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第11話 恋の証明作業は迷走する2

 ゲンキが席を立った。螺旋状の階段を降り、下のフロアにむかう。少し苦い気持ちでその後ろ姿を見ながら、優人はグラスを一気にかたむけた。  ゲンキが連れてきたのは、ヨーロッパのサッカーチームのレプリカジャージを着た男だった。大柄で、水色と黒の太いストライプ模様が遠くからでもよく目立っていた。  男が近づいてきた。百八十センチはあるだろうか、誠一郎とおなじくらいだ、と優人は思う。  髪は黒くて短く刈っていて、太い眉には一箇所途切れたところがあった。眉とあごは、精悍な顔といえなくもない。それでもどこか油断のならない、嫌な雰囲気がただよっていた。  優人は胸騒ぎがした。どこかでこの男を知っている気がする。昔の客だろうか。まだ優人の肌に未練のあった客が『元ボーイのユートをぜひとも呼んでくれ』とゲンキにわたりをつけたのだろうか。  男はスツールには座らず、優人のすぐ隣に立つと、指先で優人のグラスの縁に触れた。無礼な奴だな、と内心思い、優人はすこし斜に見上げた。 「ユートさん、今日はどうも。俺のこと、覚えてますか」  暗い声で男がたずねた。男の体からは、なまなましく汗の匂いがした。首筋には汗の流れたあとが光っている。 「あの、えっと」 「前のイベントで」 「ああ、あの。ああいうとき、俺だいたい酔っぱらってるんで記憶とか……」  男の手が、グラスをはなれ優人の顎にかかった。有無を言わせず上を向かせる。男の瞳が底光りするような怒りをたたえて優人をうつしていた。 「あのとき、あなたは俺だけ相手にしてくれなかった。二年前のあのとき、あなたに群がった男たちのなかで、俺だけが床に転がってうめいているだけだった。あんなにたくさんのギャラリーの中で、俺だけが恥をかかされたんだ。一目で惚れた、あなたになあ!」  優人は完全に思い出した。二年前、男たちに飲みくらべをさせたとき、優人に執着していた男のひとりだ。あのとき優人は男たちを煽ってバーカウンターで飲みくらべをさせたあと、全員とセックスをした。しかし、酔いつぶれてしまったひとりだけは相手ができなかったのだ。  優人はぶるっと身を震わせた。倒れるほど限度を超えて飲み続けたのは、この男がそれだけ優人を抱きたかったということだろう。優人のためにそこまでしたにもかかわらず、自分だけ肌に触れさせてもらえず、たくさんの見物人の前で敗者のような扱いを受けた。それは、ずっと屈辱としてこの男の心に刻まれていたのかもしれない。 「待てよ。ゲンキ、こいつは――」  優人が顔色を変えてそういったときには、もうゲンキは逃げるようにふたりの側から離れていた。  あわててあとを追おうとスツールを降りた優人は、脚がうまく床を踏めずに倒れこんだ。まるで床がなくなってやわらかな泥にずぶずぶと沈みこんでいくようだった。平衡感覚がおかしくなっている。  床に倒れるとくらくらと目眩がした。まるで嵐にあった船に乗っているように世界が揺れる。ホールから響く激しいビートに、頭がずきずき痛んだ。 「お前っ、俺のグラスに、なに入れた」  優人は床にはいつくばって叫んだ。ぐらぐら揺れる視界の中でゲンキが振り返った。哀しい顔をしていた。隠しきれない憤りと哀しみの両方を顔にうかべ、優人を見おろす。 「……なんで世の中ってこんな不公平なんすかね。ユートさんばっかりみんなに愛されて」  ゲンキの声は今にも泣き出しそうだ。 「いつかユートさんと肩を並べたいって、それが夢だったのに。なんで俺は、いつまでたっても一番になれないんすかね。いつもユートさんに置いていかれてばっかり、なんですかね」 ――そうか。 優人も胸にせりあがるものを感じながら考えた。 ――お前は、俺になりたかったのか。  