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第9話 心の傷にバードキスを2

 冷たい水は、ひりついた喉に気持ちよくとおっていった。  優人がガラスのコップからゆっくり水を飲む様子を、誠一郎は心配そうにみつめている。その表情は、幼子にコップで飲む練習をさせている母親のようだった。  食器棚を背にしてキッチンの床にすわりこんだ優人を、誠一郎がせっせと介抱していた。優人は口からコップをはなした。 「ありがと、落ち着いた」 「横になりますか」 「ううん。大丈夫。それより手の傷」  誠一郎はタオルにくるんだ手をみせた。 「もう血は止まったんで、テープ貼っておきます。思ったより小さな傷でした。騒いですみません」  少しきまりわるそうに言った。 「俺のほうこそ、驚かせちゃって」  優人はそっと視線をおよがせた。さっきまで隙間なく身を寄せあっていたのに、冷静になったとたんにぎこちない空気が流れる。 「すみません、僕の血がついたので、鰹のタタキやめておきますね。どうしよう。メインディッシュがなくなっちゃったな……」  眉をさげて残念そうにいう誠一郎を見て、優人はまた心がゆっくりあたためられていくのを感じる。 「充分だよ。今テーブルにあるぶんだけでも、俺にはごちそうだって」  そういう声はいつもの自分の声よりもずっと細くて弱々しかった。しっかりしろよ、と優人は自分を叱咤する。これ以上、きまずい時間を過ごしたくはない。 「今夜は俺、竹林くんの手作りのしば漬けでお茶漬け食べたいなあ」  歌うように優人がいうと、やっと誠一郎も眉間にしわを寄せたまま、不器用に微笑んだ。  ローテーブルの上には、からになったふたつの茶碗がのっていた。誠一郎の左手の人差し指には、絆創膏が二枚重ねて貼ってある。 「俺ね。末っ子で、ちっちゃいとき母親にめちゃくちゃ甘やかされたの。俺もママっ子で、どこにいくにもついていった。仲のいい親子だったんだ。けっこう大きくなってからも、一緒に買い物にいったりして、彼氏みたいな息子さんでうらやましいわー、なんて近所の人に言われたりしてね」  ふたりともテレビをつける気にはなれず、静かな室内に優人の話し声だけが響いていた。誠一郎のいれてくれたほうじ茶が、静かに湯気をたちのぼらせている。 「それがさ、ゲイだってうちあけたら、なにもかもひっくりかえっちゃった。うちの母さんは、俺の性嗜好はまだ矯正できるって思ったみたいで、可愛い女の子の写真が載ってるアイドル雑誌とか、ちょっとしたラッキースケベのある青年漫画とか買ってきては、俺に読ませようとするの。『こういうの好きでしょ』『ほら可愛いと思うでしょ』って見せつけてくる。恐いくらい必死なの」  はは、とかわいた笑いをおとした。 「そのたびに自分が異常だっていわれてるみたいで、すごく不愉快だった。でも、ずっと我慢してたんだよ。母親の期待を裏切った自分が悪いって思ってたから。ある日、学校から帰って自分の部屋に入ったら、勝手にポスターが貼りかえられてた。そのときは憧れてた水泳選手の雑誌のページを切り離して貼ってたんだけど。それを女性モデルのグラビアに貼りかえられた。それで俺とうとうキレたんだよね。それまでのストレスもあって、ありえないキレかたしたんだ。わざと『そんなんじゃなくて俺はこういうのが好きなんだよ』ってゲイポルノ動画を携帯の画面に出して、見せつけちゃった。母さんはさ、そんなもの絶対に見たくなかったんだと思う。一気に爆発した」  そこまで話して、自分の頬がひくついているのに優人は気がついた。ななめ向かいに座っていた誠一郎が黙って腰をうかせた。 「それで……母さんがキッチンにいって」  目の奥が痛くなって、じわりと視界が揺れた。下まぶたに涙がたまってくる。 「ユートさん」 「……ほう、ちょう……持って」  顎が震えて、変な声になった。 「あんたなんか、産みなおしてやるって。もう一度私が最初から産みなおしてやるって。包丁、ふりまわして、暴れて」  腹に力を入れて声の調子を整えると、勝手に涙がこぼれた。鼻水も垂れそうになって、あわててすすりあげる。 「全部、一瞬のことだったと思う。すぐに騒ぎをききつけた兄貴が来て、母さんとりおさえてくれた……」 「ユートさん、もういいです」  誠一郎がまた肩に手をまわして抱き寄せてくれた。