてて身体を丸めた。
「面倒だなんて思わないよ。暴れて怪我しないように、無条件で君を抱き締めて眠れる。奈都と遊んでる君や、ぼんやりしているだけの君を見ているのも、見張っているというより、幸せな役目だと思ってる」
「…いつまで続くか不安じゃないの?」
「君はそうやって藻掻くだろうから、そんなに長くはないと思ってる。ただ、もう大丈夫と思って一歩踏み出しても、パニックになるかもしれない。無事に何事もなく長年過ごせたとしても突然、ってこともあるかもしれない」
腕にすがりつきながら、頷く。
「それでも一歩踏み出したいと思うなら、君の手伝いをするし、そのあともずっと、君の手助けをしていければいいと思ってる。幸い僕は、そういう自由がきく働き方をしてるし、悲観する未来はひとつもない」
未来なんて言葉は今の時点で微塵もない。
悪い考えが頭を過る。
共依存――。自分にべた惚れの状態でいるなら、二人きりの世界に引き込むことは簡単なのではないか。頼れば頼るほど、自分だけを見つめてくれるのではないか。
「外には出たくない。誰とも関わりたくない…」
力なくそう呟くと、
「今はそれでもしょうがないよ…」と三枝も力なく答える。
「それでも、向野くんは知識を磨くことが好きだから、仕事の達成感も知ってるから、閉じ込めようと思っても、外の世界に憧れると思うんだ」
三枝が身を屈めて、顔を覗き込んできた。
「そうじゃないと、身を削るほどの働き方なんてできないよ」
握った手に力が入る。
「人と話したくないというなら、僕が窓口になって君の仕事を取ってくることもできる。でも、恵比寿の会社の人たちは、復帰の目途が付いたら連絡がほしいと言っていた」
「え…?」
穏やかな顔で、少しだけ口角が上がる。
「将来のことを、君が考えるようになったら話そうと思っていた。君との未来を夢見ている人は僕以外にもいるんだよ」
三枝の瞳を見つめながら、この感覚がどういうものかを必死に思い出した。ワクワクする感覚。
漠然とそれを思い出したが、まだ、自分の現状とすり合わせると、遥か遠い未来にも感じた。この三枝家にいる分には穏やかに過ごせていても、街へ出るとなれば善意の人だけとは限らない。あの日のように、親切に差し伸べられた手も、悪意を持って引き摺りこんだ手も、区別はつかないかもしれない。連れ込まれたトイレの記憶に切り替わりそうになって、軽く首を振った。
それでもやはり三枝は、「二人っきりの世界」にはしないんだと実感した。向野が怠けて隔離を選んでも、三枝は食事を勧めるように、外の世界へと連れ出してくれそうだ。
「あまり、記憶になかったんだけど…。太夫のことで、京さんとあの部屋に戻ったんだよね。俺、さっきまでそれも忘れてた。…部屋を片付けたのも、京さんなんだよね」
急に話題を変えたことに、三枝が顔を顰めるのがわかった。
「…そう、だね」
「あんまり覚えてないんだけど、俺が一度出た後で、アツシは荷物を取りに戻っているんだ」
「…そうだね、手紙があったから」
「テレビに、冷蔵庫? 手で持っていける荷物じゃない。他人の手を借りて…誰かに車を運転させて来たんだよ。もしかすると、持ち去ろうとした荷物がなかったからかもね」
そういうと三枝は身体ごとこちらを向いた。
「…スマホと財布以外?」
「俺の死体だよ」
眉間に皺を寄せたまま三枝の顔が固まる。
初めてみる顔だと思った。感情が読み取れない顔をされると少し怖い。怖いというより、胸が痛かった。言ってはいけない言葉だったか。
おもちゃを押し付けられて意識を失った。肋骨が折れるほど、蹴るか殴るかされた記憶がないが、恐らく意識を失ったことで、「起きろ」とでも言って暴れたのだろう。それだけ痛めつけても起きないことで、アツシは一旦逃げたのだ。散乱した部屋の様子は余り覚えていないが、自分が出る前、テレビや冷蔵庫が視界にあったし、ヒカルと太夫の二匹は居た。死体を転がしておくわけにはいかないと思い、戻ってきて目的が果たせず、自分の身元がわかるものと、金目の物を持ち去ったのだ。
「…何度も意識を失った。だから、凄く部屋を汚してしまったような気がする。そんな部屋、みせてごめんね」
眉間の皺が動いた。それでも表情は変わらない。真一文字に結んだ唇も動く気配がない。三枝の頬に触れたいと思った。汚いと、思っているなら避けるはずだ。膝をついて、ゆっくりと手を伸ばしてみる。指だけじゃなく、肘まで震えている。
「片付け、…辛かったよね」
距離感は掴めているはずなのに、どんなに伸ばしてもなかなか、指先は三枝の頬に届かなかった。意図を読み取ったのか三枝がぐっと手を握って引き寄せると、口を開いた。
「……一生、言わないつもりだったけど」
三枝は頬に掌を押し付けてくれた。この距離で向かい合っているのに、視線を合わせてくれないことに罪悪感が押し寄せる。それよりも、多分、三枝が初めて見せる顔に、胸が痛む。咽喉を締められたように、息もできないくらい悲しい気持ちになる。三枝がしてくれるように触れた頬を、そっと撫でた。
「ごめん…」
息を吐くように小さな声でも三枝は、聞き逃すことなく首を振る。
「僕は……何度も泣いたよ」
声にならない声を読み取ると、三枝の目からボロボロと涙が零れた。指の間に落ちる涙が温かかった。腕を回して三枝を胸元に引き寄せる。
「僕は……」続けようとする三枝の耳元で「ごめん」と言った。
「ごめん…ね。ごめんなさい」
何度も何度も謝った。今、傷ついている三枝に、これ以上、あの時の記憶を思い出させたくないと思った。
『事実や事情を知ったって、受け止め方は人それぞれだ。オマエがそこで感じた痛みや恐怖は、この口から出たもの以外、すべては推測だ』航はそう言った。
あの時感じた痛みや恐怖は、言わないでいれば伝わらないかもしれない。
三枝が感じた痛みや恐怖も自分は知らない。何度も泣いた理由を聞く必要はない。同じように苦しんでいる、それ以上に傷ついている。それだけ知っていれば充分だ。
「もう…京さんに、そんな思いさせないから」
胸元で三枝が重い息を吐いて、顔を埋めた。ぎこちなく頭を撫でると、腰を支えるように三枝が手を回した。三枝の父の台詞を噛み締めながら、強くなろうと思った。
腕の中の男を、助けられるのは自分だけだ。
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