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第8話

〈章也〉 「くー…痛…ぇ…」 ズキズキ痛む頭を抱えて起き上がる。 見慣れた景色。 自宅のベッドの上らしい。 俺はキョロキョロ周りを見回す。 「陽季?」 確か…陽季が居た…筈…… え、今、何時だ? ベッドレストの時計は8時半を指している。 朝… 俺は、いつ帰ってきた…? 記憶が……ない― 何でだ… 確かに昨夜はぐでんぐでんだった。 でも、そんなことはたまにある。 しかし、記憶が全くない、ということなど、俺には一度もない。 虎のように部屋の中をグルグルと周り、考える。 ―思い出せ…思い出せ…思い出せ…… 途中までは判る。 夕べは、どうしても《lune》へ行きたくなって、閉店しているのは分かっていたが訪れ、偶然残っていた陽季を誘い、外に出て…《Y's》に行った。 そこで、飲み出して、元々酔っていたのが、更に深く酔った。 そして、俺と享が恋人であると勘違いしていた陽季の言葉を否定した時。 いつも胸に渦巻いている報われない想いが、一緒に暮らしてはいても、どんどん遠くなる享を愛する苦痛が 「享を幸せにするのは俺じゃない」 そう言葉にしてしまったことで、噴き出して溢れた。 相手は陽季だというのに、俺は兄貴にさえ言えない、享への想いを吐露し、負け犬よろしくキュンキュンと鳴き、好きなだけ涙を流した。 そんな俺の頭を、陽季はずっと優しく撫でたり、背中を摩ってくれていた。 「何でだ…何やってんだ畜生……陽季に甘えてどうするッ…バカか、俺は」 頭を抱えるが、今は全部思い出すことが先決だ。 《Y's》を出て…陽季のマンションへ行った。 そこで……ほぼ泥酔状態の俺は、美しいあいつの顔に見蕩れて、つい……キスを…… そうだ、それは覚えてる。 その後、章也さん…とあの声で呼ばれて…後は…… ダメだ…どうしても思い出せない。 「俺、あいつとヤったのか…?」 頭の痛さはあるが、体はやけに軽くスッキリした感じだ。 頭痛を除けば、こんな快適な目覚めは久しぶりで。 スマホの着信ランプが点滅している。 開けてみると、陽季からのショートメール。 『陽季です。昨夜はとても楽しかった。誘ってくれてありがとう。火曜日、楽しみにしてます』 ―火曜日?……知らん… 「どう…すんだッ、クソッ…」 怒鳴っても遅い。 佐々木に聞こうかとも思ったが、どう聞く?というところで詰まってしまい、断念した。 昨日着ていたスラックスと上着が、ハンガーにかけて、壁のフックにかかっている。 ―え?! 自分を見下ろすと、新しいTシャツに、肌触りの良いベージュのイージーパンツ。 俺のじゃない。 恐る恐る、ズボンを引っ張り、下半身を確認すると…… 「ああ、ダメだ……」 下半身を呆然と見る。 見たことのない、下着。 オギャーと生まれて自分の足で立ってから、こんな失態は初めてじゃねぇか? そして、ヤったかどうかも判らねぇなんてッ……どんだけ酔ってんだ??俺はッ。 今日は享は父親の引越しの手伝いで休みだ。 朝早く出掛けると行っていたから、もう出たのだろう。 俺達の仕事は、週末が忙しい。 享が休みの今日、仕事を休むわけにはいかないが、どうにも落ち着かない。 幸い、今は3~4月の繁忙期を終え、会社は落ち着いていて、俺個人の予定は、午後からだ。 部長に据えている濱田に留守を頼み、陽季に電話する。 『章也さん!どうしたの?朝から珍しい』 「昨日は悪かったな。俺…」 『いい!章也さんは全然気にしないで』 「陽季、今からちょっとだけ時間あるか?」 『…どう、したの…?』 急に陽季の声が硬くなる。 「会って話したい」 『…解った…』 陽季は、小さな声で、呟くように答えた。 「お前の所に行っていいか?確か、そう遠くは…」 『代官山。店から歩いても帰れる』 「え、そんなに近かったのか。じゃ、10分で行く」 『……』 陽季のだんまりは気になるが、取り敢えずは顔を見よう。 そして聞きたいのだ。 どうも解せない。 俺は酒は相当強い。 昨日、確かに最強に酔っていたが、キスしたまでは覚えている。 その後、陽季がちょっといなくなって、戻って来てからの記憶がない。 どう考えてもおかしい…… 場所はすぐに判った。 陽季に住所を聞いて、大体見当はついていた。 「やっぱりここか」 タワーマンションの《ヴィラ・フェリシア》は、1LDKから4LDK、プール付きのジムに、レストラン、バー、クリーニングや郵便等を受け付けるコンシェルジュ等もある、超高級マンションで、家賃は1LDKの最低の部屋でも78万だったと思う。 