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第6話 向きのそろわぬベクトルを抱いて
食後の後片付けは優人も手伝った。食洗機などついているマンションではないから、ふたりで手を泡だらけにして食器を洗った。
リビングへ戻って時計を見ると、そろそろ終電を意識する時間になっていた。
優人は「食った、食ったー」と開放的な声をあげ、大きくのびをした。そのあと体を後ろへよじってベッドの上へくったりと上半身をあずける。
しばらくぼんやりと天井をながめていた。そして、ローテーブルとベッドのあいだにずるずると倒れこんだ。
「満腹になったら眠くなっちゃった。今夜、ここで寝てもいい?」
手近なところにあるクッションを、枕代わりにして寝転がった。誠一郎の目がぎょっとして見開かれる。それでも本気で嫌がってはいないことが、優人には表情でわかった。
「ゆ、床の上でですか」
「もう寒くないし、雑魚寝でいいからさあ」
「や、だめです。ユートさんはいつも座って運転してますよね。ちゃんと腰のばして寝てください」
駄々っ子を抱き上げるようにして、誠一郎が優人をベッドに座らせた。
「風呂、使いますか」
「うーん。もう疲れちゃった」
誠一郎は苦笑して優人を寝かせ、布団をかけた。
「竹林くんは明日休み?」
「ええ、土曜ですから。ユートさんもですか」
「ああっと、俺は午後からのシフト。でも事業所ここから電車で一本だし」
誠一郎は、押し入れにあるひきだしから着替えを出して風呂に行ったようだった。水音が聞こえてくる。
優人は布団の中でもぞもぞ服を脱いだ。布団の隙間から、ベッドの下へシャツとジーンズを落とす。最後に、黒のマイクロボクサーショーツを落とした。布団の中は誠一郎の汗の匂いがした。それをかいだとたん、どこか霞がかっていた記憶がはっきりと優人の頭の中に像をむすんだ。
誠一郎がリビングに戻ってきた。雄牛のロゴが入ったTシャツとハーフパンツを着ていた。バスケットボールチーム、シカゴブルズのセットアップだ。パジャマ代わりなのだろう。シャンプーと湯気のしめった匂いが部屋にただよう。
ユートの様子をうかがうようにベッドに近づき、ぴたりと立ち止まった。ベッドの下に落とされた衣服とそのてっぺんにのった小さな下着に気がついたのだろう。ごくり、と誠一郎の喉がなる音がした。
ユートは布団から裸の上半身を出して、誠一郎に両手をのばした。上機嫌な猫のように目を細めて、低い声で問いかける。
「ねえ、今日も『抱っこ』してあげようか? 竹林くん、ずっと俺に会いたかったんだろ?」
その仕草とかすれた声に、からめとられたように誠一郎はベッドの端にこしかけた。ゆっくり上体をかがめて、顔を優人に近づける。
「本当に……いいんですか?」
優人は小首をかしげて艶然と微笑む。
「おいで」
おずおずと足のほうから布団をめくって、誠一郎がすべりこんできた。まだ緊張しているようで、なかなか優人には触れない。狭いベッドのなかで、しばらく逡巡している。
「竹林くんはさ、今も白ランニング、白ブリーフなの?」
一瞬で誠一郎の頬が紅潮した。
「ユートさん、お、思い出してくれたんですかっ」
くくっと優人は喉を鳴らして笑った。
「うん。思い出した。可愛いなあ、童貞なんだなあって思った。で、今は?」
「え、今もですけど」
「は? 今も?」
「え、だって、あのときユートさん、『青春ってぽくていいね。似合ってるね』って褒めてくれたじゃないですか! 俺嬉しくって」
優人はおもわず額をおさえた。
「わああ、ちょっとまって、そんなこと言われるとすげえ責任感じる……」
「だめですか……?」
消え入りそうな声で、誠一郎がつぶやく。少し恥ずかしそうに、そしてどこかうらめしそうに優人をみつめている。
「ううん。全然」
笑いじわをよせ、きゅっと目を細めて笑った優人に、誠一郎は「待て」の終わった犬のように抱きついた。
優人の背中に腕をまわし、薄い胸に誠一郎は頬をおしつけていた。まるであの日の再現のようだ。湯上がりの肌は、しっとりとしてなめらかだった。時折ざらつく髭の感触さえも、可愛いらしいもののように感じられた。
