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第14話 ヤれない事情1
「それより、その手」
優人は、誠一郎の傷ついた拳をそっと下から持ちあげ、両方の頬で頬ずりした。愛しげに目を閉じて、じくじくと熱をもつ打撲痕をいつくしんだ。自然と涙がわいてきた。
「昨夜のことは、俺の考えが甘かった。俺が未熟な人間で、今までどんなに身勝手なことやってきたのか、身に染みてよくわかった。でも竹林くんがこんな――こんなことしちゃだめだ。自分を傷つけてまで、俺をかばうことなんてないんだ」
両手を頬にあてたまま、誠一郎の目を下から、じっとみあげた。誠一郎はひるまず、その目をみつめかえした。強い決意をこめた視線だった。
「僕のほうこそ、身勝手かもしれないんですけど……。ユートさんが、他の人に抱かれるなんて嫌です。絶対に嫌です。俺のものになってほしいです。もう誰にも、とられたくない。このことに関しては、冷静には考えられません」
ひくっと一度、誠一郎がしゃくりあげた。誠一郎の下まぶたに、ふるふると涙がうかんできた。
「僕は、生まれてはじめて人を殴りました。子供のころから、友達とどつきあいの喧嘩さえしたことがなかったんです。僕は……そういうことをしちゃいけない人間だったから。でもあのときは自分が止められなくて……」
そして沈痛な声をしぼり出した。
「僕は、ひょっとすると相手に傷害罪で訴えられるかもしれません」
夜のあいだ、正座をしてうなだれてそのことを考えていたのだろうか、と優人は思った。警察官が踏みこんできて連行されしまう、とか。そんなメロドラマじみた展開を。
さっきの正座の姿勢からして、誠一郎の心の中ではすでに服役中だったのかもしれない。
「そんなに殴ったの?」
「めいっぱいボコりました」
「穂積はなんて?」
「こいつがユートにしたことと天秤にかけたら相殺だろうって、全然気にしてませんでした」
ぷっと優人はふきだした。穂積らしい判断だ。
「じゃ、いいんじゃね」
「ほんとですか」
「まあそんときはそんときだよ。傷害罪はないと思うけどなあ。せいぜい暴行罪どまりじゃないかな。だいたいそういうのは示談だし。治療費払ってカタがつくことが多いよ」
「すごく勉強になります」
ひどく真面目な顔でうなずく誠一郎に、優人はおもわず頬がゆるんでしまう。優人は持っていた手をはなした。
「ありがとう」
優人はおだやかにいった。
「助けにきてくれて。ここに帰って来れてよかった。竹林くんの側に」
誠一郎も、やっと安心した顔になった。落ち着いた笑顔がうかぶ。
「もう少し休みましょう。横になってください。お昼用意します。おかゆとフレンチトースト、どっちがいいですか」
「どっちもいいなあ。でも、今はおかゆ、かな」
「じゃ、僕はネギと生姜と鶏肉買いにいってきます」
「中華風なの? 楽しみ」
優人を寝かせて布団をかぶせると、誠一郎は身支度をして買い物に出て行った。
ひとりになると優人はベッドの上から手をのばした。ローテーブルの上に自分のクラッチバッグがのっている。ひきよせて、中から携帯電話を出した。
仕事中にもかかわらず、相手はすぐに出てくれた。
「ユート? さっき竹林くんから電話もらったよ。もう大丈夫なのか?」
「うん。穂積ごめん。迷惑かけてほんとごめん。休ませてくれてありがと」
「ああ、やっぱり声、枯れちゃったな」
しょうがない奴だな、といいたげな口調だった。
「穂積、竹林くんがさ、昨夜のことが暴行罪になるかって心配してたけど……」
ふふっと穂積が低い声で笑いだした。
