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秋  2

よく晴れた週末の昼間に二人の男が向かったのは、商店街を歩いた先の横道に入ったところに建つ演芸場。年中無休で昼も夜も、ときには朝も、落語や漫談などでにぎわっている下町の小さなオアシス、または社交場ともいえそうな場所だった。 『なんとなく、大阪といえば文楽かなぁって。亮さんの名前の由来になった三国志って、人形浄瑠璃が有名なんでしょ。小さい頃にお父さんが話してくれたって、前に言ってたよね?』 『よく覚えてるなぁ。そんな話、言った本人は忘れてるのに』 『だから、本当は浄瑠璃が見てみたかったんだけど、その近くでやっている場所が探せなくて。ただね、ここにほら、小さな演芸場を見つけて。調べてみたらその日は初心者でもなじめそうな古典落語とか、紙切り芸なんていうのもあるらしいんだ』 そう提案した穣に、『二十代の、しかも理系の男が文楽とか寄席なんて意外というか渋いよなぁ』と返しながらも、気まぐれであっても穣がそんな提案をしてくれたことが亮はうれしかった。 演芸場は四、五十人も入ればいっぱいのこじんまりとした造りで、約二時間の昼席は落語が三題続いた後、仲入りと呼ばれる休憩をはさんで紙切り、最後に真打が登場。中でも鮮やかだったのは紙切りで、タネも仕掛けもない一枚の紙を観客からのリクエスト通りに形作るべくハサミを動かしながら、「こう見えても私、昔はうるさい音楽を鳴らすバンドをやっておりまして――」と若かりし頃の武勇伝を語ったり、日常の何気ない出来事を面白おかしく語って聞かせるうちに、あっという間に作品が完成。想像をはるかに超える完成度の動物やアニメのキャラクター、舞妓さんの切り絵などに万雷の拍手が寄せられ、しかもそれがリクエストした本人にプレゼントされるとなれば、我も我もと挙がる手にも熱が入る。商店街を散歩するついでにふらりとやってきたような常連氏や、亮や穣のように観光で大阪へやってきたグループなど、世代も日々の暮らし向きもさまざまな人達が同じものに笑い、ひとときを過ごす。そんなささやかな非日常が小さな演芸場を満たしていた。 「『時そば』はさすがに俺でも知ってるけど、あれがもともとは関西の『時うどん』をアレンジしたものだったとは。全然知らなかったな」 「僕も。あ、あれは知ってたよ、『書割盗人』。『だくだく』って覚えていたけど、子供の頃に読んでた本にその話が載ってたんだ」 「『血がだくだくっと出たつもり』っていうヤツな。あれ、面白かったな」 「隣に座ってた人、亮さんの腕をぽんぽん叩いて笑ってたね」 「たぶんさ、聞きなれた演目でも噺家さんによって笑えるポイントが違ったりするんだろうな」 「かもね。それとあれ、出囃子っていうの? 噺家さんが舞台に出てくる時のBGM。あれを聴くとお正月を思い出すのって僕だけかな」 「あー、わかる。なんかおめでたい気分になるよな」 からりと笑う穣にふんふんと頷きながら目の前に置かれたカプチーノをスプーンでひとまぜしていた亮が、不意にポケットから取り出したスマートフォンの画面を一瞥し小さく舌打ちする。「悪い。すぐ戻る」と言い残して席を立った亮が穣に背を向けると同時に聞こえた「はい、塚本です……」という声は、ついさっきまで穣と話していた時よりも幾分改まった仕事向きな声だった。 演芸場のある商店街を出て歩く途中で見つけたカフェの店内は、昼下がりの穏やかな空気が心地よかった。短くも暑い夏は過ぎたものの、一雨ごとに肌寒くなってゆく本格的な秋の到来にはまだ早い。次の季節へのウォーミングアップ期間ともいえる今は、一年のうちでもっとも過ごしやすい時季なのかもしれない。 店内を見るともなしに見ていた穣の目に、ひとつテーブルをはさんだ先に向かい合って座る若い二人の男性が目に入った。店内にいる客の九割は女性で、運ばれてきた料理やデザートに嬉々としてカメラを向ける人も一人や二人じゃない。そんな中で、自分たちと同じように男同士でテーブルを囲む二人は自然と目を引いた。 