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第5話 客

男の後に続いて歩き出すと、翡翠が小さな声で水谷に言う。 「水谷さん――今は帰らないっておっしゃるなら――お願いがあります」 水谷は翡翠に目をやったが、彼はこちらは見ておらず、強張った顔を真っ直ぐ前に向けていた。そのまま続ける。 「これからどんなことを見ても聞いても――何もしないで――何も言わないで下さい」 「どういうこと?」 「……母さんと――俺を助けるためだと思ってそうしてください。どうかお願いします」 犬の鳴き声が近くなった。見ると、翡翠の家の庭に大きなドーベルマンが2匹繋がれている。3人が近付いていくのを見ると、2匹は地面に打ってある金属の杭に繋がれた太い鎖を思い切り引き、さらに吠え立てた。この男が犬を連れて来たのか。だから翡翠はすぐ気付いて、あいつが来てる、と言ったんだ。 「ああうるさいな……落ち着け」 先を歩いていた男は呟くと、犬たちの横に立ち、背をぽんぽんと軽く叩いてなだめた。そうされて犬は鎮まったが、水谷が家の敷地内に足を踏み入れたのに気付くと、歯を剥いて唸りはじめた。 水谷は犬は好きだし、この2匹も毛並みが良く美しいと思ったが、そうあからさまに敵意をむき出しにされるとさすがに不愉快だ……そんな風に感じながら顔を顰めて犬を見ていると、翡翠が隣にいないのに気が付いた。見回して探すと彼は青ざめた顔で、敷地の端、生垣のところに立ち尽くしている。 その翡翠に声をかけようとした水谷より早く、犬を撫でていた男が口を開いた。 「どうした?早く入って来い。怖がる事はないだろ。こいつらはお前には懐いてるじゃないか。きっとまた遊んで欲しがってるぞ――」 翡翠は青ざめた顔の表情を硬くし、男の横顔を睨んだ。 「懐かれてなんか――そいつらは――嫌いだ」 吐き捨てるように言うと、足を早めて庭を横切り、水谷の脇を擦り抜けて家の中に入って行った。 「やれやれ嫌いだとよ。可哀相に」 男は何故か笑いを含んだような声音でそう犬たちに向かって話しかけ、2匹の頭を撫でてから、翡翠に続き家に向かった。水谷を振り返りながら言う。 「どうぞ――早くお入りください。そこにそうして立って睨み付けてられると、犬がまた興奮しますから」 それを聞き、水谷も男の後に続いた。 家に入ると翡翠が台所の流しで顔を洗っている所だった。男がその背後から近付き、手拭を差し出す。翡翠は動きを止めて手拭を暫しの間見つめたが、さっと手を伸ばしそれを攫った。 「すんだらすぐ来い。さっきも言ったが井衛(いえい)様はお怒りだ。気をつけろよ?」 顔を拭っている翡翠に男は命じるように言い、台所から出て行った。 手拭を流しの脇に放り出し、翡翠が歩き出した。水谷も慌てて一緒についていった。 「いえい様、って……?」 尋ねる水谷に、翡翠は硬い表情のまま答えた。 「――母をここに連れてきた人です」 やはりそうか――翡翠はそのまま家の奥へと進んで行く。長い廊下の途中で、床に敷かれている磨きこまれた板の色が変わった。ここからは別棟のようだ。翡翠はその突き当たりにある部屋まで行き、閉じられた襖の前にきっちりと正座した。中に向かって声をかける。 「井衛様。翡翠です――」 「入りなさい」 老人らしいややしわがれた声が答える。翡翠は襖に手をかけて開け、前に両手を付いて廊下で深く頭を下げた。水谷はどうしたらいいかわからず、襖の陰からそれを見ていた。 「入ってこちらに座りなさい。お客人も」 翡翠が立ち上がり、水谷を促したので、部屋の中に入って立ったままぎこちなく会釈した。昨夜泊まった部屋より更に広い座敷だった――重そうな座卓が置かれ、その前に、床の間を背に和服の老人が座っている。さっきの男がその脇に控えていた。 老人は痩せて小柄だが、伸ばした白い髭のせいかなんとも言いようのない風格があり、水谷はそれに気圧されてしまった。翡翠の隣に一緒に正座し、もう一度頭を下げた。 「水谷と申します」 「どちらから来られた」 「東京です」 「そうですか。――昨夜は、ここにお泊りに?」 そう訊ねられてついぎくりとする。昨夜は、泊まっただけでなく――しかし泊まらなかったと嘘をつくほうが、まずい事になるかもしれない。 