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第8話 心の傷にバードキスを1
約束の金曜日、誠一郎は約束した時刻から一時間遅れで優人の前にあらわれた。待ち合わせ場所は、先週優人が呼び出した駅前の歩道橋だ。
「すみません、遅くなって」
「今まで仕事だろ。お疲れさま」
優人は仕事場で新しいTシャツに着替えていた。カジュアルでありながら子供っぽく見えない黒のTシャツを厳選した。エルメスのバッファローホーンのネックレスはお気に入りで、なにか大事なことのある日にはお守りのように身につけている。生まれて初めて給料が入った日に買い物に行って、穂積が見立ててくれた品だ。
誠一郎の部屋に電車で移動するまでのあいだ、あたりさわりない世間話をしながら、優人の頭の中には、穂積との会話が何度もめぐっていた。
「イベントのこと、ちゃんと話したほうがいいよ。お前、その人を失望させたら、自分で思ってるよりずっとダメージ受けるんじゃないの?」
「失望? 竹林くんが俺に失望するの?」
「結局、ユートは誰でもいいのかって思うだろ」
そこで優人は返す言葉がなくなってしまった。しょぼんとなった優人に穂積はさとすようにいった。
「その人、ゲイだってわかってる優人を部屋に泊めて、ベッドで一緒に寝たんだろ。男同士がそれほど嫌なわけじゃないと思う」
「でも」
「お前は外見のパス値高いし、テクニックだってあるんだから、相手をその気にさせるのは時間の問題だと思うけどな」
誠一郎と最初に出会った時、優人は軽はずみに性行為に誘うようなことをした。過去のことをネタにそういうことをする連中がいると話した。誠一郎がなかなか手を出してこないのはそのせいだろうか。自分はそんな軽薄な体目当ての連中とは違う、と優人に証明したがっているのだろうか。
だとすると、このめんどくさい事態をまねいたのはひょっとして俺か、と優人は思いいたって衝撃を受けた。
やがて誠一郎のマンションに到着した。誠一郎は今日もはりきって、ワイシャツの腕をまくる。
「鰹のタタキ、仕上げちゃうので、ユートさんはしばらくテレビでも見ててください」
「竹林くんも少しゆっくりしたら? 疲れてるだろ」
「大丈夫です。僕はすごく楽しみにしてたんで」
冷蔵庫からさっとなにか出して、優人のいるローテーブルに運んでくる。有田の平皿にはキュウリとミョウガの浅漬け。竹ざるには色よくゆであがった枝豆。
「漬け物は梅酢を使った自家製のしば漬けですよ」
「前から仕込んでたの?」
枝豆だって事前にゆでて塩をまぶして冷やしていたのだ。優人には、昨夜遅くにひとりでキッチンに立つ誠一郎の姿が見えるような気がした。胸がじんわりとやさしいもので満たされていった。
「ユートさんと一緒に食べるって思うと準備するのも楽しかったですよ」
胸がいっぱいになった優人に、照れた顔で誠一郎が答える。
「竹林くん、俺、ちゃんと材料費払うよ。それに手間賃や水道光熱費もかかってるんだから、多めにとって」
誠一郎は少し戸惑ったように微笑んだ。
「ユートさんがそのほうがいいなら、ワリカンにしますけど……。でもデート代だと思えば材料費なんて安いもんですよ」
楽しそうに話し、そしてすぐに、ひくっと顔がこわばらせた。誠一郎の顔にみるみる血がのぼってくるのがわかる。
「これって、やっぱデート、なの?」
「いや、あの。僕が、僕が、そんなふうに勝手にうかれてるだけで、その」
しどろもどろになる誠一郎の背後で、しゅわわ、という音と白い湯気があがった。吸い物だろうか、ダシの香りをふりまいて小鍋がふきこぼれた。誠一郎があわててキッチンにむかう。
「あとは野菜切って、乗せるだけなんで、ちょっと待っててくださいねっ」
誠一郎は優人から逃げるように背中をむけて、セロリと新タマネギ、三つ葉を刻みはじめた。
優人は一度は腰をおろしたリビングの床の上から、落ちつきなく立ちあがった。キッチンの入り口に立って、つきあたりのシンクとガスコンロの前を行き来して、忙しく立ち働いている誠一郎を見た。
「竹林くん、あのね、再来週の金曜、俺イベントに誘われててね。行こうか迷ってるんだけど……」
白いシャツに包まれた広い背中に話しだした。面と向かってきりだせなかった話が、今ならできそうな気がしていた。
「イベント? どこですか」
背中をむけたまま、誠一郎は答えた。右手の肘と肩がリズミカルに動いて、とんとんと包丁がまな板をたたく音がしている。
「渋谷のクラブ」
「へええ、ユートさんはどんな音楽が好きなんですか?」
そんなイベントじゃねーよ、と内心つっこみを入れながら、優人はもつれそうになる舌を必死で動かして、歯切れ悪くも説明を続ける。
「音楽がメインじゃなくてね。ゲイの出会い系っていうか。相手を探すイベントなんだけど……」
誠一郎が息を止めたのが気配でわかった。手の動きがとまる。
「……ハッテン場とかいうのですか。あれって……本当にあるんですか」
困惑した声が、キッチンから流れてきた。
「竹林くん、知ってたの?」
「ちょっと調べました。僕も勉強しようと思って」
だったら話は早い。優人は腹をくくった。
「あのさ……もし竹林くんが、こっちの世界に興味があるなら、俺と一緒に行かない? そういうことに全然興味がなくって、これからもふたりでオトモダチを続けていくなら、俺はひとりでそこに行ってもいい、かな?」
