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夏 4
「着いたよ」
優しいリョウの声で我に返る。黙々と考えを巡らせながら歩いているうちに、どこかに到着したらしい。
見上げれば、それはそれは豪奢な建物がどっしりと構えていた。
「ここは?」
「花火、ここで見ようと思って」
その建物は府下有数の高級ホテルだった。大阪住民でなくとも名前を知っている程度にはネームバリューがあり、国民的アイドルが大阪でコンサートを開けばここに泊まり、大阪で首脳会談が行われれば要人が泊まる、そんな格調高いホテルである。
自身がホテルマンであるアヤは、感激やらはそっちのけで、まず宿泊費はいくら取られるんだろうと金銭面に意識がいってしまうのだった。
「チェックイン済ませてくるから、ソファで休んどき」
リョウがアヤをソファに促し、自身はフロントへと向かった。
高い天井にふかふかの赤絨毯。館内は人がいるのに静かで、邪魔にならない程度のボリュームで心地よいBGMが流れているばかり。もちろん空調も効いており、ようやくアヤは暑さと混雑という二大不快要素から解放された。
「お待たせ。行こっか」
あっという間に手続きを済ませたリョウがアヤの元にやって来て、二人はエレベーターに乗った。
涼しくなってきたおかげですっきりと冴えてきた頭で、アヤはまた考える。たぶんこんなホテルのこんな日、料金の心配はもとより、随分前から予約しないと取れないだろう。きっと何ヶ月も前から、この日をとても楽しみにしてきたんだろう。目の前で、アヤに背を向け扉に向かって立つ恋人を見ながら思った。
エレベーター内のエアコンの風に吹かれ、リョウのウエーブがかかった青みを帯びた黒髪が、ふわふわと揺れている。その下の、髪を綺麗に刈り揃えられて露わになっているうなじを見れば、リョウだって汗をかいていた。そりゃあそうだろう。でもそれをおくびにも出さなかった。出会った直後のしくじり以外、この男は、アヤにも、あのふたり連れにも、ずっと笑っていた。
汗ばむうなじに思わず手を伸ばしかけた時、チン、とレトロなベルの音が鳴り、びくりとして手を引っ込める。エレベーターは十八階で扉を開けた。
またふかふかの廊下を歩いて、今日の逢瀬のために用意された部屋へ足を踏み入れた。
まだ外はカンカン照りだというのに、仄かな間接照明だけが照らす室内は薄暗く、やはり足もとは毛足の長い絨毯でふわふわと心地よく、仰々しすぎずシックな色合いで統一された調度品は安らぎを与える。大きな窓からはこの後花火が上がるであろう大川とその周辺が一望できる。そして大の男三人でも寝られそうな、大きな大きなベッドが――ひとつだけ。
「……ダブル?」
「う、うん、ごめん、ちょっとケチってもた」
きまり悪そうにはにかむリョウ。ツインよりは少しだけ宿泊料金が下がるのだ。
ケチるのは構わないが、男二人で泊まるのにダブルの部屋を取る勇気があるんだな、と変なところで感心してしまうアヤだった。それに、正直にケチったなんて言わなくても、ダブルしか空いてなかったとかなんとか適当に言っておけばいいのに。
「いいよ、二つあってもひとつしか使わないし」
ふわりと微笑むと、リョウが驚いたような照れたような、それでいて嬉しくてたまらないといった笑顔で駆け寄ってきた。
「アヤ、今日初めて笑てくれた」
この顔。
アヤだって、今日リョウのこの顔を見るのはこの時が初めてだ。見ているこっちまで溶けてしまいそうな、蕩ける笑顔。これは、俺だけが知る顔だ、と自惚れてもいいのだろうか。
「疲れたやろ、遠いとこ来てくれたのに延々暑い中歩かしてごめんな」
肩を抑えられ、半ば強制的にベッドに腰掛けさせられた。そしてリョウもすぐ隣に座ったが、直後また立ち上がった。
「あ、っと、汗臭いから先シャワーしてくる」
ぱたぱたとスリッパを鳴らしてリョウはバスルームに消えてしまった。
一人取り残されると、先刻考えていたことがまたアヤの脳内に戻ってきた。男しか愛せない自分が同じく男しか愛せないリョウ。遠く離れたところに住んでいて、本当なら出会うはずもない二人が絶妙のタイミングで偶然出会い、告白され、付き合うことになり、愛情表現の方法やしたいことなど全然違うがゆえに衝突したりしながらも、ここまでやってきた。それは決して当たり前ではなく、もしかして、奇跡に近いことなのではないだろうか。
不幸な星のもとに生まれ、愛し方も愛され方も知らないまま大人になったアヤは、今リョウからたくさんの愛をもらっているが、捧げ方なんて知らない。
アヤは、リョウに何かを与えることが出来ているのだろうか。
恋愛に限らず、自分の思いを言葉にするのは下手だし、その場の空気を読むことも、相手の気持ちを考えることもできない。そんなアヤが、リョウに何を与えることが出来ているのだろう。
「ふぁーサッパリした! アヤも行ってきたら?」
にこにことバスルームからリョウが戻ってきた。ふわりと良い香りが舞う。
「ここのボディソープ、めっちゃいい匂いやんなあ」
無意識に嗅いでしまっていたのか、リョウにそんなことを言われた。首筋に鼻先を埋めてもっと嗅ぎ尽くしてやりたかったが、自身も汗臭いのを思い出した。
「じゃ、俺も」
アヤが立ち上がり、リョウに替わりバスルームに入った。
リョウはその間に鼻歌を歌いながらアヤが脱ぎ捨てた服をハンガーにかけ、窓向きにソファを配置し、ルームサービスを手配した。着々と二人だけの花火大会の準備を進める。
だって、待ちに待ったこの時が、とうとうやってきたんだから。大好きな大好きな恋人と過ごす、特別な夜。
二ヶ月前の受付スタートと同時に予約した部屋。決して安くはない費用捻出のために休日出勤、残業三昧の日々を送った時期もあった。これだけの大掛かりなサプライズ、かつ日にちも決め打ち。アヤが「行かない」と言ったらそれまでの、博打みたいなものだった。もしポシャったら妹夫婦にでもプレゼントしてやるか、なんて考えてもいた。
そのぐらいダメ元のギャンブルみたいな企みが、ついに今夜実現するのだから、嬉しくないわけがない。普段から、普通に会えるだけでも前夜寝付けないぐらい楽しみなのに。
特に、今夜は特別。
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