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第16話 ワクチン一本目1
誠一郎の部屋につくなり、優人は自分の鞄から小さく折りたたんだ紙切れをとりだした。玄関に立ってまだ靴もはいたまま、縦に細長いその紙をひろげて誇らしげに誠一郎に見せた。
「血液検査の結果出ました~」
「ど、どうでした」
「全部マイナス。安心して」
茶色の髪を揺らして、にこっと微笑んだ。午前中に保健所に寄ったのだった。昼間からこの結果を早く誠一郎にしらせたくて、うずうずしていた。
今日の夜はまた誠一郎と夕食を一緒にする約束をしていた。優人はもうすっかり道順を覚えていて、仕事が終わりしだいたずねていくことになっていた。
玄関に出迎えに出てきた誠一郎が、竹のターナーを持ったまま目を細め、へにゃっと眉を下げた。
「よかったです」
優人は後ろ手でドアを閉め、いそいで靴を脱いで廊下にあがった。誠一郎の肩に手をかけ、背伸びをしてあごの先にキスをする。ほんのすこしだけ伸びた髭がざらりと唇に触れた。
「あ、ちょっ」
それだけであわてふためく誠一郎を廊下に残して、居間のほうへすすむ。
「んん、今日は洋食の匂いがする」
「あ、昨日ビーフストロガノフを煮たんです」
説明しながら、誠一郎は指先で優人の触れた部分に、そうっと触れている。まるでそこに火傷でもしたかのように。
「それが今日のメインなの?」
「いいえ。メインはオムライスで。ストロガノフはソースですよ」
「うわ、贅沢」
優人は誠一郎をふりかえった。
「そんなに頑張らなくてもいいのに……」
「僕が楽しいんですよ」
「オムライス、好きだよ」
「そんな気がしてました」
「俺がガキっぽいから?」
「無邪気だからです」
ぽんぽんといいあって、自然に静かになった。なんとなくみつめあっていると、優人はふたりの間の距離が気になってしまう。
恋人同士なのだから、愛しいと思ったらすぐに近づいて、触れられるはずなのだ。でも今はまだ遠慮と我慢がある。
「竹林くん、俺ね今日、一本目打ってもらってきた」
優人は肘の内側に貼られた小さな白いテープを見せる。笑顔だった誠一郎が真顔になった。
「三週間後に、二回目。また三週間後に三回目。そのあと三週間たったら抗体ができてるって」
覚悟はしていたが、抗体ができるまでがひどく長く感じてしまう。
「すみません」
誠一郎がうなだれた。
「謝らないで」
夕食は誠一郎が、シェフよろしくフライパンを振ってまとめたオムライスだった。きれいな黄色の生地で包まれたご飯を見ると、ずいぶん練習をしたんじゃないかと優人は思い、もうしわけないようなくすぐったい気持ちになる。
スプーンを入れると、とろりとした内部の卵液とチキンライス、デミグラスソースで煮たストロガノフが混ざりあった。
幸福な夕食を過ごした。誠一郎のつくってくれるものははずれがない。それはたまたまなのだろうか。
優人が彼を好いているからなにを食べてもおいしいのか。あるいは誠一郎が優人を好いていてくれるからうまくつくれるのか。とにかく不思議だと優人は思う。
後片付けのあとは、トイレと洗面所のついたユニットバスをかわりばんこに使って着替えた。優人は近くの量販店で買ったパジャマを誠一郎の部屋に置かせてもらっている。
湯上がりの濡れ髪のまま、ジンジャーエールのペットボトルを開けた。誠一郎は冷たい牛乳を飲んでいる。
「じつは、近いうちに引っ越そうかと思ってるんです。ここはふたりで過ごすにはやっぱり狭いですし。こうして泊まってもらうなら、優人さんのものももっと置きたいじゃないですか。あと、あの――」
誠一郎の視線の先には、シングルベッドがある。いかに上京したての学生が買いそうな質素なパイプベッドだ。
