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第12話 海

水谷が消え、言行の気が済み――ようやく翡翠は解放された。しんとした座敷で一人きりになり、言行が縛めを解いたあと被せていった布団の中で、身体を丸めてそのまま暫く眠った。 目が覚め、なんとか動けるようになった時には――あれからどのくらい時間が経っているのかわからなかった。だが翡翠の暮らしには、何時間経とうと、何日経とうと関係は無い。 翡翠はまだふらつく足で立ち上がると、裸のまま浜に出た。暖房が効いていた家の中から外に出ると、冬の冷たい空気に包まれて鳥肌が立つ。構わずそのまま歩いて海に入った。海水が翡翠の身体を洗う。母もよくこうして一人で海に入っていたと、井衛に聞いたことがある。翡翠も今は――母がなぜそうしていたか、その気持ちがわかるような気がしていた。 海水は子宮の中にある羊水と成分が似ていると聞いた――そこに入ってまた上がる時――気休めとわかってはいるが――新しい身体を得たような気になれるのだ。 冷たい海水に身を沈めるたび思う。このまま心臓が止まればいい。だが翡翠の身体はもう慣れてしまっているのか、いくら冬の海に潜ってもそういうことはおこらなかった。それに今死ぬわけには行かない。やっぱり――母さんが心配だ。 以前は井衛がたまに母を連れてきて、会わせてくれることもあったのだが、今は持って来てもらう電話で話すだけになっている。しかもその母はただうわ言のように同じ言葉を繰り返して、翡翠の声が果たしてその耳に届いているのかも判然とせず、相当状態が悪いようだった。でも、母は――心を病みながらも翡翠を愛し、宝物のように大切に、大切に育ててくれた。その母だけが――唯一自分の生きる支えだ。 数度息継ぎを繰り返してしばらく潜ったあと、翡翠は海から上がって家に戻った。風呂に入って身体を温め、座敷の後始末をした。部屋を片付け、洗濯しようと準備している時、はっと気付いてシャツのポケットを探った。硬い小さな紙片の角が指に当たる――水谷がくれた名刺だ。表には、会社名と、彼の名前が印刷してある。翡翠はそれをじっと見つめた。水谷さん。俺が生きてるって教えてくれた人。 株式会社四条ビジュアル、メディア制作部、水谷(じん)。小さく声に出して読んでみた。それらはきっと、ごく普通の会社名、ごく普通の名前なのだろうが、翡翠の耳にそれらの響きは――印象的な美しい詩のように感じられた。たった一つ、彼と自分のあの時間が、確かに存在していたという証明。名刺を両手で包み、翡翠は、これはずうっと大事にして、絶対になくさないんだ、と考えた。

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