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夏 5
アヤのカラスの行水が終わった。頭の中も体もスッキリして、昼間に比べれば顔色も随分良くなった。部屋には浴衣タイプとツーピースのパジャマタイプ、二種類の寝着が用意されていたが、二人はせっかくだからと浴衣タイプを選んだ。
時刻はようやく五時を過ぎたところ、まだまだ外は日差しが強く花火なんてムードではない。ホテル前の歩行者天国となっている両側三車線ずつの道路は、びっしり人で埋め尽くされていた。
交通整理をする警察官の注意喚起する声がスピーカーごしに何度も何度も聞こえてくる。
ドアをノックする音。アヤが不審に思っていると、リョウはドアへ向かって走り出した。やがてワゴンが部屋に運び込まれ、チーズや生ハム、スモークサーモンなどのアンティパストとブルスケッタがテーブルに並べられる。ガッツリご飯物ではなく軽食にしたのは、アヤが暑さで食欲がないかもしれないと思ったリョウなりの配慮だ。リョウはもっとガッツリいきたかったが、足りなければアヤが寝てから地下のコンビニでおにぎりでも買うまでだ。
「ちょうど花火まで時間あるし、腹ごしらえしとこ」
二枚の取り皿に均等に料理を分けていると、再度ドアをノックする音。続いてやってきたのはシャンパン。アヤは嫌な顔をした。リョウは酒に弱く、酔うと本音を容赦なくぶちまける酒癖があるからだ。日頃余程我慢しているのか、それはもう容赦なくぶちまける。
「なんでシャンパンなんか」
アヤがぼそっと言うと、それこそ満面の笑みでリョウは答える。
「だって、もうすぐアヤと出会って一年やん。ちょうど一周年の日には会われへんと思うから……だから、今日、お祝いしたくて」
俯きもじもじとはにかむリョウを見て、ああ、また乙女脳が炸裂した、とアヤは内心頭を抱えた。イベントを意地でも恋人と過ごしたい、というあたりで察しがつくと思うが、このリョウという男はかなりの恋愛至上主義で乙女脳。かたやアヤは全てにおいて無関心で無頓着な男。正直なところ、出会ってもうすぐ一年だなんて、言われるまで気づかなかった。
すっ、とワイングラスが胸の前に差し出される。
「ありがとう」
アヤがグラスを受け取り、リョウがシャンパンを注ぐ。
次はリョウに注いでやろう、とボトルを受け取った時、大きな地鳴りのような音と振動が鳴り響き、さすがのアヤも狼狽えた。
「始まるんかな」
一方、リョウは落ち着いた様子でそんなことを言っている。
その後特に変わった様子もなく、次はアヤがリョウにシャンパンを注いで、乾杯した。白金色に輝く液体の中に、キラキラと輝く無数の気泡が立ち上る。真珠とも例えられるそれらは、口に含むと甘味や酸味を伴って弾ける。
「この一年ありがとうね」
リョウがそんなことを言い出すので、アヤは戸惑った。
「ありがとう……?」
「うん、一年もようもったなあって思うもん」
少し笑いながらグラスに口をつけるリョウを見て、心配になる。そんな言い方、まるで……
そう言えば、少し前までは、電話すれば会いたい会いたいと口癖のようにうるさかったが、この頃はそんなこともなくなった。リョウの心の内に、何か変化があったのだろうか。にわかに不安が押し寄せて、アヤはグラスを一気に空にした。
「リョウ、最近何かあった?」
そう問いかけると、リョウは不思議そうな顔をした。くりくりと、大きいのに切れ長の、表情豊かな瞳がアヤを見つめている。
「ん? 別に?」
その時、また地鳴りが起こった。ビクッと肩を竦めたアヤを見て、リョウが笑う。
「花火の試し打ちやって。もうすぐ始まるんちゃうかな」
アヤに向けられる、心から愛でるようなその視線は、今までと同じだ。変わったと感じるところは何もない。こうなったら酒癖を逆に利用して、本音を聞き出してやろうか。
たとえその本音が、アヤの望まないものであっても。
やがて地鳴りの間隔が徐々に狭まってきて、いよいよという空気が迫ってきた。二人の皿には既に何もなく、ボトルも残り半分ほどになっている。こちらの準備も万端だ。
「リョウ……あの、さ」
アヤが口を開きかけた時、何度目かの地鳴り。今度は音だけでなく、空が真っ赤に染まった。
「始まった!」
リョウがぴょんとソファから跳ねるように立ち上がり、窓に貼り付いた。窓ガラスに手と顔をくっつけて。何発か連続して花火が上がると、空一面が真昼間のように明るくなる。これだけ目の前で、空全体に大輪の花を咲かせているが、もちろん手で触れられるはずもない。遠近感がおかしくなってくるほどの迫力に、さして興味のないアヤでも思わず気圧されてしまう。確かにこれだけ人が集まるだけのことはある。あの時の花火とは、スケールが段違いだ。
そう、あの時。
二人は、リョウがたまたまアヤが副支配人として勤務するホテルに家族でやって来たのが出会い。そしてホテル近くで行われていた打ち上げ花火をバックに、唐突に告白されたのだった。
出会って数日、しかもビジネスの顔しか知らないくせに、馬鹿なんじゃないの? と呆れ、けんもほろろに塩対応を返してやったものだ。
でも何故か、放っておけなくて。リョウたちがホテルを発ってからも、忘れられなくて。
思えば、あの時からアヤだって、リョウに惹かれていたんだろう。ドジで間抜けでやかましい、好みのタイプとは正反対の彼に、何故か。
あの時と同じように、花火に照らされて赤や黄色に染まるリョウの横顔を見つめる。
でも表情は全然違う。あの時、アヤが声をかけ、振り返ったリョウはボロボロに泣いていた。後でわかったことだが、恋人に振られたばかりだったそうだ。それまでの態度からは想像もつかない切ない泣き顔に、心を鷲掴みにされてしまったのかもしれない。こいつはこんな顔もするんだ、と。そしてこんな顔、これからはなるべくして欲しくないな、なんて思ったかどうかは今となってはわからないけれど、今アヤの横で花火を見るリョウは間違いなく、誰が見ても、誰よりも幸せそうで、少しほっとする。その幸せをかたちづくるひとつに、少しは自分も含まれていたらいいのだけど、と思うアヤだった。
花火が一旦途切れる。何発か上がっては小休止、を繰り返すらしい。リョウは再びソファに腰を下ろした。
「すごい迫力だね、うちのホテルの裏とは比べ物にならない」
アヤが素直に感想を言うと、日本の三大祭り舐めんな、と笑いながらリョウは二つのグラスにシャンパンを注いだ。
「次また花火始まるまで飲んでよっか」
にこにことグラスを掲げるリョウに合わせ、アヤもグラスを掲げるが、少し口をつけるにとどめる。なるべくリョウに飲ませたいから、グラスは空にしないでおく。
そうして何度となく花火を眺め、シャンパンを飲み、を繰り返し、ボトルも軽くなってきた。花火のスケールはどんどん増してゆき、クライマックスが近いことを思わせる。
瞳に色とりどりの光を映し、惚けたように花火に見入るリョウ、の横顔に見入るアヤ。このまま時が止まってしまえば、なんて柄にもないことを思ったりして、思わず心の中で苦笑いしてしまう。
黙って花火を眺めているリョウだが、そこそこ酒も回ってきているはずだ。いろいろ聞き出してみたいが、それは花火が終わってからにしよう。
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