「いい人だよなあ、竹林くん。思ってたより男前だったし。ユートをみつけたときは『人を殺す覚悟をした人間の顔』になってた。でもあの人、喧嘩とか絶対やったことないだろ。それはもう綺麗ってほどの、正しいフォームのぐるぐるパンチでさ」
言葉の途中で、我慢しきれない笑い声がくっくっと聞こえてくる。
「そんなパンチじゃ、当たらないよって思ったのに、ものの二発ぐらいで、ごつい相手倒しちゃってさ。無駄にすげえ威力なんだよ。あとはもうやりたい放題っていうか」
誠一郎の華麗なぐるぐるパンチを見たかった、と優人は内心思う。
「ただ我にかえって、竹林くん、あの場で警察と救急車呼ぶって言ったんだよ。俺があわてて止めたんだ。あそこには家族や職場にゲイだって知られたくない人間だっていっぱいいるのに、事情聴取なんて無理だろ。それでイベント主催者に間に入ってもらって、ユートの身に起きたことも、竹林くんが殴ったことも、お互いおおごとにしないってことで話つけたんだよ」
安心していいからな、とたのもしい声でいってくれた。
「ほんと、なにからなにまで……」
「ユート、竹林くんをはなすなよ」
「ああ、頑張ってみる」
「頑張ってみる?」
「うん。まだエロいことできてないから、俺頑張る」
「ほんっと、お前は変わんねえな」と苦笑がきこえる。
「ううん。変わったんだ、穂積。俺、すげえ変わったよ」
むきになって優人は言い張る。もう、むやみに男漁りをしたり、不特定多数にもてることをステータスのように考えたりはしないだろう。
「わかったよ」
穂積の声は嬉しげで、少し感傷的だった。
優人はまた少し眠り、やがてベッドから起きだしてローテーブルの前で食事をした。誠一郎が土鍋で炊いた粥は、生姜の香りのする鳥だしの中華粥だった。白髪ネギとクコの実をのせて、目の前にさしだされた。
テーブルの真ん中に、灰色の土鍋が鍋敷きとともにどんと置かれて、蓋の穴から細く湯気がたっていた。
優人は、れんげでつやのある白い表面をすくって、口へはこぶ。からっぽの胃にじんわりしみとおっていくうまみと、玄米のぷちぷちした食感が心地よかった。誠一郎もとなりで同じように粥をすすっている。
ふたりとも言葉は少なかったが、誠一郎のいたわりの気持ちは、部屋の中に日だまりのようにやわらかく満ちていた。
ベランダにつながる大きな窓から、昼の陽が明るくさしていた。優人が眠っているうちに誠一郎が干したのか、ベランダには洗濯物が揺れている。かすかに石けんの匂いがする。
優人はゆっくり食事を終えて、ごちそうさま、と両手をあわせた。そしてまだ食べている誠一郎のほうに、正面から向きあった。
「竹林くん、あのね、俺考えたんだけど、今度休暇とって保健所行くわ」
誠一郎の手が止まった。まだ意味がわからずにとまどった顔をしている。
「俺と竹林くんの感覚ってきっとだいぶ違うと思うんだ。そのことに俺もやっと気がついた。ウリ専のお店で働いていたときは、マネージャーから検査受けろってうるさくいわれててさ。二ヶ月か三ヶ月に一度は仕方なく受けてたんだけど。辞めてからは、自分から受けたことなかったから。だから、その、HIVとか性病とか、そういうのひととおり検査受けてくるわ。でその結果が出て、俺の身の潔白が証明されたら、そしたら――」
心置きなくセックスしよう、というはずの最後のひとことが、なぜか急に気恥ずかしくなって優人は思わず目を泳がせた。
誠一郎があわててティッシュをとって口元をぬぐう。
「ちょっ、大丈夫?」
「いや、あの、そうじゃないんです。僕が手を出さないのは、そういうことじゃないんです。ユートさんじゃなくて、僕が――僕に、問題があるんです」
誠一郎はいそいで残りの粥をかきこんだ。
「僕も、ちゃんとお話します」
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