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第15話 写真家

東堂(とうどう)は最近、過疎化がすすむこの村の、海を見下ろす丘に土地を買って越してきた。 一見した所若い者は殆どおらず、年寄りは愛想がない――まあこんな侘しい雰囲気の漂う中で陽気に過ごすのは難しいだろう、無理もないか、と東堂は考えた。 本当に海以外何もない所なのだ。だがその海は、青く澄んだ水がきらめいて美しい――家がある丘を下り、ぶらぶらと浜へ出てみる。 東堂は写真家だった。東京都心にスタジオとマンションを持っているが、たまに喧騒から逃れたくて田舎にアトリエが欲しいと考え、この村を選んだ。祖父母が存命だった間ここに住んでいて、東堂も何度か遊びに来たから少し馴染みがあったし、交通が不便なため土地がかなり安かったからだった。 懐かしく昔を思い出す。自分が幼かった頃はこの村ももう少し賑やかで、両親と祖父母とともにこの海水浴場で泳いだものだ……浜を見回すうち蘇って来た記憶があった――そういえば当時祖父母に――あそこに見える岩場の向こう側で遊んでは駄目だと少しきつく言いきかされたのだ。東堂は、なにか危ない物があるのだろう、などと考え、気になりつつもその言いつけに従ったが――あれはなぜだったんだろう? そんなことを思い起こしながら懐かしい海を眺めていたら、写真が撮りたくなってきた。 一旦アトリエに戻り、カメラを持ってきて、しばらく誰もいない寂しい浜辺の写真を撮った。そのうち――行ってはいけないという岩場の向こう側の事がさっきよりも気になりだし――調べてみようとそちらへ足を向けた。子供には何か危なかったのかもしれないが、今ならどうということはないだろう。 浜の端にある岩場を乗り越えようとよじ登ってみる。足場は悪いが行けないことはなかった。 岩の上へ上がると、そこから入り江のようになっているごく小さな浜が見えた――松林や岩に囲まれていて、隣の海水浴場や道路からの視線がうまく遮られている。へえ、いい所じゃないか、ちょっとしたプライベートビーチみたいで、などと東堂は考え、木々の間からその浜を眺めた。別に危ないようには見えない。誰かの私有地なのだろうか?だから行くなと祖父母は言ったのだろうか……しかしその程度の理由にしては、彼らの言いようは随分厳しかったように感じるが…… と、その小さな浜の端から、波打ち際に向かって人が歩いていくのが目に入った。 目を凝らして見てみると、それは少年らしかった――ここからだと何も身につけていないように思える。東堂はつい、カメラの望遠レンズを通しその姿を確認してみた――少年はやはり素裸だった。ファインダー越しの彼の裸体はすんなりとして白く美しく、石膏の彫像のようだ。 見ているうち少年はそのまま真っ直ぐ冷たそうな海に入ってしまった。東堂が驚いている間に、彼は魚が身を翻すような滑らかな動きで波間へすべり込むように潜って行き、やがて浜から離れた海上に頭を出すと、息継ぎしてまた潜り、それを何度も繰り返した。東堂は魅入られたように、人間離れしたその様子を眺めていた。 やがて彼は、浜へ向かって泳ぎ始めた。浅い所へ着き、歩いて海から上がってくる少年の姿が印象的で、東堂は思わずシャッターを切った。シャッター音が響きフラッシュが光ったが、少年は気付く風はなくそのまま浜沿いの林の中へ消えた。 東堂はつい彼の後を追った。すると少年が入っていった場所、木々の奥に、意外にも立派な家が建っている――ここに住んでいるのだろうか?こんな村はずれに……。一体何者なのだろう?そんな風に考えながら、東堂は振り返りつつ浜辺を後にした。 アトリエに戻って東堂は写真を現像した。少年を写した一枚は特に大きく引き伸ばす。彼は写真の中でやや俯いて、片手で顔に落ちかかる濡れた髪をわずかにかき上げていた。それを見ながら、もっと彼の写真が撮りたい、と東堂は感じた。 数日後の昼過ぎ、東堂は引き伸ばした写真と、東京を出るとき買ったワインを持って少年の家を訪ねた。写真には本当は裸の全身が写っているが、少し考えて上半身だけにトリミングしておいた。 敷地内に入って声をかけると、玄関の引き戸を開けてあの少年が姿を現した――ひどく驚いたような顔をしている。