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春  2

** 五月の日差しは無駄に真夏レベルで困る。 昼食を何にしようか悩んでいるうちに暑さが頂点に達してしまい、椚田涼司くぬぎだりょうじことリョウの食欲は一気に減退した。ラーメン、うどん、そば。視線をしばし揺らしながら、コンビニの冷やしゆずうどんに手を伸ばし、レジで精算して表に出る。 「あっつー。外はあかん……」 クールビズを謳う会社であっても、ネクタイは外せない。首からぶら下げた社員証を揺らし、男女問わず似たようなビジネスマンの群れに紛れて歩き出す。 高層ビルが空に向かって何本も伸びあがる大阪の都心部。雲一つない青空がビルとビルの間から覗き、容赦なく紫外線をぶち込んでくる。もう何年もこの場所で働くリョウは、ほんの少しの冷気を求めて植え込みの多い遊歩道を選び、足早に会社に戻っていた。 だが早く涼しい場所へと願う気持ちとは裏腹に、耳に飛び込んできた音楽につられて足が止まった。春の穏やかな空気がハイトーンの歌声を連れてくる。 ♪ 離れ離れになってもまだ 君を想う 遠い空の向こうで今 何をしているの 爪先で立って背伸びしても 見えない 今すぐその手を伸ばして 触れることができたなら もう二度と 離さないでと言えたならよかったのに 届かないこの声と指と想いは 行き先を失ったまま流れていく  灰色の雲に乗って 舞い散る桜に紛れ 君の元へと届けばいい (うーわ何この歌詞。刺さるわ) 自分のことを歌われているのかと一瞬錯覚した。 長期間恋人に会えず、毎日仕事に明け暮れてばかりだったリョウにとって、澄んだその声と切ないピアノメロディは、涙を誘うほど胸に突き刺さった。 どこから聴こえるのだろうか。こんなに小さい音を拾うなんて、よほどのことだ。しばし辺りを見渡しながら歩くと、遊歩道の先に見える小さな公園で、誰かがギターを弾いている姿を見つけた。その横には、電子キーボードをスタンドに乗せて楽し気に弾く青年の姿も。 (おー。バンドマンか) ポータブルの小さなアンプに繋いで演奏しているが、路上ライブをするほどのボリュームでもない。遊具もない空き地レベルの公園に、平日の昼間誰かがいるのも珍しい。思わず中に足を踏み入れ、若い二人組をまじまじ眺めた。 ふんわりショートスタイルの黒髪が綺麗に整った青年は、ギターを弾きながら歌い出しては一度止め、キーボードを弾く金髪の青年に何か相談している。 「今の感じどうだった?」 「いや、やっぱ半音下げた方がいいって。お前の声の響き方が違う」 「そうすると声に張りがなくなっちゃうんだけど」 「そこは根性で」 「すっごい雑なアドバイスだな。明日の本番に間に合うか……」 見たところ高校生か、大学生ぐらいか。初々しさも感じるが、そこまで素人ぽくはない。少なくとも演奏や歌はうまいと思った。 「お食事ですか。ベンチ、空いてますよ」 ふいに背後から声をかけられ、びっくりして振り返った。そこにはこの暑い中黒スーツをきっちり身に着けた、ガタイのいいサングラス男が立っている。一見筋者のような見た目の威圧感に押され、思わず後ずさる。 「えっ、あ、いやあ」 「あ、冷やしゆずうどん、美味しいですよね。私も好きです」 その強烈な外見にそぐわず、人馴れした優し気な声色で話し始めると、男はサングラスを取ってにこやかに笑った。垂れた目尻にしわが寄っている。 「こんにちは。昼食タイムにうちの者がお騒がせしてすみません」 ふいに歌い手の青年が申し訳なさそうな顔をしながら謝罪を述べた。 「ここは音出し禁止です?」 「え? いやあ……別に、でっかい音でもあるまいし、ええんちゃう? たまに見かけるで」 「そうですか、よかった。よろしければ、お食事のBGMにどうぞ」 「ああ……まあ、そんなら」 勧められるがまま、日陰のベンチに腰掛けると、さっきまで近くにいた黒服の男はすっと離れて消えていた。 青年は反対側のベンチに腰掛け、ぽろん、と白いギターを優しく鳴らすと、さっきの曲を出だしから歌い出した。その甘い歌声に寄り添うようにして、隣の青年がキーボードの緩やかなメロディを奏でていく。 (めずらしいな、ピアノとギターって) だがこの切なくも甘酸っぱい恋の歌にしっくり合う気がする。聴いていて心地いい。だから気になったのかもしれない。 せっかくだからフルコーラス聴いて行くか。リョウは買ったばかりのうどんを取り出し、その音楽に耳を傾けながら冷たい麺をすすることにした。 不思議なことに、音楽ひとつ介入するだけで、さっきまでの鬱然とした暑さは大して感じられなかった。 ♪ この声と指と想いを 白の雲に重ねることができたら 僕の涙を すくいに来てくれるのかな miss you tonight over the clouds 空を見上げる。 高層ビルだらけのビジネス街だけど、申し訳程度に植えられた人工的な樹木がリョウの真上で揺れていた。白い雲は、その向こう側にちらりと見えるだけ。 思わず歌の世界にはまり込んでいたようだ。こんな何気ない景色さえ、切ない。 「ほんま、それ、ええ歌やな。自分らのオリジナル?」 うどんを食べ終わった頃には歌も終わっていて、次の曲をどうしようかとゆるく相談しているところだった。 「え。あ、はい、そうです。ありがとうございます」 「初めて聴いたけど、その歌詞が特に好きや」 「歌詞……」 驚いたように顔を見合わせた二人は、少しくすぐったそうに笑う。ボーカル青年が再びリョウに向き合い、「こいつが作ったんです」とキーボード青年を指さした。へえそうなん、と返したものの、色素の薄い金髪に似た明るい髪色の少年は、照れくさそうに視線を逸らす。リョウとは一度も目線を合わさない。 「俺たちの曲、よかったらネットで動画配信もしてるんで聴いてください」 品のいい立ち回りでボーカル青年が名刺を持って近づいてきた。思わずそれを受け取り、仕事の癖で自分の名刺を渡そうと胸ポケットに手を入れかける。が、とっさに目が入ったのは、腕時計が告げる現実。 「やっべ、昼休み終わるやん」 時間が経つのはあっという間だ。会社に戻らねば。 「ええ歌聴かせてくれてありがとな」 「お気をつけて。こちらこそありがとうございました」 ボーカル青年に丁寧にお辞儀され、思わずぺこりと半端に上半身を下げながら、リョウは慌ててオフィスへと戻った。去り際、ずっとキーボードの軽快な音楽がリョウを見送るように流れ続けていた。

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