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第14話

〈陽季〉 嫌だ… 嫌だ、嫌だ、嫌だ…… 章也を失いたくない……ッ…… でも、もう…… 今日1日、章也の名前をスマホの画面に出したまま、通話を押す勇気のない僕は、ただ、ふさぎ込み、機械のように動いて、閉店時間を過ぎても帰ろうともしていなかった。 だけど23時を回った時 ―あと1時間…… そう思うと、急激に焦って、気持ちも固まらないのに、通話を押した。 だが、とてつもなく震えが来て、すぐに切ってしまった。 やっぱり話せない…!と思ったら、すぐに章也からの着信で、思わず通話を押したものの、頭が真っ白になってしまい、自分が何を言ったのかも覚えていない。 だが、章也の声が固くなり、何か言わなきゃ…ッ、と思ったら、渡そうと思って挽いたコーヒーの袋が目についたのだ。 それで 「コーヒーを…」 というようなことを言ったと思う…… 『解った。もう、いい』 章也は、抑揚のない声で終わりを告げ、電話を切ってしまった…… 終わった…… カウンターの中に蹲まる。 どのくらい時間が経ったのか判らない… 「陽季様。篠原様の所に参りましょう。お送り致します」 いつの間にかVIPスペースに入ってきていた佐々木が言った。 「いい…。章也は…もう、いい、って………言った…………」 「陽季様…篠原様は、あなた様を心から愛しておられます。私には、よく解ります。陽季様も痛々しいほどに篠原様のことを…。お解りにならないのは、あなた方だけです。…2人で同じように苦しんで……。同じように愛しておいでなのに」 「佐々木には解らない!!章也は、長瀬を愛してるんだっ!!長瀬は…長瀬はこの世に一人だ!」 「陽季様……あなた様のお心の傷は、篠原様でも治せないのでしょうか……。さぞ、お辛いでしょう……篠原様は…」 「何言ってるの、佐々木。傷を持ってるのは章也だ。章也は報われない愛の為に、10年以上も傷を深くしてきたんだ…。僕は、その傷を…撫でて…少しでも、章也が、楽に生きられるように……。それだけで良かった……なのに…ッ。……僕にはどうすることも出来ない…僕は、長瀬じゃない…」 「陽季様」 佐々木が今まで見たことのない厳しい表情をして僕を見る。 物心ついた頃にはすでにもう、僕の執事だった佐々木。 20有余年、いつ何時も僕の傍にいた。 そして、あの狂っていた時期でさえ、いつも冷静に、穏やかな表情で、僕に対してくれた。 こんな顔は1度も見たことがない。 「申し訳ございません。しかし、申し上げます。陽季様は間違っておられる。お心を無にして、篠原様の言葉をお聞き下さい。あなたは、今、ご自分の愛する方を苦しめておいでです。敢えて申し上げます。篠原様は安西様ではありません」 「黙れ!!そんなの、解ってる!!僕のせいなの?!僕が章也を苦しめてるって?!何でだよ!!僕は章也を守りたいだけだ!!章也は救われる、って言ってくれた!癒される、って喜んでた!!それで良かった!!それだけで僕は幸せだった!!章也は長瀬以外、愛さない…長瀬以外は…」 「陽季様…。彼は、ここに入らずとも、毎日毎日、店に足を運び、あなた様を感じて帰られる…。これが、愛以外の何だと言うのでしょうか?私には、陽季様を愛してる、愛してる、という篠原様のお声が、よく聞こえます。」 「………」 「陽季様」 『俺が、お前を愛したからだ━━━』 章也……ほんとに……? ―『ほんとに?』 初めて愛してる、と章也に言った時の、章也の不思議そうな顔が、ぽっと浮かんだ。 「さ、行きましょう。お送り致します」 僕は手拭きで涙をゴシゴシと拭いて立ち上がり、章也の為に挽いた豆を持った。 マンションに着いたら、中に入るのを確認して帰る、という佐々木に、一人で気持ちを落ち着けてからインターフォンを押したい、絶対に章也に会わずには帰らないから安心して、と無理やり帰した。 大きく息を吐き出せば、白い塊がボワッと出て……すぐに消えた。 