背後から、すっぽり胸に入れて守るように優人を抱きしめてくれる。優人は思わずその腕に両手をかける。 「でも、あのとき一瞬、殺されるって思った。――恐くて――恐くて」 「……包丁見て、思い出しちゃいましたか」  こくりと優人はうなずいた。 「俺、あの家庭用の包丁見ると、気分悪くなりそうで……だから家出してからも、今まで全然自炊しなかった。毎食、買ったものや外食ですませてきた」  優人は首を後ろに向けて誠一郎の顔をみあげた。 「今まで、台所手伝えなくってごめんな」 「そんなこと。僕が好きでやってることですから」 「竹林くんの作ってくれるもの、いつも普通なのに、すごく美味しくて嬉しかった」  優人の目から、またぽとりと滴が落ちて、誠一郎のむきだしになった腕を濡らした。 「俺は――それでも母さんが好きなんだ。殺されそうになった瞬間だって、母さんが好きだった。だからこそ、いつかは俺がゲイだってことも、いつかちゃんとわかってくれるはずだって信じてた。だから、あの時は、俺は母親に殺されなくちゃいけないのかなって思った、俺なんか死んだほうがいいのかなって。大好きな人をこんなに怒らせるくらいなら、いっそ俺なんて――」  そしてまた、むせるように泣いた。誠一郎は黙って辛抱強く、優人の心によりそってくれる。 「高校生のときに家出して、ウリ専で稼いで暮らして。今はなんとかまともな仕事で生活できてる。でも、それでも時々恐くなるんだ。俺はこのままでいいのか。ゲイのまま生きてていいのかって。今も母親を怒らせて泣かせてるんじゃないかって」  優人は発作的に体をよじって、誠一郎に正面から抱きついた。ふいうちをくらった誠一郎が、後ろにあるベッドの側面に倒れこんだ。 「そんなとき、俺と同じように、男を愛せる人に会いたくなるんだ。誰かにめちゃくちゃに抱きつぶされたくなるんだ。誰かに求められて、なにもかもわかんなくなるくらい、ヤりまくりたくなるんだ」 「ユ、ユートさん……」  うろたえる誠一郎の声にも切迫感があった。優人はいっそう追いつめるように、うるんだ目で誠一郎に訴えた。 「竹林くん……」  顔と顔を近づけて、唇を半開きにした。泣いて赤くなった目でみつめ、鼻先がふれあいそうな距離でとめる。 「キス、して」  自分からはせずに、あくまでねだった。自信のないか細い声だった。  優人がこんな情けない迫りかたを誰かにしたのは、初めてのことだった。緊張で心臓が破裂しそうだった。羞恥心ではじけそうになりながら待つあいだ、あたたかく彼の息が頬にかかる。  いきなり、ぐい、とひきよせられ、ふたりは半回転した。体位が入れ替わり、ベッドのマットレスの角にに首をあずけているのが優人で、上からのしかかっているのが誠一郎になった。  あっ、と声をあげそうになった瞬間、優人の唇は、待ち望んでいたもので柔らかくふさがれていた。  ふわりとまぶしいもので体全体が包まれたような心地がした。気が遠くなりそうな幸福感だった。  下半身から力が抜け、優人はさらに貪るように唇を開いた。そこに誠一郎の熱く濡れた舌をくわえこむ予定だった。  しかし、彼の唇は一瞬で離れてしまった。  小鳥がついばむような、ういういしいバードキス。  ぱちくり、と目を見開いた優人の頬に、またキス。  鼻に、反対の頬に。眉間に、おでこに、触れるだけのキスがうけとめきれないほどふりそそぐ。羽でなでるような、軽やかでやさしい感触だった。 「ち、ちょっと待っ」 「ユートさん……」  余裕のない声でのしかかってきた。優人の両膝のあいだに誠一郎の膝があった。ふたりの脚と脚がくみあわさる。もうさえぎるものはない。優人は腰をうかせて自分の体をおしつけた。  いやらしく質量を増したそれを誠一郎の股間に触れさせる。  あっ、と低い声をあげて誠一郎は腰をひいた。その前に優人は、誠一郎のスラックスの奥で、同じように硬い芯をもって布を張っているものの存在を感じていた。布越しにこすれあう感覚に、優人も軽く喘いだ。  安堵と喜びが優人の胸にあふれた。同時に、その存在をもっと体の敏感な部分に感じたくて、体の奥に火がともるような欲情を感じた。  なのに、誠一郎はあいかわらず、触れるだけの小鳥の挨拶のようなキスをくりかえしているだけなのだ。