賃貸マンションで企業物件だが、問い合わせを受けて2件、紹介したことがあり、そのうちの1人は芸能人だ。 オートロックのチャイムを鳴らすと、黙って自動ドアが空いた。 「いらっしゃい」 無理に微笑む陽季が痛々しい。 ―昨日の笑顔が見たいのに… ふと思ってしまい、次の瞬間自省する。 ―陽季に甘えに来たんじゃないだろうが…ッ 「何でそんな顔してる」 「そんな顔?」 「辛そうだ」 「そんなことない」 「陽季・・」 「コーヒー…!飲むでしょ?」 「あ、ああ」 昨日のソファに腰掛ける。 ―『長瀬を愛してていいからね。僕、ダッチワイフでいい。ダッチワイフがいいんだ、章也さんの』 コーヒーを淹れる陽季を見ながら、昨夜の言葉を思い出す。 ―『僕、章也さんを好きだから』 そう言ってくれた陽季の言葉に、俺が戸惑ってしまったからなのか? 「陽季。こっち来い」 コーヒーを置いて、向かいに座ろうとした陽季に言う。 「…何で?」 「横に座った方が、話しやすい。心理学的にも、本音や真実を言い易いらしい」 陽季はまるで死刑判決でも受けるような顔をして、距離を置き、俺の横に座った。 「何て聞こうか迷ったんだが…単刀直入に聞く。昨日の記憶がない。お前何かした?」 「何…も…」 そう言いながら、陽季が震えだした。 「陽季?俺は聞きたいだけだ。何も怒っちゃない。そんな怖がるな。ただな、昨日お前に甘えて、すごい迷惑かけたから謝りたいのと…その、本当に申し訳ないんだが、途中から言ったように覚えてない。こんなことは初めてで混乱してる。だから」 「ごめんなさいッ」 陽季が頭を膝にくっつくくらい下げる。 「ごめんなさい。僕、薬を…章也さんに…ッ」 「薬?何の?」 「…か、体に悪い、とかの物じゃない…」 陽季の震えが酷くなる。 「陽季、責めてるんじゃない。そんなになるな。俺はただ、お前を…その、お前と…あのな…えっと……」 歯切れが悪いことこの上ない。 こんなのは俺じゃないだろ。 何でこうなるんだ。 出逢った時から、こいつといると調子が狂うんだ。 「ごめんなさい。した」 「え?」 「ごめんなさいッ……もう、しないからッ…ほんとに!貴方が長瀬だけを愛してる、貴方が欲しいのは長瀬だけ、ってちゃんと…知ってる、だから!」 「俺が好きだと言っただろう?違うのか?」 陽季が泣いたままの顔を上げる。 「俺は、怒ってるんじゃないんだ。俺を好きだと言ってくれたお前を抱いてながら、記憶にない、ということが自分自身で許せないだけだ、陽季。お前を責めてるんじゃない」 「……」 「おいで」 陽季は固まったまま、動かない。 「来てくれよ…。昨日は……慰めてくれただろう?俺は、人に甘えたことがない。兄貴が居るが、何でも話す兄貴にも甘えないし、言えない気持ちを抱えて来た。でも、昨日俺は、お前に散々甘えた。自分でも何でか分からない。享を愛してる。心は、そのまま動かない。それなのに、俺を好きだと言うお前に甘えて、散々……。その上、抱いたのに、記憶もないなんて、最低だろ?俺。……ちょっと自分でも何言ってるのか解らなくなって…きたな…。ハハ…ダメだな。俺、お前といると調子狂っちまって、何かな…ちょっと…来て、頼むから。そんな顔すんな。昨日の…顔、してくれ」 俺はほんとに、何しに来たんだ?? ふわり、と陽季が俺の横に移動してきた。 陽季は俺としたと言う。 俺も、色んな状況から、そうだと思う。 俺はこれまでも、無駄だと知りつつ、何かを求めて、気に入った男がいれば抱いてきたが、後には虚しい思いが残るだけだった。 でも今は、記憶にないせいか、その虚しさはない。 ただ、お前の全てに、何故か甘えて…… 「俺に残ってるのは、とても心地好かった……という感覚だけなんだ。朝、目が覚めて、酒で頭は痛ぇけど、気分は良くて……またこの居心地をお前は、ただ与えてくれる、って言うのか…?」 ―俺は…何を言ってる?! 「僕、甘えて欲しいんだ…」 「陽季…」 「嬉しい。人に甘えたことがないなんて。章也さんの初めてが、僕の物だ」 「陽季…。ああ、そうだ。でも、俺」 「解ってる。いいんだ」 そう言って、陽季はまだ涙の残る目であの微笑みをくれた。 甘えてしまう…… 何でだ…… ここへは、謝りに来たんだろう? 何甘えてんだ? 頭は自分を叱咤するが、心が陽季に凭れかかる…… 結局俺は、そのまま午後の予定ギリギリまで滞在し、陽季に甘え、充分に満たされ、意気揚々と会社に向かった。 何やってんだ、俺は。

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