真っ黒い空を見上げた時、サーッと車のライトが来て、眩しさに目を細める。 タクシーから降りたのは2人の長身。 ―……章也?………長瀬ッ!…長瀬と、帰ってきた…?どうしよう! 「陽季…」 章也が戸惑っている。 ―どうしよう……どうしよう、どうしよう…… 2人が近づいてくる。 ……ッ 長瀬の顔に大きな絆創膏のような物が貼ってあり、唇の端は赤黒く変色して腫れ上がっていることに気付き 「その顔!どうしたの?!」 思わず僕は長瀬に先に話しかけた。 「ちょっと、喧嘩。何てことない。それより、どうしたんだよ。佐々木さんは?」 「佐々木…?ああ、今日は…帰った、から…あ、違うんだよ、あの…僕、コーヒーをさ…」 「関兼。章也はお前のこと」 僕は、長瀬の声を遮った。 「あ、章也さん、これ、はい」 これを持って来てて良かった…何もなければ、長瀬に変に思われる。 「陽季、入れ」 大きな手が、僕の腕を掴む。 「いい!」 渾身の力を込めて、僕はその手を振りほどいた。 「陽季ッ…入ってくれ…頼むから……ッ」 章也の言葉には答えず、もう、章也の目を見ずに僕は、コーヒーを道に置き 「じゃ、長瀬、またね」 と、踵を返した。 「関兼!」 「陽季ッ!待て!」 長瀬の声と章也の声が合わさった。 2人の重なる声…… 醜い心が焼ける。 と、腕に痛みが走り、体が傾いたと思ったら、章也の匂いがすぐ近くなった。 息がしにくい…… 「だから!いいって、そんなことしなくて!」 章也に抱きしめられたことが解って叫んだ。 ―長瀬が、長瀬が見てるのに!!僕はいいんだ……ッ 「黙れ、バカ野郎がッ!!」 冬の静寂を震わせて、初めて聞く章也の怒声が響いた。 ビクンと体が震え、驚愕に目を見張った瞬間、後頭部を押され、もっと強く、章也の胸の中に潜り込むように強く、抱きしめられた…… 〈章也〉 ―陽季ッ…陽季…!ここまで来てくれたッ…!絶対に帰さない。 享が離れ、遠ざかる気配を感じる。 陽季の体が細かく震えている。 怒鳴ったせいか? 寒いのか? 俺は、自分で怒鳴っておいて、心配で堪らなくなる。 そして、今、この腕の中にいる陽季が愛しくて愛しくて堪らない。 陽季の体温を感じていることが、狂いそうに嬉しい。 「寒いな…」 コクコク…と陽季が頷く。 俺は、陽季の体を離し、細い両肩をそっと掴んで、その顔を見つめた。 「怒鳴って悪かった。びっくりしただろう?」 陽季はまだ固まって、真剣な顔をし、目をパチパチさせている。 涙に濡れた長い睫毛が、重たそうだ…… 俺は陽季の涙を、そっと拭いた。 「入ろう?心を決めて来てくれたんだろう?」 俺は精一杯の祈りを込めて、陽季を見つめる。 コクン……と陽季が頷いた。 ほッ……… 力が抜ける。 そして、腹の底で、今の答えを受け止める。 俺は、グッと拳を握り、目を瞑ってガッツポーズをした。 「…よ、し……」 涙が溢れる。 こんな嬉しい涙を流したのは初めてだ。 「…章也……本当に、僕で、いいの?」 震える声に目を開ければ、あの創傷痕を白い手で覆う陽季。 「ああ…。お前がいいんだ、陽季。俺は陽季を愛してる」 「…あの日…先生は言った…。死んだと思った僕の、手を…取って……。愛してやれなくて悪かった、陽季…」 ………ッ ―そうか……そうか、陽季……。お前はずっと、ずっと一人でそれを抱えてきたんだな…その、創傷と共に、この10数年を生きてきた…ッ…。それを、俺は「頑なだ、頑固だ」と、簡単な言葉で片付けて……ッ…。聞いてたのに!享から全部、聞いてたのに、自分の苦しみで一杯一杯で、陽季に甘えて……追い詰めて迫った……ッ 「陽季。俺は、名知じゃない。章也だ。陽季を愛してる。俺をちゃんと見ろ。お前の…全て…その創傷(きず)も、全部……全部、俺にくれ……!」 大きく見開いたまま大粒の涙を流すマリアの目が、俺を見つめた。

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