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第6話
〈章也〉
樫井湊人―
その名前を、享は忘れていたようだったが、俺は覚えていた。
嘘みたいな話だが、たった6歳のガキ相手に、あの時感じた漠然としたものは「脅威」だったと今ははっきりと判る。
間違いなく、湊人は
「最愛の人を失くして10年、よく頑張りました」
と運命の女神が享に寄越した運命の相手。
なら俺は…
俺はどうなる、神さんよ……
享の幸せの為ならいつでも引いてやる、と綺麗事を思っていたが、それは本当に綺麗事で、実際には、自分でも驚く程、俺は餓鬼で。
…みっともなく俺は享に縋った。
その日下請けの管理会社との飲みだった俺は、モヤモヤする気持ちを持て余し、帰りにどうしても陽季のコーヒーが飲みたくなった…
明日は享の親父さんが湊人の家に引っ越す日だ。
本当なら享も一緒に樫井家の住人になっていた筈だった。
だが、俺の為に享は引越しを断った。
享は、親父の引越しの手伝いに、章也も手伝えよ、と誘ってくれた。
湊人とは何でもないのだ、というところを見せてくれようとしたんだろう。
その気持ちは嬉しくて、でも、これまではなかった享のその気の遣いようが、寂しくもあり、俺は複雑だった。
時間は23時を過ぎている。
もうとっくに《lune》は閉まっているだろう。
《lune》の営業時間は、8時~20時。
陽季はいつも昼過ぎに来て、20時頃には帰ると言っていた。
居るはずがない……
判っていても、足が勝手に《lune》へ向かう。
店に灯りがついてる!
俺は走った。
ガラス戸を覗くと佐々木がホールの一つのテーブルに腰掛けて、パソコンに向かっていた。
ドアを押すと、すっと開いて、ドアベルがカランコロン…と鳴った。
「篠原様!いかがなさいましたか?お珍しい」
佐々木が驚いて立ち上がった。
そして今日はまだ、陽季が居るという。
「こちらのソファでお休みに…ちょっとお起こし致しますね」
佐々木が奥のカウンターの扉を押すと、陽季がキョトンとした顔をして、VIPルームの真ん中に突っ立っていた。
「陽季様…」
佐々木が、面食らっている。
「ん?あ、ああ。見えて…た、から…。ど、したの?珍しいね」
「ああ、下請けと銀座で飲んでたんだが、お前のコーヒーがどうしても飲みたくなって、無駄だと解ってたけど…飲みたくてな…」
「嬉しい。良かった。今日で。そこに座ってて」
陽季はカウンターに小走りで入ると、すぐにとびきり美味しいコーヒーを淹れてくれた。
俺は黙って旨いコーヒーを堪能し、カップをソーサーに戻した。
柔らかい笑顔で俺を見る陽季を見ていると、どういうわけか、急に甘えたくなった。
―あ、そうか…。実家にかかってるキリストとマリア、って絵のマリアの、あの目だ…。
俺はふいに思い出した。
俺の親父は関東一、二を争うデカイ指定暴力団の組長だ。
だが、俺達兄弟には組は継がせない、と言って、組の為に死んだ組員の忘れ形見を手元に置いて育て、自分の跡目に据えている。
それがあの、桂だ。
何故か、俺とおふくろは、危険があったらいけないとかで、俺は物心ついた頃にはもう、おふくろと2人でマンション暮らしだった。
クリスチャンだったおふくろが、俺が小学校くらいの時に洗礼を受けて、その絵を玄関に飾ったんだ。
俺は、その絵がとても好きで、学校から帰ると、いつもおふくろより先に
「ただいま、マリア」
と声をかけていた。
「何?」
じーっと顔を見ている俺に、陽季が苦笑しながら聞いた。
「いや…。なあ陽季、ちょっと出られるか?付き合えよ」
佐々木が
「申し訳ございません、篠原様」
と言うのと
「いいよ」
と陽季が返事するのが同時で、俺はどっちに従えばいいのか迷ったが、すぐに佐々木の方が撤回して
