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第10話

〈章也〉 その日、享が寝つくと、そっと家を出て、陽季の家に行った。 案の定、酒をどれだけ飲んだのか、酩酊している陽季が絨毯の上に転がっていた。 抱き上げてベッドに運ぼうと近づくと 「抱いて」 と言う。 そして、そんな状態でもやはりサイドボードまで這って行って、小瓶を手に取る。 もう俺は抗わず薬を飲んで陽季を抱いた。 俺を愛し、救い、守ってくれる陽季の、望むようにしよう。 それが僕の幸せ、と本人が言うのだから。 愛してる、と言えない俺に、陽季は会う度、愛してる、と言ってくれる。 享が決して俺に言わなかった言葉。 それは享が俺に対して、常に誠実であった証。 俺を好きで、必要としていて、情はメチャクチャあるが、愛情ではない。 だから言わない。 俺の愛してる、に、いつも 「ありがとう」 と答えていた享。 今は、俺が享の立場だ。 陽季が俺に初めて 「愛してる」 と言ったのは、最初に抱き合った時だったそうだ。 その時、俺がとても不思議そうにして、ほんとに?と聞いた、と言って 「章也は世界一、愛されて当然なのに、世界一、素敵な男なのに、すごくキョトンとして、ほんとに?なんて…僕、悲しくて、益々愛しくなって…」 と、泣きながら話してくれた。 じわり…と陽季の愛が、俺に染み込んでくるような気がした。 時は流れて、陽季と出逢って4年、関係を持ってから2年が過ぎた。 相変わらず陽季に言われるまま、陽季に甘え、俺の心は守られている。 大金持ちの坊ちゃんが、俺の為に、料理の本を買い込んで、指に切り傷や火傷までして料理を作って待っててくれたり、下着まで全てクリーニングだったのに、パンツは勘弁して、と俺が言うと、洗濯機を買い込んで、人生初の洗濯までやり出した。 俺が、洗濯物の好みの香りの話しをしたもんだから、わざわざスーパーに行って、クンクン匂いを嗅いで選んだそうで、最初、洗剤を買わずに柔軟剤だけを買ってきて、それで洗ってた。 俺が食べこぼしたTシャツの染みが取れてないことに気付いて、洗濯出来てない疑惑が浮上し、洗濯機が不良品なんだと陽季はご立腹だったが、怪しいと思った俺が 「どれで洗ってる?」 と聞くと 「これだけど?」 と威張って出してきたのは、俺も大好きな香りのソフティアモのフローラル。 男所帯の俺の家でも、最初に享が買ってきて 「これいい!」 と2人とも気に入って、ずっと使っている……柔軟剤だった。 「陽季、これはな、柔軟剤と言ってな、洗濯出来た洗濯物を、乾いた時にパリパリにならないように入れるヤツだ。ほら、ここに、洗ったシャツがふんわり、って書いてあるだろ?これを使う時にはすでに、洗濯物は洗われて、綺麗な状態なんだ」 「え、そうなの?何だよ。洗濯は洗濯機で指1本、簡単ですよ、なんて電気屋は言ったのに、そんな難しいことがあるなら教えてくれなきゃ!不親切だよ」 ―い、いや、陽季…。電気屋は洗剤のことは教えないぞ?と言うか、お前が柔軟剤買ったスーパーの連中も、まさかお前がそれで洗濯物を洗うとは、想定外だ…… 天上の人、関兼陽季ならではの失敗に、大笑いしたりしながらも、段々、俺は陽季を手放せなくなっていた。 〈陽季〉 深夜、カランコロン…とドアベルが鳴り、章也が入ってきた、あの日から丸2年が経ち、3年目の春、章也が長瀬との同居を解消した。 長瀬は、受験勉強を手伝う、という名目で、高校3年生になった湊人くんの家に引っ越すそうだ。 その話しを聞いた時 「俺がそうしてくれ、って言った」 と章也は言ったけど、何か辛そうで僕も辛かった。 「引っ越したばっかで何もないけど、仕事の前にちょっと見に来いよ」 引越しの翌日の朝に、今日1日休みを取ったという章也から、そんな電話が入り《lune》に出る前に寄った。 僕は、引っ越しが決まった時に、章也に絵を贈ろうと決めて、散々探して見つけた絵を持った。 作家は、よく知らない名前で、有名ではない画家と思われるけど、青い画面に細い月が輝き、それを見上げ、寄り添う、人と思われる大きな影と小さな影2つを描いた《恋人》という、とてもいい絵だ。 恋人の2人は遠目で、黒い影だから、男女なんだろうけど、はっきりは解らない所が気に入って買った。 恋人の絵が欲しくて、かなり調べたけど、男女を描いた物が殆どで(当たり前だ)ゲイで調べてみると、あるけれど、ちょっとリアル過ぎて知らないカップルを飾っても仕方ない、って気になって買う気がしなかった。 立地がよくて離れられない、と住んでいたマンションの下の階、3LDKから1LDKに一也は引っ越した。 「ブラインドとべッドだけは昨日、買って運んでもらったんだ。ここ寝室ー」 ドアを開けて、章也はベッドだけが入った、広い寝室を僕に見せてウィンクした。 それから20畳くらいある広いリビングの真ん中にドカっと座り 「あと、これだけ、持ってきた」 章也は横に置いたコーヒーメーカーをカチンと爪で弾いた。 何もないリビングの真ん中に、コーヒーメーカーと章也だけ。 僕は涙が出そうになった。 寂しすぎる…章也。 何で長瀬に離れよう、なんて言ったの? 無理して…… 「章也、強がらないで?僕の前では素直でいいよ?」 「強がってる?そんなことない」 「だって、章也…。すごく・・」 「何だよ、寂しげ?」 僕は頷いてしまう。 「うーん…何だろうな…確かに、寂しさはあるんだけどな。でも、多分お前が思うようなもんじゃないと思うぞ?何せ、長かったからな、17からだから、18、19…」 指を1、2と折って数える章也が、数を覚え始めた子どものように頼りなく見える。 「章也、来て」 僕は、正座をして、膝をポンポンと叩く。 数えるのを止めて、僕を見た章也の目が揺れる。 「強がんなくていいのか?」 「うん。素直でいいよ?」 「…じゃあ素直に言う」 「うん」 「したい。今ここでお前を抱きたい」 …ッ それは、無理だ…。 ちょっと部屋を見て、絵を渡して、章也は、休みだから一緒に《lune》に行くつもりだろうと思っていたので、薬を持って来ていない。 「それは…不意打ちだな…ごめん」 「素直でいい、って言ったろ?俺は今したい」 章也が座る僕の隣に這うようにして近づいて来て、顔を覗き込んでくる。 「章也、薬を…持ってきてない」 「使わずに。使わないでしたい」 「ダメ」 「頼む」 「ダメ…それは、ダメ…ごめん、章也…章也!やめてッ!」 両腕を押さえ、僕の上に被さるようになった章也が、上から僕を見る。 「陽季。抱きたい。今」 「お願い、章也…解って」 章也はギューッ…と固く目を閉じた。 そして、ふっと息を吐くと 「ごめん」 と立ち上がった。 「店、行くか?俺も、モーニング食うから行くわ」 スマホと財布をパンツのポケットに入れながら玄関に向かう章也から、今までにない冷めた空気が流れてくる。 僕は、持ってきた絵の入った紙袋を、キッチンカウンターの下の壁にそっと立てかけて、滲む章也の背中を見つめながら玄関に向かい、ぐいっと涙を拭いて章也に追いついた。

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