「んー。ベッドも、おっきいのがいいね」
優人が続きを代弁し、苦笑した。
「くっついて寝るのも嫌いじゃないけどね」
「このさい、一緒に部屋を探しませんか」
「それは……その」
「優人さんさえよかったら」
「ほんとに、本気でいってる?」
優人のほうが驚いた。
「俺はゲイだけど。竹林くんは今後女性と恋する可能性だってあるのに。俺と同棲までしてほんとにいいの?」
ためらいがちにいうと、 誠一郎が眉をつりあげた。
「ユートさんは、ご自身の価値がわからないんですか。それとも、まだ僕の気持ちが信じられませんか」
鋭い目つきでまっすぐみつめられて、どきりとした。
きりりとひきしまった真剣な顔は、いつもあわてふためいているオクテな青年とはまるで別人のようだ。優人は、体の奥でなにかがうずくのを感じる。
「どうしたら、わかってもらえるんでしょうね」
少し怒ったように問われる。
――抱いて。
そう言いたかった。優人は喉元まで出かかった言葉をのみこむ。
「触りたいな」
「ユートさん……」
「触るだけ。触りあうだけ。それだけでいいから。そしたら、安心するから」
甘えた声でいいつのる優人を、誠一郎は困り顔でみつめる。なにかいわれるまえに、優人は距離をつめて誠一郎の胸に顔をうずめた。
みつめあっていると、どうしてもキスが欲しくなる。自分の気持ちをそらすように額を誠一郎の胸板におしつけた。もどかしい気持ちが胸の中でうずまいている。
おずおずと誠一郎が優人の肩を抱いた。大きな手が背骨のかたちをなぞるようにやさしく背中を撫であげるのと同時に、誠一郎の喉が優人の頭上でごくりと鳴った。
「触るって……でも」
「一緒にこするだけ」
「でもあの、僕の、出したものに、ユートさんは、触れちゃダメなんですよ」
しどろもどろになりながら誠一郎がいう。
「わかってる。だからゴムすればいい?」
優人はするりと腕の中から逃れて、自分の鞄の中からコンドームとローションのびんを持ってきた。宿泊の準備は万全なのだ。
さっきまで誠一郎が髪を拭いていたタオルをひろって、ベッドの中央にひろげた。その様子を誠一郎はどこか痛むようなつらそうな顔でみつめている。
「横になって」
「ユートさん」
嫌がってはいない声だった。ただ罪の意識におびえるような様子だった。
「きもちよくしてあげるから」
「僕はべつに……」
「ずっと想像してたから。竹林くんは、感じたらどんな顔するかなって。どんな声なのかなって。はやく見たいなって」
うっとりという優人の無邪気な声に、励まされるように誠一郎が微笑む。
「それは、僕だって」
「想像してた?」
「それはもう」
「俺で抜いた?」
力なく苦笑した。
「しょうがないです。だって……僕にはそれしかないんで。そりゃ、めちゃめちゃ想像しますよ」
「本物、見たくないの?」
ユートさんにはかなわない、といいたげに誠一郎が首肯した。頬はもううっすら上気している。
優人はするりと上のTシャツを脱いだ。細身の体があらわになる。運転しているせいで、色白ながら、腕には半袖の部分にうっすら日焼けのあとがついていた。続いて、すとんとハーフ丈のズボンも落として、黒のマイクロボクサー一枚になった。前のふくらみの目立つデザインだ。
優人は誠一郎の視線を感じながら、ベッドに飛びのった。バスタオルの上に足を開いた膝だちになって艶然とほほえみ、誠一郎を誘った。片手にみせつけるようにコンドームの個包装パックを持っている。
誠一郎の瞳が、情欲をこらえるように少しけわしくなった。その焦点に自分の裸体があると思うと、優人は急に胸が騒ぎだした。
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