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第15話 ヤれない事情2

 誠一郎が食器を片付けてキッチンから戻ってきた。背後のキッチンから、コーヒーのいい香りがした。こぽこぽとコーヒーメーカーが滴を落とす音が、静かな室内に平和に響いている。  誠一郎はハンカチを出した。細く折って目にあてた。 「顔を見ながらだと、恐くて話せなくなってしまうかもしれないので、こうしておきます。もしも全部きいて、ユートさんがこれ以上僕とつきあっていくのが無理だって思ったら、この部屋からそっと出て行ってください。もし平気だったら――僕の前にいてください」  祈るようにそういう誠一郎の顔は、ハンカチの下の部分だけでもわかるくらいすでに蒼白になっていた。 「今まで、にえきらない態度ですみませんでした。でもどうしても、簡単にセックスはできません。僕は――じつは、HBVのキャリアなんです」  血の気を失って震える唇がつむいだのは、聞き慣れない言葉だった。 「HBV?」 「B型肝炎ウイルスのことです。ユートさん、感染症パンデミック系のパニック映画とか見たことありますか? ああいうのに、ウイルスのワクチン開発の鍵として『キャリア』と呼ばれる人や動物が登場するんですが。キャリアとは、ウイルスに感染してるんだけど体内で自力で抗体を作れるようになって発症することのない個体のことなんです。B型肝炎ウイルスの場合はだいたい三歳以下で感染すると、自然に抗体ができて、急性肝炎を発症せずにキャリアになると言われています」 「竹林くんは、そんな小さな頃に感染したってこと?」 「僕の場合は、生まれたときに母子感染したので、ほぼ生まれつきみたいなものです。母親はどこで感染したのかわかりません。若い頃の交際相手かもしれませんし、子供のころ輸血をともなう手術をしたこともあるらしいので、そっちかもしれません。母は……このことにすごく責任を感じています。  B型肝炎の感染者は現在、成人の百人に一人といわれています。その中には、僕みたいなキャリアも含まれます。母はできるかぎりのことをしてくれました。母子感染を防ぐ処置をしてくれるという病院での出産だったんですが……それでも百パーセント安全っていうわけではないんですよ」  誠一郎は見えている口元だけで、苦しげに話した。唇がひくついている。 「僕自身はキャリアなので、すぐに病気として発症することはありません。でも僕の血液や精液、傷口の接触をとおして誰かに感染させることはあります。そしてその相手は急性肝炎を発症する可能性があります」  優人はしばらく言葉を失っていた。 「……そしたら、竹林くんは一生セックスできないの?」 「セックスだけじゃないです。ディープキスもダメです。唾液や涙、汗だけで感染することはありませんが、口の中にはよく傷があるものなんです。だから、僕は喧嘩もしちゃいけないんです。僕の血液が人の傷口に触れるようなことがあったら、相手に感染させてしまうかもしれないからです。激しいコンタクトのあるスポーツも危険です」  優人は頭の処理が追いつかず、ぽかんと口を開けて、目隠しした誠一郎の顔を見ていることしかできない。 「ただ、まったくそういうことができないわけじゃないんです。抗体のある相手となら、できます」 「抗体のある相手って、同じキャリアの人ってこと?」 「いえいえ、そんな限定じゃなくって。あらかじめ予防接種を受けてHBVの抗体をつくっている人とだったら、感染させずにできるんです」  優人はやっと難問が解けた生徒のように微笑んだ。 「ってことは、俺がそのワクチンの接種をうければいいの?」 「注射、三回ですけど」 「なんだ、できるんじゃん」  優人はこわばっていた顔をゆるめた。誠一郎はあいかわらず、目隠しをしたままだ。眉のあいだに深い溝が刻まれている。 「ユートさん、恐く、ないですか」 「注射? たしかに三本は多いけど……子供じゃないんだし」  苦笑しながらいう優人に、誠一郎は苦悩の色濃い声をしぼる。 「ちゅ、注射じゃなくて。……僕が、恐くないですか。こうやって近くにいるの、ぞっとしませんか」  優人はぴたりと笑うのをやめた。 「なに言ってんの?」  真剣な顔になった。誠一郎のハンカチをおさえている手も震えていた。唇の隙間から、浅い息がもれる。誠一郎は必死で恐怖と戦っている。 「そんな病原体みたいな奴と今まで食事してたって考えると、恐くなりませんか」 「え……」 「自分でも、こんな自分の境遇が嫌です……でもどうしようもできないんですよ。ものごころついたときには、そういうふうに生まれついてたんですから。でもやっぱり……恐いですよね。僕なんかに、体を触れられたくないですよね」  誠一郎は、拒絶されることへの予防線をはるように、自分で自分を侮蔑するような言葉を重ねる。傷つくことにおびえる心が、心とは正反対の言葉を吐かせているようだ。優人には、「もう傷つきたくない」と叫ぶ誠一郎の心の悲鳴のようにきこえた。 「竹林くん、それ以上言うと俺、怒るよ」  優人は包みこむようにいった。  