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第4話 街

翌朝、水谷は翡翠にやさしく揺り起こされた。一瞬自分がどこにいるのか、何があったか思い出せなかった。が、隣にいる翡翠の顔を見て記憶がはっきりした。 「すみません。まだ寝ててもらって構わないんですけど――お仕事とか――大丈夫なのかなと思って」 翡翠は申し訳なさそうな顔をして言った。 「あ!?ああそうだ!会社に連絡しなきゃ。ありがとう」 起き上がると素裸だった。どうやらあの後そのまま――眠りこんでしまったらしい。部屋は昨夜いた居間のままだったが、食卓は片付けられて隅に寄せられ、布団が延べてある。 「君がやってくれたの!?」 水谷が驚いて訊くと翡翠は答えた。 「布団は水谷さんが自分で敷いたんですよ。酔っ払ってたみたいだったけど。覚えてませんか?風邪ひくかなと思って寝巻きも着せなきゃと思ったんですけど……気持ちよかったから、直接抱いててもらうの……だから、ついそのまんまで……」 やや俯いて恥ずかしそうに言う。 「ええ!?抱いてた?じゃあ君も――一緒に寝てたんだ?眠れた?」 翡翠は頷いた。 「……水谷さん俺のこと引っ張って布団に入れてくれて――その後ずっと――抱いててくれたんです」 「あ。そういわれればそう……だった。ねえ」 部屋を出て行こうとする翡翠を捕まえて抱え込み、布団に引っ張り込んで一緒に寝たんだ。あの滑らかな肌が心地よくて――離したくなかったから。なに甘えてんだ俺……そう思って水谷は赤面したが、翡翠が 「水谷さん、すごくあったかかった。嬉しかった……」 と言うのを聞いてほっとした。恥ずかしそうにしている翡翠は……昨夜抱いた時と同じく可愛かった。 その後服を着た水谷が、スマホを引っ張り出して会社に連絡をとっているのを、翡翠は興味深げに眺めている。 「それ、最新式のじゃないですか?かっこいいですね」 「え?これ?どうだったかなあ」 水谷はスマホを翡翠に渡して見せてやった。 「そういや君は持ってるの?スマホ」 「持ってないです。使わないし。ここ、固定電話もないんです」 そう聞いて水谷は驚いた。 「ええ!?それじゃ困るじゃない!緊急時とかどうするの?」 「呼び出し用のブザーがあるんです。それ押すと連絡先に繋がるの。そしたら誰か様子見に来てくれる手筈になってるんです」 徹底している。水谷は空恐ろしい気持ちになった。この親子を囲った有力者と言うのは、そこまでして彼らを一般社会から切り離しておきたかったのだろうか。酷い話だ。 「あの、さ」 スマホを返して寄こした翡翠に、水谷は言った。 「どこかに飯、食いに行こうよ?たまにはいいだろ?ここから出ても」 「え……」 翡翠は戸惑ったような、怯えたような顔をする。 「この集落には店とか無いようだから、車で隣の市まで出よう。片道……どのくらいだろ?でも渋滞もなさそうだし、大して時間はかからない。連れてってあげるから」 「時間かからない――ですか」 暫く考えた後、それならと翡翠は頷いた。二人で部屋を整えてから、車を置いた浜へ向かった。 車に乗せてやると翡翠は黙り込んでしまった。 「どうかした?具合悪い?」 「いえ!違います。なんか……緊張して。あと、嬉しくて。夢じゃないかなって」 水谷は、たかが車に乗ってちょっと出かけるだけのことを――そんな風に言う翡翠が哀れだった。 「夢じゃないよ。じゃあ……景色よく見られるように、なるべくゆっくり走ろうか」 浜を出ると、黒い屋根瓦を載せた、古い土壁の家屋が並ぶ街道風の細い道が少しの間続く。やがて隣の市へ向かう新しい国道へ出た。村境のトンネルを抜けると、翡翠が住む浜のある古い集落はたちまち後ろに遠ざかる。助手席の翡翠は目を見開きそれを見送っていた。 後は暫く田んぼ以外何もない。やがて道は隣の市へ入り、徐々に家が増えてきた。伝統的な建築は減り、四角いコーポや、団地のような建物なども増えて街並みが明らかに変わる。翡翠は何も言わず景色を見つめていた。道路沿いに、チェーンのファミリーレストランの看板があるのに気付き、水谷はそこへ車を入れた。 駐車場へ車を置き、店へ入ろうと自動ドアの前に立つと、中から小さな子が勢いよく走り出てきて翡翠にぶつかりそうになった。その身体を咄嗟に抱きとめた翡翠に、後から追いかけてきた母親が慌てて謝る。 「すみません!平気でした!?たぁちゃん!危ないから走っちゃ駄目っていったでしょ!お兄さんにちゃんとごめんなさいして!」 「いえ!いいんです。平気ですから。大丈夫?」 訊かれた子供は警戒心のない笑顔で頷く。母親と一緒に翡翠にごめんなさいと頭を下げ、後から来た父親らしい人と連れ立って、彼らは駐車場の方へ歩いて行った。 水谷が見ると、翡翠はぼんやりしている。 「どうした?」 「あ!いや……俺……」 翡翠は泣き出しそうな顔で言う。そうか、水谷は気がついた。あの集落では――恐らくあんな風に、普通に翡翠に話しかける人間は――いないのに違いない。 「すいません。俺……なんか……」 そう言ってやや声を詰まらせた翡翠の肩にそっと手を添えて、水谷はレストランへ入った。 席に案内され、メニューを見て翡翠はまた目を見張っている。 「こういうの……食べた事ない?」 