6 / 16

第6話

〈章也〉 樫井湊人― その名前を、享は忘れていたようだったが、俺は覚えていた。 嘘みたいな話だが、たった6歳のガキ相手に、あの時感じた漠然としたものは「脅威」だったと今ははっきりと判る。 間違いなく、湊人は 「最愛の人を失くして10年、よく頑張りました」 と運命の女神が享に寄越した運命の相手。 なら俺は… 俺はどうなる、神さんよ…… 享の幸せの為ならいつでも引いてやる、と綺麗事を思っていたが、それは本当に綺麗事で、実際には、自分でも驚く程、俺は餓鬼で。 …みっともなく俺は享に縋った。 その日下請けの管理会社との飲みだった俺は、モヤモヤする気持ちを持て余し、帰りにどうしても陽季のコーヒーが飲みたくなった… 明日は享の親父さんが湊人の家に引っ越す日だ。 本当なら享も一緒に樫井家の住人になっていた筈だった。 だが、俺の為に享は引越しを断った。 享は、親父の引越しの手伝いに、章也も手伝えよ、と誘ってくれた。 湊人とは何でもないのだ、というところを見せてくれようとしたんだろう。 その気持ちは嬉しくて、でも、これまではなかった享のその気の遣いようが、寂しくもあり、俺は複雑だった。 時間は23時を過ぎている。 もうとっくに《lune》は閉まっているだろう。 《lune》の営業時間は、8時~20時。 陽季はいつも昼過ぎに来て、20時頃には帰ると言っていた。 居るはずがない…… 判っていても、足が勝手に《lune》へ向かう。 店に灯りがついてる! 俺は走った。 ガラス戸を覗くと佐々木がホールの一つのテーブルに腰掛けて、パソコンに向かっていた。 ドアを押すと、すっと開いて、ドアベルがカランコロン…と鳴った。 「篠原様!いかがなさいましたか?お珍しい」 佐々木が驚いて立ち上がった。 そして今日はまだ、陽季が居るという。 「こちらのソファでお休みに…ちょっとお起こし致しますね」 佐々木が奥のカウンターの扉を押すと、陽季がキョトンとした顔をして、VIPルームの真ん中に突っ立っていた。 「陽季様…」 佐々木が、面食らっている。 「ん?あ、ああ。見えて…た、から…。ど、したの?珍しいね」 「ああ、下請けと銀座で飲んでたんだが、お前のコーヒーがどうしても飲みたくなって、無駄だと解ってたけど…飲みたくてな…」 「嬉しい。良かった。今日で。そこに座ってて」 陽季はカウンターに小走りで入ると、すぐにとびきり美味しいコーヒーを淹れてくれた。 俺は黙って旨いコーヒーを堪能し、カップをソーサーに戻した。 柔らかい笑顔で俺を見る陽季を見ていると、どういうわけか、急に甘えたくなった。 ―あ、そうか…。実家にかかってるキリストとマリア、って絵のマリアの、あの目だ…。 俺はふいに思い出した。 俺の親父は関東一、二を争うデカイ指定暴力団の組長だ。 だが、俺達兄弟には組は継がせない、と言って、組の為に死んだ組員の忘れ形見を手元に置いて育て、自分の跡目に据えている。 それがあの、桂だ。 何故か、俺とおふくろは、危険があったらいけないとかで、俺は物心ついた頃にはもう、おふくろと2人でマンション暮らしだった。 クリスチャンだったおふくろが、俺が小学校くらいの時に洗礼を受けて、その絵を玄関に飾ったんだ。 俺は、その絵がとても好きで、学校から帰ると、いつもおふくろより先に 「ただいま、マリア」 と声をかけていた。 「何?」 じーっと顔を見ている俺に、陽季が苦笑しながら聞いた。 「いや…。なあ陽季、ちょっと出られるか?付き合えよ」 佐々木が 「申し訳ございません、篠原様」 と言うのと 「いいよ」 と陽季が返事するのが同時で、俺はどっちに従えばいいのか迷ったが、すぐに佐々木の方が撤回して 「お気をつけて。