余所者が珍しいのだろう、と東堂は思った。 「こんにちは。あのう、僕、東堂と言います。あっちの丘の上に越してきた者で」 そこからアトリエは見えなかったが、方角を指差した。 「越して……?そうなんですか……」 少年は目を丸くしている。 「うん。それでご挨拶に伺ったんだけど……お家の方とかは?」 「ここは、俺一人です」 「え、そうなの?一人暮らし?こんな立派な家に?学生……さん?」 少年は微笑んで首を振った。 「学生じゃないです」 「そうなんだ……幾つ?」 「ハタチです」 「ああ!そりゃ良かった」 東堂は持ってきたワインの包みを差し出した。 「じゃあこれ飲めるね、ワイン。東京から持ってきたやつだけど、良かったら」 「東京……?東堂さん、東京からなんですか」 「うん」 少年は差し出された包みを受け取ると、もう一度微笑んで引き戸から少し身体をずらし、東堂に向かって 「どうぞ……よかったら、あがってってください」 と言った。 客間らしいところに案内されて東堂は座卓についた。辺りをきょろきょろしていると、引っ込んでいた少年が皿につまみらしい物をいくつか盛り合わせたものを持ち、戻って来た。 「ワインにどんなの合うかわかんなくて。普段日本酒ばかりだから」 「いやなんでもいいよ。すごいね、気が利くんだな。日本酒飲むの?」 「いえ、俺は飲みません。ここに来る人が」 「ふうん?あ、名前なんていうの?」 「翡翠って呼ばれてます」 「ヒスイ!宝石の?へえ……」 「使ったことないんですけど……ワイン飲むときってこれでいいのかな……」 翡翠は少し首を傾げて考え込んだ風に言いながら、飾り戸棚からクリスタルのワイングラスを選び出した。一つだけ持って戻ってくると、畳に両膝をついて東堂の前に置いた。 「あれ?二ついるでしょ?一緒に飲まないの?僕とじゃ嫌かい?」 「え!?そんなことないです。じゃあ……いただきます」 翡翠は綺麗な所作で小さく頭を下げて戸棚へと立ち、もう一つグラスを出してくると、座卓の上の一つの隣へ並べた。 東堂がポケットから取り出したソムリエナイフでワインを開ける手元を、翡翠はじっと見つめている。 「へえ……そうやって開けるんですね…… 「見たことない?」 「なかったです……」 頷く翡翠の目の前で東堂はワインをグラスに注いだ。 「綺麗ですねえ……」 ローズ色のワインを眺め、感心したように呟く翡翠を見ながら東堂はつい 「君も……なかなかのもんだよ」 と言ってしまい、自分で吹き出した。 「あははは、いやだなあ、何言ってんだ。女の子くどいてるみたいになっちまった」 翡翠は一瞬きょとんとしたが、じき意味がわかったのか声を立てて笑い出した。そんなふうに笑うと随分無邪気な顔になるんだな、と東堂は思った。 「あ、そうそう、これ」 思い出して、持ってきた写真をファイルから取り出す。 「この間偶然そこの浜で君を撮ったんだ……。僕、写真家なんだよ。見てもらいたいと思って」 差し出された写真を見て翡翠は随分驚いたようだった。 「これ……俺?ですか?」 「うん。よく撮れてるだろ」 「すごいな、こんな大きいの……どうやって作るんですか?」 翡翠はそこに写っている自分よりも、写真の印画紙自体の方に興味を持ったらしく、ひっくり返したりして弄っている。その翡翠に東堂は言った。 「それでさ、良かったら……もっと君の写真撮らせてもらえないかな……」 「え。え?」 写真から顔を上げて翡翠はぽかんと東堂の顔を見た。 「写真……?撮ってどうすんですか……?」 「いやどうするって……個展に出すとかするかもしれないけど」 「個展?」 不思議な子だな、と東堂は思った。翡翠は当然、自分でもある程度自身の美しさを自覚してるものと考えていた。東京の東堂のスタジオは、ファッション誌や芸能人の写真集の仕事が多いため、若者の間にも割と名が知られている。その名前を出してモデルにならないかと誘えば、ルックスに自信のある若い子はなんらかのチャンスになると思ってすぐ飛びつくのだ。だがこの子の反応は……純粋と言うか素朴と言うか……自己顕示欲を全く持っていないような雰囲気だ。珍しく思って東堂は、ますます翡翠に興味を引かれた。

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