「お気をつけて。お迎えは何時でも参りますので、こちらにお電話下さいませ」
と、俺に名刺を渡し、俺達を送り出した。
そこからタクシーで銀座まで出て、陽季の素性は言わずに、馴染みのバーの中で、1番照明の暗い《Y’s》を選んだ。
「悪かったな、急に。大丈夫なのか?」
「うん。平気。僕、いつも一人で飲んでるから嬉しい」
「けっこう飲むのか?」
「飲むよ。中学くらいから飲んでる」
「へっ!俺と一緒じゃねぇか!何だよ、日本一の財閥の御曹司は、暴力団の息子と同じことやってんのか!」
陽季が微笑む。
―綺麗だな…
自然に顔に手が伸びた。
「何?」
陽季はすっと身を引いた。
「あ、すまん。綺麗だな、って思ってつい…。俺、もうけっこう飲んでるからな。ヤバいと思ったら逃げろ?」
「……逃げない」
「え?」
「僕、章也さんを好きだから」
グッとつまる。
―そうきたか……
俺は…俺の心は享だ。
陽季のことは、綺麗だと思うし嫌いじゃない。
もう、以前のように、自分に関係ない人形だとは思っていないし、少なくとも、女に見える男を見ての、いつものパス、という扱いではない。
それにあの創傷痕…
だが、それとこれとは別だ。
愛しているのは享。
「長瀬を愛してていいよ?」
鳥の囀りのような、綺麗な声の囁き…
俺はギョッとして陽季を見た。
「僕、安西先生を長瀬から奪いたくて、本当に酷いことをしたんだ。それなのに、最愛の先生を奪った僕を、長瀬は許してくれて…友達だ、って……そう言ってくれた」
陽季の顔はよく見えないが、声が少し震えている。
俺はただ頷いて話しを聞く。
「だから、長瀬には誰よりも幸せになって欲しいから、章也さん、頑張って。すごく…2人はお似合い…」
つふ…と陽季が笑う。
声は泣いてるのに……
「享を幸せにするのは俺じゃない」
陽季の笑顔が消える。
「…え?」
「享は恋をしたんだ。運命の相手だ、湊人は…。享は…行っちまうんだ……あいつんとこに……」
甘えるにも程がある。
いくら陽季が、長瀬を愛してていいと言ったからといって、驚きはしたが、それを鵜呑みにしたわけじゃない。
俺を好きだと言ってくれてる陽季に、享のことで弱音を吐くとは。
しかも、口にしたら、俄然辛くなってきて、初めて一緒に飲んだと言うのに、12年の間、享の前でも2度しか泣いたことはないのに、泣き上戸かよ、ってくらい泣けてきて…。
バカみたいに泣く俺の頭を、陽季はマリアの目で微笑んで優しく撫でる。
酔っ払った脳に、陽季の冷たい指が心地いい……酒はどんどん深くなり……
誘われるまま、陽季が一人で寝る用なんだ、というマンションについていった。
部屋に上がると、どうぞ、と陽季が示してくれた、とんでもなく座り心地のいい、でかいソファに座る。
「お水、持ってくるね」
と立ち上がろうとした陽季の細い腕を掴んで引き寄せる。
「ちょっと待って」
サッと体を固くした陽季が鋭く言う。
「待たない」
俺は陽季の後頭部に手を回し、その唇を覆う。
酔っている中にも、何か、今までとは違う気遣いをしてしまう自分がいる。
強くするとダメだ、陽季が壊れる……
そっと、そっと唇を吸い、舌を差し入れる。
絶対に慣れていそうなのに、あまり反応のない陽季に、ちょっとクレームを言ってやろう、と離れた時、唐突に言った陽季の言葉は、泥酔している俺を驚愕させる破壊力だった。
「長瀬を愛してていいからね。僕、ダッチワイフでいい。ダッチワイフがいいんだ、章也さんの」
―な に ? 何て??
狼狽える俺を置いて、陽季が何処かへ消え、すぐ戻って来て、綺麗な指を俺の口に突っ込んでくるから、それを舐めてると、もう、何が何だか解らなくなった。
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