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第3話
〈陽季〉
「どうした、陽季。珍しいじゃないか…さ、入れ。さあさあ…」
祖父、関兼甲陽(こうよう)が、僕の肩を抱き抱えるようにイソイソとリビングに招き入れる。
「勇(いさみ)、陽季が来たぞ?」
祖父は、飾棚の上に綺麗に花を生けた花器の横に置いた写真に話しかける。
「さみ様、ご無沙汰しててごめんなさい。お祖父様、さみ様はやっぱり美しいね」
僕が言うと
「当たり前だ。勇は神が気まぐれで下界に落とした宝石だ。私は初めて勇を見た時、君は人か?と訊ねたよ」
と、さみ様の写真を愛おしそうに撫でる。
さみ様は、5年前に他界した祖父の生涯のパートナーだった人だ。
祖父は真性のゲイだ。
だが、家柄故に結婚は必須。
後継の為に、結婚をし、当時ではまだ殆ど知られていなかった、今で言うところのAIH(人工授精)で、僕の父、陽太郎を授かり、その後、妻を本宅に置いて自分は家を出て、さみ様と共に暮らした。
祖父と、さみ様の愛の巣へは、本宅の誰も近寄らなかったが、僕だけは、祖父に溺愛されていた為、幼い頃から自由に出入りしていた。
両親は、祖母が可哀想だと、さみ様を忌み嫌っていて、祖母自身は
「私はちゃんとしてもらってるから満足してるの」
と言うのに、あの男は汚いから、と言って、出入りを控えるよう注意をされたが、全て関兼家の常識で生きていた僕が、唯一、両親に逆らっていたことだった。
僕が物心ついた頃には、すでに50代だったというのに、まばゆいばかりに美しいさみ様が、僕は大好きだった。
祖父が
「いさみ、いさみ」
と呼ぶので、幼い僕はさみ様を
「ちゃみちゃま、ちゃみちゃま」
と呼び、ついて歩いた。
さみ様も祖父に負けず劣らず、僕を大事に可愛がってくれた。
だから僕が、安西先生に出逢い、でも手に入れられず怒って歪んでいくことに、とても心を痛めていた。
キリスト教徒というわけではなかったのだが、たまたま、さみ様が人からプレゼントされた聖母マリアの絵が家にあって、さみ様は、その絵を大変気に入っていた。
「陽季様の御目は、聖母マリアがキリストを見る、この目によく似ている。陽季様は心の奥底は優しく、本当は慈愛に満ちておいでなのに」
と、安西先生を困らせ続ける僕に、いつも言っていた。
だが、さみ様のそんな言葉も、当時の僕には届かなかった。
そして墜ちる処まで堕ち、壊れてしまった僕が、ベッドから出て再生を始めた時、誰よりも喜んでくれたのは、さみ様だと言っても過言じゃない。
さみ様は、僕がベッドから出たのは、長瀬の訪問があったからだと佐々木から聞いて、長瀬の自宅を調べ、祖父と共に出向いていって、玄関の見えるところにそっと立って、恩人の長瀬の姿を一目見たいと待った。
何度か出向いて、3~4度目の時、とうとう何処かから帰って来た長瀬を見ることが出来た。
さみ様は、その背中に
「恩に来ます…この通り…」
と涙を流して手を合せ、長瀬が玄関を入り、家の中に消えても、暫くそのまま動かなかったと祖父が言っていた。
生気を取り戻した僕は、それから3年ほどをかけて、自殺未遂や自傷行為で傷つけた全身の治療や形成を行った。
だが、僕を生まれて初めて等身大の人として見てくれた、誠実で心優しかった安西先生に、殺意を抱かせるようなことをしてしまった過去の行いは消えない。僕は一生その十字架は背負って生きるべきだと、髪で隠しはしたが、左の額髪際から下顎までの大きな創傷の形成は行わず、縫合だけで醜い傷跡のままに置いた。
体の傷や、内科の治療をしている間に、普通ということがどんなことなのか、世の中というのは、どういうものなのか知りたい、と佐々木に頼んで、買ってきてもらった沢山の本を読んだ。
経済新聞しか読んだことのなかった僕は、普通の新聞と、地元地方紙も毎日読んだ。
そして、本当に色んな人がいて、色んな世界があり、本来人には上下などない、ということを学び、様々な人生があることを知った。
本当に心が1度死んで、また生まれた、そんな感じだった。
傲岸不遜だった頃の思考回路はもう、思い出すことすら出来なかった。
記憶を失ったわけではないので、自分の環境や立場は解っている。
だから、関兼の御曹司で対さねばならない時や人間には、そのように対してはいたが。
僕が19歳になった年、さみ様の肺に癌が見つかった。
もう末期で手の施しようがなく、最期は陽季と3人がいいだろうと祖父が、別荘に医者と看護師を住み込みで雇い、移ってきた。
余命3ヶ月と言われたが、さみ様は半年頑張った。
しかし、元々細いさみ様が、日に日に痩せ、骨と皮のようになっていき、僕はそれが辛くて辛くて、病床のさみ様が微笑んでくれるのに、ずっとベッドに取りすがって泣いていた。
でもある日、さみ様が悲しそうな顔をして
「陽季様のお笑いになったお顔が拝見したいです」
と言うので、僕は
「ちょっと待っててね」
と洗面に立ち、顔を洗って、髪も整え、さみ様の所へ戻って、必死の思いで、にっこりと微笑んで見せた。
