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第13話 嵐の夜の先に2

 頭が痛い。  目を閉じたままでも、まぶしい光に顔を照らされているのがわかる。まぶたを通して頭の奥に刺さるような光だ。  優人は右手の甲を目の上に載せた。頭がずきずきする。フラッシュバックのように昨夜の記憶の断片がよみがえった。絶頂から急降下のブラックアウト。そこから優人の意識をひきもどしたたのは、激しい怒号と言い争う声。悲鳴。泣くような声。  タクシーの車内。ぐったりとしてシートの横たわり、車窓から見た泥水みたいな夜空。運転手の心配そうな声。  ふらふら歩き、植え込みにかがんで嘔吐したこと。ペットボトルの水。新品のタオル。それから――  それから?  左手で周囲をさぐると、カバーのかかった布団に触れた。そこで自分があたたかい布団につつまれていることに気がついた。  うっすらをまぶたを開いた。  最初かすんでいた視界が、手動でピントを合わせるように、しだいにはっきりとしてくる。白いクロスを貼った天井がみえた。古ぼけて、ちょっと黄ばんだシーリングライト。  見覚えはある。でも自分の部屋ではないな、と優人は思う。首をひねって横をむこうとすると、ぱりぱりと音がした。レジ袋をかけた洗面器が顔のわきに置いてある。  そっとどけて、室内を見まわした。  そこは先週、鰹のタタキを食べにやってきた部屋だった。今は照明が消えていて、ベッドサイドの窓からオレンジ色の暁光が、斜めにさしていた。  優人はなにかに恐れるようにゆっくりと目を動かして、部屋の主をさがした。居間のすみ、キッチンとの境目の部分に正座している四角い背中が見える。  いつものワイシャツ姿だ。ズボンだけは部屋着に着替えていて、その中途半端な格好のまま、台所のほうをむいてきっちりと両手を腿のところにおいて正座している。  首がほんの少し前に倒れていて、まるで独房で懲罰を受けている囚人のような姿勢だった。  声をかけたい。優人はそれを反射的に我慢する。なにをいえばいいのかわからない。喉の奥は焼けるように痛んでいる。  ふりむいて誠一郎が笑ってくれたらいい。いつものように爽やかな顔で、それで少し困ったように微笑んでくれたらいい。しかし、そんなことを望む資格が今の自分にあるのだろうか。  心がきしむ。途方に暮れる。どうしたらいいのかわからない。 「……帰ってきた」  事実だけをぽつんといった。  はじかれたように誠一郎が立ちあがった。恐い先生に号令をかけられた生徒のようだった。  ベッドサイドに走り寄ってくる。片足をひいているように見えるのは、さっきまでの正座のせいで痺れているのだろうか。 「ユートさん、気分どうですか。気持ち悪いですか」  顔は心配そうだった。どことなく不安そうで弱々しくもある。左手首をにぎられた。脈を確認しているようだ。 「動悸はします? 呼吸はどうですか?」  矢継ぎ早に質問する。そのきまじめな顔を見ると、日常に「帰ってきた」という実感がわいて、優人はじわりと涙がわいた。 「頭と、喉が痛い。今は、吐き気はしない」 「お水、飲めそうですか」 「うん。ほしい」  誠一郎がキッチンに水をくみにいった。優人はゆっくり上半身をおこした。昨日のタンクトップのまま、上から長袖のパーカーを着せられていた。誠一郎のものだろう。あまった袖をまくりあげる。  誠一郎が戻ってきて、ベッドの端に腰かけ、水のはいったコップをさしだした。受け取りながら、優人の目はその手にくぎづけになった。  手の甲、指の付け根の骨の突起した部分に、赤黒い痣ができていた。人を素手で殴ったときにできる痣だ。 「ずっと迷ってました。病院に連れて行ったほうがいいのか。でも内藤さんが、『全部吐いたならしばらく様子みてもいい、おおごとにしないほうが本人のためにもいいだろう』っていうので」  コップを持ったまま優人は目を丸くした。 「あの、でも、もし動悸や呼吸困難が起こったら、すぐ救急車呼ぶようにって」 「……穂積のこと? 内藤さんって」 「ああ、そうです。ユートさんの職場の人です」 「穂積に会ったの?」  誠一郎の顔がまた不安に曇った。 「全然覚えてないんですか?」  おそるおそるたずねる。 「電話のあと、ほとんど覚えて、ない」  誠一郎はしばらく言葉を失い、すぐ微笑んだ。 「そう、ですか。そのほうがいいです。やなことはもう忘れましょう」  強がりの透けるやさしい笑顔でいった。 「でも、なかったことにはなんないよ」 「ユートさん?」 「竹林くん、両手出して」  誠一郎は熱いものに触れたようにさっと手をひっこめた。そのわかりやすい反応に優人は苦笑する。 「ちゃんと見せて。俺になにがあったか説明して。さっき部屋のすみでひとりで、めちゃめちゃ反省してたでしょ」  優人はざらついた声でいった。思わず顔をしかめた。喉をひっかくような痛みがあった。誠一郎がまた心配そうな顔になる。 「とりあえず水分を。僕はこれから、ユートさんの意識が戻ったって、内藤さんに報告しときます。きっと心配してますから。説明はそれから」  優人がうなずくと、誠一郎は携帯電話を持ってキッチンのほうへいった。  優人は手の中の水を一口ふくみ、ゆっくり喉にとおした。