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第3話 オトモダチからはじめましょう1

  優人は歩道橋の上で煙草をふかしていた。  仕事のあとの一服だ。すっかり夜更けになっていたが、優人の周辺は街灯にこうこうと照らされていた。  手すりに背中をおしつけてみあげると、ビルの隙間にたよりなげな白い三日月が見える。  駅の入口につながる空中回廊だった。金曜の夜だ。人通りは絶えない。視線をさげると、歩道橋の下にある駅前のロータリーを、ヘッドライトがゆっくり流れていくのが見えた。  優人は小さく身震いをした。昼間は初夏の暑さだが、日が暮れてみると肌寒い。大きくあけていたシャツのボタンをしめた。ジーンズの尻ポケットから携帯灰皿を出して、短くなった煙草をもみけす。  待ち人は現れない。それもそうだ。こんな身持ちの悪そうな元ウリ専のやっかいごとなんて。関わりたくないのが普通だろう。  自分の期待を煙草と一緒にもみけすようにそう考えた瞬間、駅の奥に階段をかけおりてくる人の姿が見えた。今日はダークグレーのスーツを着ている。すらりとした長身は遠くからでも目立っていた。仕事用の鞄をさげたまま、駅の建物を出たところできょろきょろ首を左右に振っている。  優人は一瞬目を疑った。本当に来てくれたのか、と。  今日の昼間、優人は誠一郎に電話をしたのだった。 「ユートさん、ですか?」 「あんた……この前、今度なにかあったら呼んでくれって言ったじゃん?」 はっと電話口で息をのむ気配があった。 「い、今、ゆすられてるんですか?」 「うーん、ていうか、今日の夜そういうヤツと会うことになってんだけど、一応、連絡しとくな」 「今日の夜ですか」 「うん、俺の仕事が終わったら」 「僕も行きます。場所はどこですか」  そこで駅の名前をつげた。  そしてその彼は今、仕事帰りそのままの姿で駅前で優人を探している。  本当に来たのか。  なかばあきれかえって優人は考えた。俺のことなんかあんたには全然関係ないのに。なんのつもりなんだろう。変なヤツ。  それなのに、優人はとっさに声も出せないほど安堵しているのだった。  あちこち視線をとばしていた誠一郎が、やっと優人をみつけたようだ。走り寄ってくる。主人をみつけた飼い犬のようにまっすぐに。 「ユートさん! すみません、遅くなって。で、その相手はどこですか」  誠一郎は、すでに近くにいる男たちを、敵意丸出しでちらちらながめている。もう臨戦態勢だ。  まさかそんなに必死になってくれるとは思っていなかった。どこまでも純粋な彼を前にして、突然わきおこった苦い罪悪感に、優人は対処の仕方がわからなくなっていた。  優人は急にふてくされたように足を開いてしゃがみこみ、ばつが悪そうに、うつむき上目使いに誠一郎を見た。まるで、来てくれた誠一郎を責めているような態度だった。 「どうしたんですか」 「……竹林くん、怒っていいよ」  ぼそりとつぶやく。 「え? 僕がですか? ユートさんに?」  誠一郎はきょとんとした顔になった。 「俺を、怒ってよ」 「まさか……嘘、だったんですか」 「ごめん」  はあ、と一息つくと、誠一郎は緊張を解いて微笑んだ。 「とりあえず、あなたがピンチじゃなくてよかったです」  そのあたたかな笑顔を見た時、優人はやっと彼を試すようなことをした自分の気持ちがはっきりとりんかくをもった気がした。  そうか、俺は単純にこいつに会いたかったんだ、と。 「なんか俺、年くったらさあ、会いたいってどう言えばいいのかわかんなくなっちゃった」  ひらきなおって言うと、誠一郎は一瞬驚いたように目を見開き、そしてふたたびやさしく笑った。 「会いた……かったんですか、僕に?」  とまどったようにくりかえす。優人は言い訳のように言い足した。 「ゆすられたりするっていうのが、まるっきり嘘ってわけじゃないよ。だけど今は……そういうのにつきまとわれたりしてない。してないから、その、なんていったらいいのかわかんなくって」  優人は、口元だけ動かして皮肉に笑った。 「ヤりたいとか、遊ぼうとかは簡単に言えるのにな。でも、あんたはそういうの嫌がるだろうし。