するとさみ様は、はらはらと涙をこぼして笑って
「その御目だ…。聖母マリアがキリストを見る慈しみ深い目…陽季様、ありがとうございます。本当にあなたはお優しい」
と、言った。
翌朝、さみ様が危篤となった。
今際のきわに、祖父はさみ様の布団に潜り込み、小さくなったその体をしっかりと腕に抱き
「勇、今生では世話になった。私もすぐに行くから、向こうでまた一緒に住む所を探しておいてくれ」
と言い、さみ様は祖父の言葉を聞き届けたように、その直後、静かに息を引き取った。
さみ様が亡くなり、遺品の整理をしていた祖父が
「これは、勇がつけていたものらしいが、お前のことばかりが認めてある。よほど、お前のことが気にかかっていたのだろう。これは、お前が持っておいで」
と若草色の日記帳を手渡された。
そこには、僕が再生した頃からの日々のことが綴られていた。
日記は、泣いてばかりの僕に、笑ってくれと悲しい顔をして言った、死の前日まで綴られ、最後の方は、多少乱れた文字でこう、記されていた。
―今日、私の願いをお聞き頂き、久しぶりで陽季様がお笑いになって下さった。本当に美しいマリア様の瞳。だが、奥底の悲しみがやはりまだあった。あの悲しみが晴れるのを見たい。どうしても見たいが、どうもそれはかないそうもない。どうか、陽季さまに、私にとっての甲陽様のような方が現れ、あの瞳の底の悲しみが消えますように。聖母マリアのようなあの御目で、その方を見つめる日を、一日でも早く迎えられますように―
泣きながら読んだその日記は、僕の宝物。
僕が死んだら、この日記は柩に入れてもらおうと弁護士を呼んで遺言を書いたくらい。
もし、僕の悲しみを消してくれる誰かが現れなくても、僕には祖父といつも傍にいてくれる佐々木と、この日記がある、と、さみ様の死後、過ごして来た。
でも、僕は今日、今まで逢ったことのない人に逢った。
目を合わせると、とても不思議な気持ちになって、ずっと見ていたかったけど、目を逸らされてしまった。
僕は、祖父が書斎に入ったのを見届けてから、そっとさみ様だけに打ち明けた。
「さみ様。僕、今日少し変わった人に逢ったよ。すごい大きくて多分強くて、ちょっと乱暴な人なのに、目だけが寂しそうで子供みたいなんだ。ちょっとだけ目を合わせてくれたんだけど、すぐ逃げちゃった。だから僕、つい意地悪言っちゃったんだけど、何だか気になって…可哀想なんだよ、何だか…。僕、彼が…とっても気になるんだ…」
〈章也〉
翌週、また享を抱きに来た俺に、享は《lune》に行こうと言いやがる。
「はあ?嫌だね」
「何でだよ。関兼のこと、解ってくれたんじゃないのか?それに章也、コーヒー好きじゃん。俺絶対自信あるんだ。関兼が淹れるコーヒーは美味い!」
「それとこれとは別の話しだ。それにな、んな、お嬢様…いや、人形様がコーヒーなんか淹れられっかよ。大方、人形は奥でハープのようなおイビキをおかきになってて、秘書とかいうのがせっせとコーヒー淹れてんだ、って」
―あんな怖ぇツラ、そんな何度も見たかねぇよ。
と、思ってたのに……
「うわ!めっちゃオシャレじゃん!テラスがいいけど、ちょっと目立つかなぁ~」
「はしゃぐな、そのくらいで。ここらの店は、どこともシャレてんだよ。見ろ、そこの雑貨屋。あっちの方がよっぽどセンスがいい。俺、ちょっとあそこの時計見て来・・おい、待て」
享は俺の話しなど聞かず、上着を引っ張り、ぐいぐい歩き《lune》に入ってしまった。
「長瀬様!ようこそ!いらっしゃいました。どうぞ!こちらへ!陽季様、長瀬様と篠原さまがお見えです」
秘書らしき白髪の紳士が、出迎えてくれ、さっそくインカムで人形にご報告だ。
―何で俺の名前を知ってんだ?
「どうぞ、こちら、奥の方へ」
秘書がずんずん店の奥へ進む。
そして、金色の蔦が張ったような扉を押す。
カウンターに人形が立ち、コーヒーをたてている。
―うわ、人形がコーヒー淹れてるよ……普通に動いてるし…
カウンターが5席とボックスが1席の小さなスペースだった。
得も言われぬ香りが漂い、ついフラフラと脚を踏み入れそうになるが、ん、と留まり
「おい、享。俺は閉所恐怖症だ。広い方で飲む」
と、止める享を無視して、ホールへ出た。
適当に腰掛けると、すぐに女性のホールスタッフが水を運んできた。
異常に愛想がいい。
「コーヒー」
「レギュラーでよろしいでしょうか?」
「ああ」
しばらく待ってると、秘書が運んできたコーヒーの美味いことと言ったら!
「お待たせ致しました、篠原様」
「ああ、どうも…。で、何で俺の名前を?」
「はい、陽季様から。私は、秘書の佐々木でございます。あ、このluneの副店長でもあります」
「あ、そ」
「はい」
佐々木はにこやかに立っている。
「何?」
「どうぞ。ご賞味を」
「あ、ああ」
カップを手に取る。
―あいつの目みたいな色だな……おお、いい香りだな…
「……うわ」
「?」
にこやかに首を傾げる佐々木。
「これ、粉挽いてもらえたりします?」
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