じれながら、優人はまぶたを半分開いて、誠一郎の前髪をやさしくかきあげた。 「竹林くん、ちゃんと、大人のキスして。俺と一緒に気持ちよく、なろ?」  とたんにキスの雨がやんだ。誠一郎はしばらくだまって優人をみつめていた。優人は唇のあいだにそっと舌先をのぞかせて誘う。  ぐっと、なにかをこらえるような赤い顔をした誠一郎が、たまらないようにぎゅっと優人を抱きしめた。 「ユートさんが、好きです。いつか、ちゃんとそういう関係になりたいです。でも今は無理なんです。いずれその理由も説明しますから。だから、お願いです――もう少しだけ、僕に時間をください」  泣きそうな声でそういった。  優人は言葉を失う。誠一郎はなにを隠しているのだろう。将来、自分はなにを説明されるのだろう。それはどうして今ではいけないのだろう。 「まさか――別居中の妻子が、いる、とか?」  顔をひきつらせながらたずねる。 「そういうのじゃないです」  そこは即答だった。 「だよな。……今じゃだめなの? 俺、なんでも聞いてやるよ」  誠一郎は少し迷う顔になった。 「……もう、ちょっと、考えさせてください」  そして不安そうな顔で優人を見た。自分のためにそんな情けない顔をする誠一郎を見ると、優人は愛しくてそれ以上責めることができなくなってしまう。 「じゃあ、きいていい? 竹林くんは、俺と飯食って、しゃべって、楽しい?」 「楽しい、です」 「来週も会ってくれる?」 「ほんとですかっ。ぜひ、ぜひ、来てくださいっ。今度こそ、ちゃんとご飯作ります」  誠一郎が必死で答えるのを見て、優人はほっとほほえんだ。 「それでもういいよ。俺も、そう思ってもらえるのが一番嬉しいかも」  その夜も一緒に眠った。誠一郎が、一度パニックを起こした優人をひどく心配したからだ。  その心配に反して、優人の心は凪いでいた。誠一郎に過去を打ち明けたことで、一つ重荷をおろしたような安らいだ気持ちだった。 「じゃ、また来週ね」  用意してきた仕事用のTシャツに着替えて、優人がマンションのドアを開けた。隙間からまぶしい朝日がさしこむ。 「あ、あの、ユートさん、ちょっといいですか」  洗いたてのコットンシャツを羽織った誠一郎が、リビングから廊下に出てきた。 「あの、昨夜いってたイベント。あれ……ユートさんが行きたいなら、行ってください。僕はこんなだし……しょうがないです」  誠一郎は、逆光になった廊下で顔をうつむけ、しょんぼりと肩をおとしていう。  そして、次の瞬間、覚悟をきめたように顔をあげた。優人が一瞬ひるむような、真剣な表情だった。 「でももし、行ってみて、いい相手がみつからなかったら、その時は僕に電話をくれませんか」  優人は不思議そうに誠一郎を見た。目を見開き、眉をよせて、少し苦しげな顔をしている。きっとこれが、誠一郎が夜中悩んで出した結論なのだろう。 「僕よりも、かっこよくて、魅力があって、その、ええと、そっちのテクニックもすごくて、ユートさんを幸せにしてくれそうな人と出会ったのなら、もう、僕には連絡くれなくていいです。今後は会うのもやめましょう。でも、もしみつからなかったら、僕に電話を」 「でも、それじゃ、すげえ夜遅くなるかも……」 「ずっと、待っています。ユートさんからの電話」  そして自嘲するように、くすっと笑った。 「どうせ、僕は一睡もできないと思いますから。だから一晩中、待っています」 「竹林くん……」 「ユートさんが好きです。でも今まで自由にセックスを楽しんできたユートさんを僕の価値観で縛りたくはないです。あなたには、最良の人生を選んで、幸せになってほしいです」  俺のままで、いいのか。  優人は雷にうたれたように考えた。  今まで衝動的にたくさんの男に身をまかせてきた、こんな俺のままで、そのままで好きでいてくれるというのか。  優人には、それが誠一郎の強がりだとすぐにわかった。誠一郎の目にはうっすら涙がうかんでいる。それでも、両手で拳をつくって指の関節が白くなるほど握りしめてほほえむ誠一郎の強がりを、男の意地を、最後まで貫かせてやりたい気がしていた。 「うん、わかった」  優人はドアを開けた。光の中に一日を踏みだした。

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