水の冷たさが、胃酸で焼けた喉と食道を気持ちよくおりていった。 「今日は休みでいいそうです。内藤さんが、もう代わりのドライバー手配したっていってました」  電話を終えて、帰ってきた誠一郎は笑顔でそういった。この状態では今日は運転できないだろう、と優人も思っていた。 「ユートさんに偶然会ったとき、『こどもたくしー』って会社名の入ったTシャツ着てたの覚えてますか?」  誠一郎はベッドに浅く腰かけた。優人は上半身をおこして子供のように膝をたてて話をきいている。  記憶をたぐった。オフィスビルのレストランで誠一郎と再会したときは、仕事の途中の昼休みだった。たしかにユニフォーム代わりのTシャツを着ていた。 「そこが勤務先なんだなあって覚えてたんです。昨夜はひとり、部屋の中でずっと自分の携帯をみつめていました。トイレにいくのも、お風呂に入るのも携帯と一緒でした。いつユートさんから電話があってもちゃんと出られるようにって。女々しいくらい必死でした。そのうち、だんだん不安になって、焦れてきて、我慢できなくなって。  強がってかっこつけて、俺はなんてバカなこと言ったんだろうって後悔しました。きっと――きっと僕より魅力的な男なんていくらでもいるのに。もっとユートさんが気楽に楽しくつきあえる人がいるんだろうに。なんで俺は『行かないでください』って素直にいわなかったんだろうって。そう思ったら、いますぐそれを伝えなくちゃって。いてもたってもいられなくなってしまって。それでユートさんの携帯に電話しました」 そこで誠一郎は自分を落ち着かせるように大きくため息をついた。優人はいたたまれなくなって、ベッドの上で身を縮めた。 「ユートさんの携帯に電話して、そしたらあの……あの状況で、僕は頭に血がのぼって……すぐ駆けつけようと思ったんですけど、渋谷のクラブとしか場所を知らないことに気がつきました。それでひょっとして職場の人なら、ユートさんが普段行く場所を知ってるかもしれない、と思って。藁にもすがる思いだったんです。ネットで事業所の電話番号が調べられたのでかけました」  そこで誠一郎はくすりと笑った。 「でもよく考えたら、もう深夜だったんですよね。それでも電話は転送されて、内藤さんが受けてくれたんです」  穂積は会員の急な依頼のために、女性の事務員が帰ったあとは、自分の仕事用の携帯に事務所の電話が転送されるように設定している。それが機能したのだろう。 「ユートさんがピンチみたいだって説明したら、すぐにそのクラブに一緒に行ってくれることになって、渋谷でおちあいました」  そこで、誠一郎はふたたび真顔になった。忘れていた怒りを思い出したように、拳をぎゅっと握りしめた。五指の付け根が赤黒くはれていた。 「僕も……正直いうとよく覚えてないんです。冷静じゃなかったので。会場に入って、ユートさんの名前を呼びながら内藤さんと探しました。内藤さんはホールで、僕は個室のほうをまわって……あなたが……ソファの上にうつぶせに倒れているのを見ました。その上に乗っかっていた裸の男に、思いっきり殴りかかっていて――」  優人は手をのばして、誠一郎の傷ついた拳にそっと触れた。申し訳なくて泣きたい気持ちだった。 「気がついたときは、内藤さんに後ろから羽交い締めにされていて。『そんな奴のことよりも、ユートの手当をしましょう』ってすごくおだやかにいわれて……やっと我にかえりました」 「俺は……どんな感じだった?」 「内藤さんが大きな声をかけたら、一瞬目を開けたんですよ。で、『目がまわって気持ち悪い、立てない』っていったんです。店員に水をもらってトイレで吐かせました。内藤さんと一緒にユートさんを支えて、内藤さんはすごく慣れていて、ユートさんを後ろから抱きかかえて、みぞおちのところに手をあてて、ぐっと押しこんで吐かせるんです」 「ああ、二回目だからな」  優人はバツが悪そうにつぶやいた。 「しばらく便座にすわって休んだら、ユートさんの顔色がよくなってきたみたいだったので。タクシー呼んで帰ろうってことになりました。そしたら内藤さんが、今夜は僕に連れて帰ってほしいっていうんです」  誠一郎の目がじわりとうるんだ。 「内藤さんは最初から最後まで冷静でしっかりしてました。僕はあのとき、焦って、とりみだして、暴れて、おろおろして。いいとこなんかひとっつもなかったのに、内藤さんは『今後、ユートのことはあなたにお願いしたい』って言ってくれました。『時々バカみたいなことしでかすんだけど、ほんとはすげえ寂しがりやで、俺にとっては可愛い弟なんです。できるだけ長い間、大事にしてやってください』って深く頭をさげて言われて。僕は、とっさに気のきいた言葉も出なくて、ただ胸がいっぱいで何度も頭をさげて、ユートさんとタクシーでここまで帰ってきました」 「穂積は、ろくでもないことになるのがわかってたのかもな。ずっと反対されてたんだ。ああいうイベントにはもう行くなって」  そして、優人もまた胸が苦しいような、せつないような気持ちになっているのに気がついた。嬉しくて、恥ずかしくて、そして嬉しい。 「穂積が竹林くんに、俺のこと頼むっていったのか。そうか。もう俺たち公認だな」  ぼっ、と誠一郎の顔が赤くなった。

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