しばらく誠一郎は考えこんでいた。襟足を爽やかに刈りあげた頭が、斜めにうつむいている。
「ぼ、僕が一緒に行くと、その、どういうことに……なりますか?」
「俺の連れってことになるから、会場で相手は探さない。奥の個室か、あるいはみんながいるとこで、俺とエロいことする。ああいうところに来るゲイは、冷やかしのノンケは嫌がるから、俺となにかするのはもう決定」
「決定……」
誠一郎は弱りきった声でくりかえした。誠一郎が困っているのは明白で、優人は緊張で胸が痛くなってきた。
「僕は……行けません」
「うん。だよな。そういうと思ってた」
優人は力なくいった。笑いながら、なにげなくいうはずだった台詞は、震えないようにするだけで精一杯だった。
誠一郎には、今すぐ優人抱く心の準備はできていないのだろう。それは優人もわかっているつもりだった。
それでも心の底では「止めてくれよ」と叫んでいた。俺が好きなら、抱けなくてもせめて「そんなところへ行かないでください」と強引にひき止めてくれよ、と懇願していた。
そしてどこかで、どうしてそんなに自分が焦っているのか不思議だった。誠一郎が優人を大切に扱ってくれているのはわかっているのだ。
そのやさしい関係を、種のようにまいて、芽を出し、葉をひろげて花開くまで、期待をもってじっくり育ててやればいいじゃないか。
ほんのりとそう思う自分がいる。
それなのに、じっさいに誠一郎に会っていると、今すぐ抱いてほしいと焦ってばかりだ。抱いてくれるのかくれないのか、その答えを性急に出させようとしている。
どうしてこんなに余裕がないのだろう。なにをそんなに思いつめているのだろう。
――俺は、こいつに抱かれなきゃ、世界が終わっちゃうのとでも思っているのかよ。
自分につっこみをいれて、ずきりと痛む心で、それが本音を踏み抜いたのだと知る。
――そうだよ。世界が終わっちゃいそうだよ。
目の前にある誠一郎の背中は、すぐ近くにあるようで遥か遠くだった。
――俺に近づくヤツはみんな、すぐにでも俺を抱きたがったのに。なんなんだよこいつは。弄びやがって、ふざけんなよ。
くやしくて急に泣きそうになって、うわずる声をおさえ、優人はそっけなくいった。
「急に変な話してごめんな」
途端に、誠一郎は金縛りが解けたようにまた野菜を刻みはじめた。セロリの香気がただよう。
みじめな気持ちにうちのめされた優人が、のろのろリビングにひきかえしたとき――
「痛っ」
誠一郎が鋭い声をあげた。
「竹林くん? 切った?」
優人はさっきまでの憂鬱を忘れて、キッチンに駆けつけた。
「あ、ちょっとだけ」
誠一郎がこちらを向いた。左手の人差し指から、血が垂れている。誠一郎がすぐにそばにあったタオルにおしつけた。鮮紅色の染みができる。少し濡れていたのか、赤い色はすぐにじわじわとひろがった。
思いのほか痛かったのか、あるいは血を見るのは苦手なのか、誠一郎は目を見開き、ひどく青ざめた顔をしていた。
「だめだよ。傷はもっと綺麗なものでおさえなきゃ」
「来ないでくださいっ」
そばへ寄ろうとする優人に、誠一郎が叫んだ。
「なにも触らないで!」
有無をいわせぬ強い口調だった。優人は一瞬ためらい、それでも歩み寄ってタオルに押しつけられた左手に手をのばした。
「ユートさん、待ってください、ほんとに、危険なんです」
焦った誠一郎は、あわてて身をひき右手をふりあげた。まだ三徳包丁を握ったままの手だった。
二十センチほどの薄い刃物は、電灯のあかりをはじいてにぶく光った。
気がつくと優人は腰が抜けたように、すとん、と床に尻をついていた。体全体が震え上がって、力がまったく入らなくなった。
きーんと脳を圧迫されるような耳鳴りがした。激しいめまいと頭痛。そして押しつぶされそうな恐怖。
「――ユート、さん?」
誠一郎の声がした。すぐ近くなのに、そそれは膜を一枚へだてたようにくぐもってきこえてきた。声を出そうとするのに、硬いものがつまったように胸が苦しい。優人はもがいた。
「ユートさん!」
誠一郎がとなりに膝をついて、右腕だけで抱きよせてくれた。優人は混乱の中で悲鳴をあげて、誠一郎の胸に倒れこんだ。溺れた人が浮き袋につかまるように、無我夢中でその腕にとりすがった。
「ユートさん、息、息吸ってください」
「――っ。――っ」
激しく泣いたあとのように、断続的に浅く息を吸う。それが精一杯だ。
「これって、なにか病気ですか、救急車、呼びますか」
優人は必死で首を振った。
「恐い……恐い、だけ」
口をひらくとガチガチと奥歯が鳴った。
「恐い?」
「こわ、かっ、た」
「今、今は?」
優人はぎゅっと目をつぶって、誠一郎の胸に顔をおしつけた。彼の腕が頭の後ろを支えてくれる。そのぬくもりと、石けんの匂いがまじった体臭の中にいると、だんだん、深く呼吸ができるようになってきた。
「少し、このままでいますね」
誠一郎のささやく声が、恐慌状態の心にゆっくりしみこんだ。
誠一郎の左手には血液を吸いこんだタオルがそのまま巻かれていた。そのタオルの上から、とっさに近くにあったレジ袋をかぶせていた。
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