もっとやさしい声を出したい。おびえている誠一郎の心をじかに撫でてあげられるような、あたたかい声で安心させてやりたい。なのに、今日はかすれて痛々しい声しか出ないのだ。  優人は誠一郎の頬に触れた。びくっと誠一郎が身をひこうとする。その頬を両手でつつんだ。誠一郎は両方の耳の前で、目にあてたハンカチを押さえている。優人は腰をうかせた。まえかがみになり、泣き出しそうに息を乱す彼の鼻に自分の鼻をそっとこすりつけた。  動物同士の親愛の表現のように、愛しげに顔をすりよせる。 「恐くないよ。今だって竹林くんは、竹林くんだよ」  小さな子にいいきかせるように、ゆっくりと告げた。お互いの吐息が触れあう。  ひいっ、と誠一郎の喉の奥で、短い悲鳴のような声がした。顎と頬の震えが大きくなって、ハンカチの下辺にしみができた。  優人がその肩に両手を置くと、誠一郎は声もなく静かに肩を震わせて泣いていた。 「竹林くんさ、七年前に俺を指名してくれたじゃん。あの日、四年間つきあった彼女にふられたっていってたよね。彼女にプロポーズするつもりだったって。それまで全然手を出してなかったって。ひょっとして――今のことをうちあけたの?」  誠一郎は泣きながらうなずいた。 「それで、うまくいかなかった?」  またうなずく。 「もともと、僕が手を出してこないのが情けなくなって、よその男に浮気もされてたみたいなんですが……この話で決定的にふられました。そりゃ、こんな話突然きかされたら、びっくりするだろうけど……でも僕は、正直に話せばきっとわかってもらえるって信じていました。でも、ダメでした。たとえ今後つきあったとしても、将来、結婚して、出産して、そのときに我が子に父子感染させないように気をつかって……周囲の目も気にして……そんなことして生きていくのは、自分には無理だって彼女に言われました」  はは、と誠一郎は泣きながら笑った。 「四年間、誠意を持っておつきあいして、かたい信頼関係を築いてきたつもりでした。でも彼女には逆効果だったみたいで『なんで四年間も黙ってたの。幸せになれると思ってたのに。これじゃだまされたみたいだ』って責められました。僕だって、早くうちあけたいです。でも先入観ってあるじゃないですか。世間には『不特定多数とのセックスしたからかかる病気』みたいにさげすむ人もいるし。ちゃんと僕の人柄を知ってもらえれば、そんな壁をきっと乗りこえられるって信じてたんです。でも現実はそんなに甘くないって思い知りました。……もう、なにもかもイヤになりました」 「竹林くんはさ、そんなときでもフーゾク嬢を抱こうとは思わなかったし、ウリ専の俺ともハグだけですませたんだ。『誰かにうつしてやりたい』とか思わなかったんだ」 「思うわけないです。こんな人生……僕だけで充分ですっ!」  とうとうテーブルの上にハンカチごと顔を伏せて、誠一郎は泣き出した。広い背中を丸める。肩が上下に揺れている。 「ユートさんとだって、セックスしたかったです。はじめてこの部屋に泊まってくれた日、自分からエスコートもできない野暮ったい僕を、積極的にベッドに誘ってくれて、すごく嬉しかった。夢見心地でした。でもキス以上のことをするためには、ユートさんに抗体があるかどうかたずねなくちゃならない。たずねたら、僕がウイルスキャリアだってうちあけなければならない。感染のリスクがあることもお話しなくちゃならない。  でも、うちあけたら――また嫌われて、全部だめになってしまうかもしれない。こんなふうに、一緒にご飯食べて、たわいのない話をして。ユートさんと過ごすこんな日が、僕にはすごく楽しかったから。もう少しだけ続いてほしかったから。ぐずぐずしてうちあけられませんでした。セックスやディープキスさえしなければ、このまま一緒に過ごせるのにって……自分をだましてだまして、ここまできました」  誠一郎は顔をあげた。濡れたハンカチはテーブルの上におちていた。赤くなった眼でまっすぐ優人をとらえた。肩を動かして一度大きく呼吸し、宣言する。 「でも昨夜、ユートさんを他の人に奪われそうになって、やっと目が覚めました。ユートさんがほしいです。そろそろ僕は限界です」  ユートはこくんとうなずいた。 「じゃ、さっそく保健所行って、検査と一緒にワクチンもはじめよっか」 「ユートさんっ」  誠一郎が目をまんまるに見開いている。優人のあまりにもさばさばした態度に、誠一郎のほうがめんくらっている。 「そうと決まったら、はやく抗体つくって、いーっぱいえっちなことしようよ。今まで我慢してきたぶん、俺が竹林くんの性春、とりかえしてあげるからさ」  お得意のいやらしくて悪戯っぽい笑顔で微笑んで見せた。そしてちょっとだけ、照れくさそうな顔になる。 「あと、竹林くん、今までヤらないでいてくれて、ありがとう。俺の体を守ってくれてありがとう。そういう我慢って誰にでもできるわけじゃないと思うんだ。竹林くん、ありがとな」

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