優人はなだめるように、誠一郎の濡れたままの髪に指をからませた。扇情的に耳のまわりをかきあげてみる。普通なら、ぞくりとくるはずの仕草だったのに、誠一郎はくすぐったそうに首をすくめたまま動かない。
優人の上に体をのりあげてキスをしたり、自分からどこかに触れるようなそぶりもない。ただ、優人のむきだしになった胸や肩に嬉しげに鼻先や頬をこすりつけているだけだ。
本物の大型犬か、と優人は内心つっこみそうになった。そして、ふっと寒気のような感覚が背中をはいのぼった。
「……竹林くんて、ノンケだったっけ?」
声がすこし裏返りそうになった。すっかり喉がかわいていた。優人は自分がひどく感情をとがらせているのを感じていた。普段、表面に出さない部分が、あらわにされてぴりぴりしているような変な感覚だった。
「男、には、感じないんだっけ?」
自分でいいながら、こんなことを訊く意味なんてない、と自分で否定しようとしていた。
彼の体が反応さえしてくれればいいのだ。彼のもっとも欲望に素直な部分が。
誠一郎がぴくりと震えた。肩に力が入ったのがわかった。怯えているような様子が伝わって、優人は急に自分に気を使っている誠一郎がいたましく感じられた。
「いや、だったら、それで。あの、無理しなくていいんだ」
話せば話すほど、優人はなにを言えばいいのかわからなくなった。自分がなにをとりつくろおうとしているのかもよくわかっていなかった。
「無理、なんかじゃないです。嬉しいです。でも、あの……」
誠一郎はそこで顔をうつむけて口ごもる。優人には短い黒い髪の中のつむじが見える。
「セ、セ、セックスしたい、っていうんじゃ、なくて。その、今は、ユートさんにくっつきたい、っていうか、あの」
「甘えたいって感じ?」
「ああ、そうです。もう一度、こんなふうに甘えてみたかったんです」
ぴったりくる言葉がみつかってほっとしたように、誠一郎は肩の力をぬいて、無防備な表情で微笑んだ。恥ずかしそうにつぶやく。
「おかしいですよね。同性に甘えたいなんて。でも誰でもいいわけじゃないんです。僕はやっぱり、ユートさんに……」
その言葉をきいたとたん、優人はひゅうっと深い穴の中へ落ちていくような墜落感を味わった。自分がどうしてこんなにダメージを受けているのか、わからないまま、ひとりだけ明かりのない穴に放りこまれたようなさびしい気持ちを味わっていた。
ああ、こいつと一発ヤりたかったんだよな、俺。
この部屋に入れてもらったときから、きっと期待していた。ベッドを見たときから、ここでからむのだと思っていた。ずるずるとこの部屋に居着いて帰らなかったのも、当然そういう展開になると思っていたからだ。
「こんなの、変だと思いますか……?」
誠一郎がひどくよそよそしい声を出した。優人は胸が痛んだ。彼もきっとどうしていいかわからず困惑している。
「ううん。確認しただけ。オトモダチって言ったもんな、あんた」
うなずく誠一郎は、なぜかひどく無念そうな顔をしている。『どうしてお前が残念がるんだよ』と優人は口に出してしまいそうだった。
優人は誠一郎の様子を見て、少し思い当たったことをたずねることにした。接客業でさまざまな人の話をきいているからこそ感じたことだった。
「竹林くんさ、さっき実家のお母さんのことはきいたけど、お父さんは? 元気にしてる?」
案の定、誠一郎はふっと真顔になった。
「父は……僕が小さい頃に病死したので、僕にはまったく記憶が無いんです」
「そっか。じゃあ、母ひとり子ひとりで今まで頑張ってきたんだ」
誠一郎が、突然優人にしがみつく腕に力をこめた。顔が泣きそうにゆがんでいる。
「それなら、一度くらいお父さんていうものに、甘えてみたかったよな」
「わかりません。そういう気持ちはわかりません、お父さんなんて、最初から知らないので」
気丈にそう言いながら、誠一郎はしめっぽい息をはいた。それはそのままの湿度でじんわりと優人の胸にしみた。
――そういうことだよ。
優人は自分に言いきかせる。なにをがっかりしてるんだよ、と。
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