「は、はい、あの――この辺りに宿泊施設は無いと聞きましたので――お世話になりました」 「そうですか。翡翠、失礼はなかったろうな?」 老人は翡翠に向かってきつい口調で問い質す。水谷はつい 「まさか!非常に礼儀正しいです、彼は」 と口を挟んでしまった。 それを聞いて老人が笑う。 「まあ古風な躾をしとりますからな。東京で、この年頃の若い方を見慣れておられれば、この程度でも礼儀正しいとお感じになるのやもしれません。ですが――」 翡翠が水谷の隣で身を硬くするのがわかる。 「普段こんな僻地で退屈しているせいか、余所から来た方に興味を持ちすぎるような所がありましてな。これの母親もそうでした」 なに言ってやがる、自分がこの子をその僻地に閉じ込めている張本人のくせに。水谷は胸の内でそう罵った。威風につい及び腰になったが、考えたらこいつが元凶なんじゃないか。 老人は続けた。 「東京のように何でもはありませんが、海の幸などは新鮮です。先ほど村の市場でいささか食材を手に入れてきました。――翡翠」 「はい」 「言行(げんこう)と夕()の支度をするように。頼んだぞ、言行。もてなして差し上げなさい」 「はい」 さっきの男が頭を下げる。こいつは言行というらしい。 二人は部屋から出て行った。あの感じの悪い男と翡翠を二人だけにさせるのは心配だったが、追いかけていくわけにもいかない……部屋には老人と水谷だけが残された。どうにも気まずい、水谷が思っていると、老人が尋ねる。 「水……谷さんとおっしゃいましたかな?」 「あ、はい。あ!失礼しました」 慌ててポケットから名刺を取り出す。老人に渡すと、彼はそれを読んで 「ええこれは……なんの会社でしょうかな。失礼ですが、横文字にはうといもので」 と言う。水谷は説明した。 「映像関係の……ええと、映画とか、企業のPR用の物とか、まあ色々なフィルム作品を依頼を受けて制作している会社です。映像に関する何でも屋ですね。有名な所じゃありませんが」 「ほほう、映像を……それは面白そうですな」 意外と興味を示されたので、問われるまま水谷は色々と自分の仕事について説明した。老人はさかんに相槌を打ち、感心したように聞いている。そのため予想外に話が弾んだ――やがて、食事の支度が整ったようで、翡翠と言行が盆に乗せて運んできた皿を並べはじめた。昨夜と同じく新鮮な海産物が中心だったが、翡翠が水谷のために作った食事のように家庭的でささやかなものではなく、刺身など大皿に何種類も盛られている。水谷は昨夜見た、翡翠の魚を捌く鮮やかな手つきを思い出した。この立派なお造りも彼が拵えたのだろうか――。 翡翠は食卓を整え終わると給仕に回った。慣れた手付きで皆に酌をする。昨夜もそうだったが、彼はひどく気が利いて甲斐甲斐しい。しかしこんな状態だと――翡翠自身はほとんど食べていられないではないか……水谷は可哀想に思ったのだが、老人も言行も、そして翡翠自身もそれが当然のように振る舞っている。その上老人がなんでも翡翠に言いつけるので口を出せなかった。 食事が進み、酔いも回った頃――老人が翡翠に言った。 「お前、この間渡した着物はどうした。着て出迎えるよう言っておいたろう?」 翡翠は何故かぎこちなく答えた。 「今日は――水谷さ……お客様がいらっしゃいますし……」 「お客人がいらっしゃるからこそ、正装でもてなすべきだろうに。水谷さん」 「は」 急に声を掛けられて水谷は戸惑った。 「水谷さんは、着物は?」 「ええと――いや……」 着物なんて……実は着た事が無い。成人式も水谷はスーツだった。和服なんて、触った事があるのは旅館で着る浴衣ぐらいだ。 「ちゃんとした物を着たことはないですねえ……結婚式でも挙げてれば着る機会もあったでしょうが」 「では水谷さんは独身ですか」 言行が訊く。 「ええまあ……」 そんな会話を交わす間に、老人が翡翠に命じた。 「翡翠、この前の着物をここへ持ってきて水谷さんに見せて差し上げなさい。先ほどこの方のお仕事の話で大分楽しませてもらったから、今度はこちらが楽しませて差し上げる番だ――」 言いつけられると、翡翠は箸を置いて立ち上がり、一礼して部屋を出て行った。水谷は、何か不安に感じたのだが――それが何故かはわからなかった。

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