「はい、ありません……でも習ったから……」 「習った?」 どういう事かと訊ねる水谷に翡翠は答えた。 「常識とか知らずに育っちゃまずいからって、うちに来る先生がひと通りのことは教えてくれるんです。こういうものとかも」 メニューを軽く差し上げる。 「一応実物見せてもらいました。映像で東京や――いろんな所の様子も見たし、電車の乗り方やなんかも教わりました。でも実際に使う機会は無いと思ってたから、なんか信じられなくて」 水谷は、翡翠の家にあった不釣合いに最新式の大型テレビを思い出した。あの画面の前で、当たり前の暮らしを只の情報として見せられている幼い翡翠の姿を想像すると、たまらない気持ちになった。そのためあんな環境にいても、彼の言動がまともに保たれているのだろうが、それではまるで――実験室で育つ憐れな動物のようだ。 注文を終えて食事が来ると、それを美味しそうに口に運びながら翡翠は呟いた。 「車でちょっと――来ただけなのに、世界がこんなに違うなんて――ここじゃ俺、ちゃんと――生きてる人間なんですね」 「君はちゃんと生きてる人間だよ。たとえあそこでも」 水谷は力を込めてそう言った。 帰りの車の中で、翡翠がぽつりと呟いた。 「昨夜は――すいませんでした――」 「えっ!?なにが!?」 水谷が驚いて聞き返すと、翡翠は窓の外を眺めながら言う。 「あんな風に誘ったりして。――水谷さん見てたら……現実なのかどうか確かめたくなっちゃって。そんなつもりで泊まってもらったんじゃなかったのに……」 水谷は前を見つめて運転しながら呟いた。 「もしかして……後悔してる?」 「えっ!?」 今度は翡翠が驚く。 「後悔してるの?俺と寝た事」 水谷はもう一度尋ねた。翡翠が答える。 「後悔なんてしてないです!迷惑だったんじゃないかって――」 「迷惑なんかじゃないよ」 水谷は低い声で言った。 「本当に、迷惑なんかじゃない。君が抱きたかった。欲しかったんだ」 そう、翡翠の、あの身体――身体だけじゃない。翡翠がすごく、愛しかった―― 「翡翠」 水谷は前を見つめたまま言った。 「翡翠、俺と――東京来ないか――」 前方に、あの集落の古い家並みが見えてきた。翡翠を閉じ込めている家を囲む生垣が見えてくるのももうすぐだ。 「一緒に行こう、このまま。君さえ良ければすぐこの場でUターンする」 「水谷さん――」 翡翠の声は掠れて、震えていた。 「行きたいです。東京。俺も行きたい、水谷さんと一緒に。でも駄目だ――」 「どうして」 「母さんが――あいつに捕まってる。俺がいなくなったら――母さんが――どんな目に遭わされるかわからない――」 入院させられてるという母親――それが翡翠の枷なのか。水谷は思った。翡翠の母は両親の生活を人質にとられ――翡翠もまた、母親を人質にとられている―― 「だったらお母さんも連れ出せばいい。どこにいるの?」 水谷が訊ねると、翡翠は苦しげに答えた。 「わからないんです。時々、電話で話させてもらうだけだから」 なんとか調べて、居場所を捜し当てるのは難しいだろうか……水谷が考え込んでいると、暫くして翡翠は演技だとあきらかにわかる明るい声で言った。 「俺は大丈夫です。昨夜抱いてもらって――今ごはん食べに大きい街に連れてってもらって――ちゃんと自分が人間だって事がわかった。だから――もう平気です。おかしくなったりしないから、ほんとに……大丈夫です。余計な心配させてごめんなさい。ありがとう」 車はその時既に――翡翠の家がある浜の前まで来ていた。 車を置いて二人で浜へ降り、家へ向かおうとすると、そちらから犬の吠え声がする。それを聞くと、なぜだか突然翡翠が顔を強張らせ、どうしてこういう時にばっかり――と呟いた。水谷を振り返って言う。 「水谷さん――お願い、すぐ帰ってください」 「えっ?どうして――」 「あいつが来てる――すぐ車に戻って、そのまま帰って――」 そう翡翠が話す間に、後ろの防砂林の間から現れた背の高い人影が、背後に立った。 「翡翠。どこへ行ってた。浜を探してもいなかったから、井衛(いえい)様がお怒りだぞ――こちらは?」 水谷と同じ位の年頃の男だった。整っていて上品な顔立ちをしているが、なぜか――信用ならない印象を受ける。 「水谷さん――東京から仕事で来た方です。ちょっと近くを案内してたんだけど、もうお帰りになるそうだから」 そう話す翡翠に構わず、男は水谷の方へ一歩近付き片手を差し出した。 「そう慌てて帰ることはないでしょ。こんなとこにお客さんなんて珍しい。美味い食材を持ってきてありますから、どうぞゆっくりして行って下さい。ご馳走しますよ」 ぎこちなく差し出し返した水谷の手を、男は痛いほど握って言った。親しげに振舞うがなんだかわざとらしくて嫌な感じだ、と水谷は思った。翡翠が慌てたように言う。 「だめです、水谷さんは――お仕事が――」 「いや、大丈夫。いいかな、寄らせてもらって」 握手していた手を振り払うように解いて、水谷は男をわずかに睨みつけながら言った。今翡翠を放って帰りたくはない。しかもこんな男と一緒に―― 「もちろんですよ。なあ翡翠」 嬉しげに言った男の横で、翡翠はやや俯いて硬い表情を見せていた――

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