「ちょ、待った! 光!」 「いいじゃん、まだもうひとつそっちにメロンあるだろ」 「そんなこと言ってるんじゃなくて、えーと、どこだっけ……、」 「じゃ、遠慮なくいただくぜー」 「もう!」 金髪の男の子……と言っていいのか。ぱっと見た印象は高校生ぐらい。いや、大学生だろうか。向かい側に座る同い年ぐらいの黒髪をした男の子の前に置かれた背の高いガラスの器にお目当てのフルーツを見つけると、長いフォークを器用にくるっと回し口に放り込む。色白で少年の面影を残した顔でいたずらっぽく笑うその人を、黒髪の彼がもう一度「光」と呼んだ。 「なに? あ、ここに刺さってるクッキーみたいなの、いらないから勝行にやる。ほら」 「あのね、それはただのオマケじゃないんだよ」 金髪男子の前にあるガラスの器には、バニラやフランボワーズのアイスクリームが盛られていた。同じものをオーダーした別のテーブルの女性客は「カワイイ!」「食べるのがもったいないねー」とはしゃいでいる。 「ええと、アイスクリームとかパフェに添えてあるウエハースやクッキーにはちゃんと意味があるんだって、ファンの子が教えてくれたんだよ。ええと、どこだっけ、……あ、ここだ! ええと、『冷たいアイスクリームを食べていると舌の感覚がマヒして、せっかくの味覚に狂いが生じてしまいます』……ってことなんだって。でね、そういう時にウエハースやクッキーを食べると口の中や舌の感覚がリセットされて、またアイスが美味しく食べられるんだ」 黒髪の男性がスマートフォンの画面をスクロールしながら、美少年にアイスクリームの美味しい食べ方を伝えている。 「だからそのクッキーも、あっ……」 その秘伝を聞き終わらないうちに、光と呼ばれた男の子がまたも向かいから手を伸ばし、つるんと丸いフォルムをした果物をフォークでさらい、口に入れる。あっけにとられている黒髪氏には申し訳ないけれど、破顔という言葉がぴったりな色白美少年の満足そうな表情は、眺めている穣の頬もほわりと緩ませる。 「うまい! この店、当たりだな。勝行も食えよ」 「……っもう! 口ばっかり動かして、さっきからひとつも俺の話聞いてないだろ! それにアイス! 光が注文したのはそっちのアイス! フルーツパフェは俺!」 「!」が飛び交うような勢いのある黒髪男子の抗議を、軽くいなすような「はーい」という声が聞こえたところで視界が遮られ、隣のテーブルを三人の女性が囲んだ。 「さっき亮さんが席を離れてた時に、面白いことがあってね。近くのテーブルに男の子の二人連れがいて、フルーツパフェとアイスクリームをはさんでかわいいケンカをしてたんだよ」 宿泊先であるホテルへ向かう途中、川に沿って歩きながら穣が思い出したように笑った。 「男? そんな二人連れ、いたっけ? ほとんど女の人ばっかりだったような気がしたけど」 「うん。ほぼ女の人達ばっかりだった。その中で堂々と二人でいちゃいちゃ仲良くケンカしてたんだよ。たぶん、大学生ぐらいじゃないかな」 「じゃあ穣よりちょっとだけ年下か。あ、でも穣は童顔だから、あっちから見れば同い年ぐらいのヤツがおっさんとデートしてるって思われたんじゃないかな」 「デートは正解だけど、亮さんはおっさんじゃないよ」 交通アクセスの抜群な都心には三つ星や四つ星のつく高級なホテルがひしめき、その間を縫うように小さなゲストハウスが点在していた。和洋折衷の客室をそろえたペンションのようなたたずまいのホテルや、かつての文豪が愛した情趣のある旅館が今もそのまま残っていたり、日程的な余裕があればあちこち泊まり歩きたくなるような宿をいくつも見つけた。 「今度、天神祭に合わせて大阪に来てみようよ」 「そうだな。あー、……でもすっごい人出だったよな。暑い中、あんなところで立ち往生するのはちょっとツラいなー」 「じゃあ今度は僕が下調べを担当しようかな」 隣を歩く亮を見上げて穣が微笑んだ。

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