変態、変態とさげすまれながらも、店の売れ上げトップをとって華々しく引退。さっさと昼間の仕事について、過去は捨てたかのように「ステディな彼氏をつくる」なんて大まじめにいってのける人生。 ――お前がなりたかったものは、俺の後輩や友人じゃなかったんだな。  優人がゲンキにできないことをなしとげるたびに、彼の嫉妬心は見えないところで燃えあがっていたのかもしれない。 ――俺、無神経で、お前の気持ちわかってやれなくて、ごめんな。  男が倒れた優人の肩に自分の腕をまわして、むりやり立ちあがらせた。優人は焦点の結ばない目でふらつきながも、携帯電話の入ったクラッチバッグを命綱のようにわしづかみにした。バッグの中の電話の輪郭に指が触れたとたん、誠一郎の顔が思いうかび、泣きたくなる。  優人はうめくように言葉にならない声をあげた。  ゲンキが一度だけ、不安そうに振り返った。その顔に後悔と罪悪感の入り交じったものがよぎる。  あっちへいけ、とばかりに男が手の甲を見せて追い払った。まるでお前にはもう用はないといいたげな仕草だった。  もはや助けられない、と悟ったのか、ゲンキはなにか断ちきるように足早に遠ざかっていった。  男はバーラウンジの床に倒れた優人の腕をつかんで、自分の肩にかつぎあげた。酔っぱらいを介抱しているかのような格好で奥のVIP用ボックス席に連れこむ。  足もとのおぼつかない優人は、蛍光塗料を塗ったゆるやかな階段を上ることさえできなくなっていて途中でなんどもつまずいた。そのたびに、腰に手をまわして抱きおこされる。倒れ、おこされるたびに、男の手つきがなれなれしくなり、ふたりの体は密着していく。  最後に、黒い革張りの広いソファに投げこまれた。  高い位置にあるVIP席の床は透明のアクリル板で、ホールの様子が透けて見えていた。壁には、大きな液晶画面があってミュージックビデオやDJブースの様子を映していた。今は音楽に合わせて花でかたちづくられたカラフルなドクロを点滅させている。  いつもはソファでコの字にかこまれたボックス席が並んでいるだけだが、今日は、席のあいだにシンプルなスクリーンが立てられていて、それぞれが個室のように仕切られていた。  優人はソファに倒れたまま首を起こした。眉間を指でぎゅっと押し、脈打つような頭痛に耐えて周囲をみまわす。  ソファの中心にあるローテーブルは間接照明になっていて、丸い天板の下から床へ、紫色の光が妖しくひろがっていた。その下では、下のホールでとりつかれたように踊り続ける男たちの頭が見える。  隣の個室から、野太い喘ぎ声がしていた。ぴしゃっと濡れた肌を叩く音もする。スパンキングが趣味らしい。そのたびに喘ぎともうめきともつかない声があがる。  優人がちょっと視線をあげると、隣との仕切りにあるスクリーンに、よつんばいになった大柄な男と、その尻に股間をおしあてている細身の男の影が映っていた。お化けのようにひきのばされた大きなシルエットだった。  細身の男は長髪で、なにか棒のようなものをふりあげている。ぴしゃっと背中を鞭打つのと同時に、器用に腰で突きあげる。長い髪がリズミカルにスクリーンで踊った。背中と尻、両方の刺激にたまらないのか、よつんばいになっているほうが激しく身を震わせる。ふたつの影はいやらしく連動して、馬のようにいななく。 「あっちも楽しそうだよな?」  優人の視線の先に気がついたのか、男は含み笑いをもらした。そして、両腕をあげてレプリカジャージを脱ぎ捨てる。  服の下は思ったよりずっと逞しい体をしていた。肩に盛りあがった筋肉から脇の下にかけて、紫の照明で影ができていた。胸の下とへそにつながる腹の中心にも彫ったようなくぼみができている。普段の優人なら嫌いなタイプではないけれど、今はその立派な体に恐怖しかわかなかった。

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