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47 台風 三枝
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10月に入って朝晩は冷えるようになった。向野は、朝早く起きて、畑で野菜を収穫したり、庭の緑に水をまいたり、三枝の家事を手伝うようになった。出かける父親の身支度まで手伝い、ネクタイのコーディネートや、ハンカチや雨具の準備などをする。やはり、向野自身が思っているより社交性はあるということに安心した。
昼間は奈都や三枝と散歩に出たり砂浜で遊んだり、航の舟で魚を釣ったり、世間でいう夏休みのような体験を、ようやく満喫し始めた。よく動くようになったせいか、悪夢を見る回数も減って、ぐっすり眠れるようになった。
連れだってスーパーへ行ったり、車で遠出したりもした。不用意に人が接近したりすると恐怖心はあるようだが、パニックになることはなかった。大きな都市に行って、服を買いに出たりもした。バスや電車にも三枝がいれば乗れる。少しずつ慣れていけると実感した。ただ、コンビニには入れないし、エレベータには乗れない。無意識にトイレにはいかないようにしていいる。
まだ、時間はかかる。無理なものは避ければいい。気分の起伏がコントロールできなくならないように、回避する術を三枝や航とも話たり、心のリハビリは続いた。
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台風が来るという。進路を見ると、夜半からこの島を直撃するようだ。家が建っているのは小山の上だ。崖崩れも浸水も心配はないが、何年か前の台風では、屋根の瓦がいくつか飛んだ。庭木やみかんも滅茶滅茶になったが幸い人命に関わることはこれまでにない。
「奈都になにかあったとき困るから、航は病院の近くに避難するって。どうする?」
避難所となると多くの人がいるかもしれない。まだ、そういうところへは連れていけないかもしれない。向野は不安げに少し考えたが、
「京さんがここにいるなら…」
そう答えた。航や奈都のお陰で、死への誘惑が減っていることを、本人が自覚しているのかもしれない。大勢がいるところへ行く不安と同じくらい、二人きりになることにも不安があるのだろう。
「遠慮しなくていいよ、航たちと…」
「逆に…。京さんは俺と二人きりになって、もしもの時どうするつもり?」
もしも? 手が付けられないほどの発作を起こした場合、清原から鎮静剤を貰っている。例年にない台風被害を受けここから避難しなくてはならない場合、動くことの方が危険になる。家の造りはかなり丈夫だし、地滑りの心配もないが、海岸沿いの道路が浸水すれば孤立する可能性はある。屋内の安全な場所で救助を待つしかないが、納屋にも台所にも、備蓄はあることを先程確認してある。
ふいに、向野の指が眉間に触れて我に返った。考え事をすると、どうも眉間に皺が寄るらしい。
「大丈夫そう。俺、京さんといるよ」
「おじさん」とからかわれたことがあった、そんなことを思い出して二人で笑った。
ガタガタガタ…ミシ…。
雨はまだ降りだしてはいないが、網戸を強風が叩いている。ミシリとどこかが鳴る度に、向野は不安そうに顔を向ける。離れは、増築の上に増築を重ねた簡易な作りだ。寝具をもって、母屋のド真中の部屋へ移動することにした。停電にも備えて、早めに夕食やら風呂やらを終わらせた。
風呂から戻ると、向野は襖を開けて隣の部屋のテレビを見ていた。台風は九州地方に停滞しているようだ。離れは未だに蛍光灯だったが、母屋の電灯はLEDだ。そのせいか、二組並べた布団のシーツがやたら白く感じた
「点けておいたほうがいいかな?」
リモコンで音量を小さくしながら向野がいう。三枝は、寝る時用の肋骨サポーターを手に横に座った。
「あ、でも京さん、スマホあるもんね」
声の調子が、少し上擦っているように思えた。
「…ふたりっきりで、緊張してたりする?」
向野がはっと、息を吸った。サポーターをブラブラさせながら、三枝は続けた。
「二週間で治るって言ってたけど、まだ痛い?」
「痛いよ。とくに…雨の日は」
それは本当のことなのだろう、口を尖らせる。右手を背後から肩に掛ける。ピクリと、向野の顎が動く。
「まだ、降ってない」
肩を引き寄せてこちらを向かせる。
「京さん……駄目だ…よ」
顔を近づけると、口元を掌で押さえられた。少し伸びた前髪の隙間から、透き通った目がこちらを射る。
「…キスだけ」
そういうと掌がおずおずと離れる。
鼻先が触れる距離で、向野の目を見るが、視線が絡むことはない。躊躇うような、恐怖を抱えているような、初めての日と同じ表情に思えた。そっと唇に触れると、ピクリと肩が動く。舌先で下唇に触れ、輪郭をなぞるように動かした。震える手が胸のあたりに添えられるのわかった。柔らかい唇をゆっくりと堪能する。
舌を挿入する前に素早く向きを変え、抱きかかえるように腕を回す。
「まっ…」
驚いて向野が、余計に身を固くするのがわかった。口が開いた瞬間に、深く舌を挿入する。向野の舌を脇から攻めると、抵抗を感じる。だが、他人の舌に占領された口腔では逃げようがない。向野の身体はいつも、どの箇所を攻めても初めてのように、抵抗を試みる。ゆっくりと慣らし、力が抜けるまで、歯列をなぞり向野の舌を追う。絡まり合えることを想像するだけで、ぞくりとした。
「…んっ、もう…っ」
向野が三枝の胸を叩いて、尻を引くように身体を離した。これで終わりでは短すぎる。三枝は回した腕をスライドさせて、細い腰を自分の方へ引き寄せる。
「…ぃ…」
「ごめん」
肋骨に響いただろうか、謝ってはみるものの、やめる気はなかった。
キスだけのつもりが、止められなくなっていた。軽い向野の身体が、三枝の太腿の上に乗り上げた。体温が触れることが心地良い。以前ほどではないが、最近はよく食べるようになった向野の身体にも、だいぶ肉がついてきた。自然に尻の下に手を滑らせていた。
「…っ! 嫌!」
悲鳴だ。手を止めて、向野の顔を見ると真っ青になっていた。自分の声に驚いたように、向野が目を見開いた。
「……あっ」
口を半開きにして、息継ぎを忘れるような…。
「向野くん」
呼ぶと、我に返ったように、焦点が合うのがわかった。…後遺症だ。まだ早かったのだ。
「…ごめん」そういって身体を離そうとすると、向野がしがみ付いてきた。
「や…やめないで」
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