お迎えは何時でも参りますので、こちらにお電話下さいませ」 と、俺に名刺を渡し、俺達を送り出した。 そこからタクシーで銀座まで出て、陽季の素性は言わずに、馴染みのバーの中で、1番照明の暗い《Y’s》を選んだ。 「悪かったな、急に。大丈夫なのか?」 「うん。平気。僕、いつも一人で飲んでるから嬉しい」 「けっこう飲むのか?」 「飲むよ。中学くらいから飲んでる」 「へっ!俺と一緒じゃねぇか!何だよ、日本一の財閥の御曹司は、暴力団の息子と同じことやってんのか!」 陽季が微笑む。 ―綺麗だな… 自然に顔に手が伸びた。 「何?」 陽季はすっと身を引いた。 「あ、すまん。綺麗だな、って思ってつい…。俺、もうけっこう飲んでるからな。ヤバいと思ったら逃げろ?」 「……逃げない」 「え?」 「僕、章也さんを好きだから」 グッとつまる。 ―そうきたか…… 俺は…俺の心は享だ。 陽季のことは、綺麗だと思うし嫌いじゃない。 もう、以前のように、自分に関係ない人形だとは思っていないし、少なくとも、女に見える男を見ての、いつものパス、という扱いではない。 それにあの創傷痕… だが、それとこれとは別だ。 愛しているのは享。 「長瀬を愛してていいよ?」 鳥の囀りのような、綺麗な声の囁き… 俺はギョッとして陽季を見た。 「僕、安西先生を長瀬から奪いたくて、本当に酷いことをしたんだ。それなのに、最愛の先生を奪った僕を、長瀬は許してくれて…友達だ、って……そう言ってくれた」 陽季の顔はよく見えないが、声が少し震えている。 俺はただ頷いて話しを聞く。 「だから、長瀬には誰よりも幸せになって欲しいから、章也さん、頑張って。すごく…2人はお似合い…」 つふ…と陽季が笑う。 声は泣いてるのに…… 「享を幸せにするのは俺じゃない」 陽季の笑顔が消える。 「…え?」 「享は恋をしたんだ。運命の相手だ、湊人は…。享は…行っちまうんだ……あいつんとこに……」 甘えるにも程がある。 いくら陽季が、長瀬を愛してていいと言ったからといって、驚きはしたが、それを鵜呑みにしたわけじゃない。 俺を好きだと言ってくれてる陽季に、享のことで弱音を吐くとは。 しかも、口にしたら、俄然辛くなってきて、初めて一緒に飲んだと言うのに、12年の間、享の前でも2度しか泣いたことはないのに、泣き上戸かよ、ってくらい泣けてきて…。 バカみたいに泣く俺の頭を、陽季はマリアの目で微笑んで優しく撫でる。 酔っ払った脳に、陽季の冷たい指が心地いい……酒はどんどん深くなり…… 誘われるまま、陽季が一人で寝る用なんだ、というマンションについていった。 部屋に上がると、どうぞ、と陽季が示してくれた、とんでもなく座り心地のいい、でかいソファに座る。 「お水、持ってくるね」 と立ち上がろうとした陽季の細い腕を掴んで引き寄せる。 「ちょっと待って」 サッと体を固くした陽季が鋭く言う。 「待たない」 俺は陽季の後頭部に手を回し、その唇を覆う。 酔っている中にも、何か、今までとは違う気遣いをしてしまう自分がいる。 強くするとダメだ、陽季が壊れる…… そっと、そっと唇を吸い、舌を差し入れる。 絶対に慣れていそうなのに、あまり反応のない陽季に、ちょっとクレームを言ってやろう、と離れた時、唐突に言った陽季の言葉は、泥酔している俺を驚愕させる破壊力だった。 「長瀬を愛してていいからね。僕、ダッチワイフでいい。ダッチワイフがいいんだ、章也さんの」 ―な に ? 何て?? 狼狽える俺を置いて、陽季が何処かへ消え、すぐ戻って来て、綺麗な指を俺の口に突っ込んでくるから、それを舐めてると、もう、何が何だか解らなくなった。

ともだちにシェアしよう!