それになんか、あの名刺くれたのって、なんかあったときのためだったんだろ? だったらなんにもなかったら、断られるかもしんないし」  そして消え入りそうな声でつけ足した。 「断られんの、嫌だし」 「断りませんよ」  誠一郎はすぐに答えてくれた。  嘘をついて呼び出して、試すようなことをして。利己的で面倒臭い女みたいなことをしている、と思った。しかしこうして彼が本当に目の前にきてくれると、それだけでひどく満たされた気持ちになっていた。  不安とか、寂しさとか、棘をもってざらつく感情が自分でも気がつかないうちに、心に小さな傷をつくっていた。そんなささくれ立っていた心に、そっと絆創膏をはってもらったような気持ちだった。 「会いたかったら、これからは普通に呼んでください」 「でもさ、なんなんだろうな、これ。この関係」 「オトモダチでしょう」  くそまじめに真顔で言われて、ぶふ、と優人は噴き出しかけた。 「オ、オトモダチ?」  笑うのをこらえると、声が裏返ってしまう。  今度は誠一郎のほうが、怒ったような顔になった。羞恥のためか頬が赤い。 「な、なんで笑うんですか」 「笑ってない、笑ってない。ちょっと、腹筋が痙攣してるだけ」 「それを、笑ってるっていうんでしょう!」  とうとう優人は我慢できず、声をあげて笑いだした。 「いや、すげえなって。俺ね、普通のオトモダチって今までいなかったかも」  優人は心の中で、さっきまでの自分を笑いとばした。  関係に名前をつけなくては安心してつきあえないなんて。弱ったフリや、体の関係をダシにしなくては会えないと思うなんて。自分はどうしようもない小心者だった。  この関係に名前なんてなくていい。会いたいときに会いたいと言っていいんだ。  その事実だけで、ひどくうかれている自分がいた。 「だから、あんたが来てくれたの嬉しくてさ」  にっこりと微笑むと、今度は誠一郎が赤い顔のままぐっと黙ってしまう。そんな彼の不器用さが、優人にはひどくここちよかった。  近づいてきた誠一郎をみあげる。筋のういた首は意外と太い。脱いだら見た目以上にガタイがいいのかもしれないと優人は思う。短く髪を刈りあげた清潔な首筋だった。 「俺ね、あの話、もっと詳しくききたくてさ」 「あの話……ですか?」 「あんたが俺を指名したときの話。俺、あんたに礼いわれるようなことしたのかなって、なんだか気になって」 「ああ」  誠一郎は少し恥ずかしそうに、鼻の下をかいた。その人差し指の先に、指輪のようななにかがはまっているのをみつけた。  よく見ると、書類をめくるための半透明のリング状のゴムサックだ。優人はまた笑ってしまいそうになる。  あんた、あわてすぎだろ。 「ごめんな。レストランで会ったとき、俺が早合点して便所に誘ったり怒ったりしたから、あんた、なんにも言えなくなっちまっただろ」 「ええと……それを気にされてたんですか?」  はにかんだままの誠一郎が、ふわりと目を細めた。 「なに? おかしい?」 「いえ、やっぱりユートさんだなあって思って。前に会ったときも、やさしかったですから」  ご飯まだですか、と誠一郎はたずねた。優人はうなずいた。会社から飛び出して来たばかりの誠一郎も、もちろん食べていないだろう。 「どこか、行きますか。お店でもいいんですけど……こういう話するのに、人がいるところは嫌ですよね」  なにしろ売り専をやっていたときの話だ。 「カラオケボックスとかでもいいですけど、もし、よかったら……俺のうち来ませんか」 「いいの?」 「ここから二駅でいけるんで、どうかなって」 「竹林くんて一人暮らし?」 「学生時代からの一人暮らしなんです。そのころ借りた1Kに今も住んでるんで、かなり狭いですけど」 「うん、行く」  即答して、優人はさりげなく誠一郎の横に立った。駅のコンコースに向かって歩きだす。 「あのね、ユートは源氏名で。俺の名前、ほんとうは優人(まさと)っていうの。朝倉優人」 「まさとさん、ですか。あ、いや、朝倉さんですね」  あわてて言いなおした誠一郎に、優人は笑いかけた。 「ユートでいいよ、昔から仲のいい連中はみんなそう呼ぶから」

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