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第16話 地上より永遠に
そうして翡翠と知り合って――東堂は、東京とこの寂しい海辺の集落とを行ったりきたりし、アトリエに滞在する時には翡翠の家も訪ねるようになった。
翡翠は東京に興味があるのか、向こうについての話を聞くのが好きで、東堂が訪問するといつもとても喜んだ――その折に、東堂は頼んで翡翠の写真を撮らせてもらった。
モデルとして雇った訳ではないから特にポーズは取らせず普通に行動しているところを撮影したのだが、それでも何故か、翡翠の動作は洗練されていて、写真に捉えられた彼の姿は美しかった。
やがて翡翠がカメラを向けられるのにも慣れ、東堂とも親しくなった、と思われた頃――その日東堂は、翡翠の家の縁側に腰かけてそこから見える海を眺め、淹れてもらった茶を飲みながら話をしていた――試しに切り出してみた。
「あのさ、もし良ければ、なんだけど……前みたいに海に入ってるとこ撮らせてくれないかな……?」
写真に関しては貪欲で、強引に頼むのも普段は厭わない東堂なのだが、なぜか声が遠慮がちになった。すると、脇に控えるように座っていた翡翠は、あっさり
「いいですよ」
と頷き、いきなり着ているシャツのボタンを外し始めた。
「え!?い、今?今いいの!?」
「え?あ!今じゃなかったですか?すいません……」
翡翠が照れくさそうに詫びて手を止める。
「いや!今……今がいい……」
間近で見た翡翠の素肌に、東堂は妙にどぎまぎとさせられた。翡翠はすぐにはい、と頷くと、またボタンを外しだし、すぐ上半身裸になってしまった。
「ち、ちょっと待って……」
東堂はカメラを取り上げると、ズボンと下着を脱ぐ翡翠も急いで撮影した。嫌がられるかと思ったがそういう様子はない。
そうだよなあ、別に、男同士だし、裸を意識する方がおかしいか。翡翠にしたら一緒に温泉入るとか、そんな感覚なのかもしれない。焦ってるのは……自分だけだよなあ、と東堂はシャッターを切りながら考えた。
翡翠はその間に服を脱ぎ終わり、裸足で庭に降りるとそのまま浜の方向へ歩いて行く。東堂も後を追った。
「いつも家で服脱いでくの?」
「はい。前は浜で脱いでたけど、最近風が強いから……置いとくと飛ばされちゃうんです」
「ああなるほど……」
海水着を身に着けることはしないんだろうか、と思ったが、やや前を歩く翡翠の瑞々しい肢体が――酷く美しかったので黙っていた。そうだ、彼が海に潜る時にはなんだか……素裸の方が似合う。
いきなり翡翠が振り返ったので、東堂は慌てて彼の腰つきを観察していた視線を顔に移した。
「あのう、どうしましょう。どうやって泳げばいいですか?」
「え!どうやって……ええと、いつもと同じでいいよ……」
東堂が答えると翡翠は首を傾げ
「でも俺、潜っちゃいますけど……そしたらなんにも写らないですよねえ……いいんでしょうか……?」
と尋ねる。
「あ、そうか……いや、でも、いいんだ。いつも通りにしてくれれば」
撮りたいのは、彼が海から上がってくる時の姿だから、と東堂は思った。あの、海水を身から滴らせた……まるで今しがた、海 から産まれ出てきたかのような彼のイメージ。そう、あれが撮りたい。今日は浜辺で待ち構えていられるから、しっかりと捉えられるはず――そう考えて東堂は、波打ち際でカメラを構え、ファインダーに集中した。
翡翠は時々息継ぎのため波間に顔を出す。そうしながら東堂を見て微笑んだ。その笑顔はひどくあどけなく見え、可愛くて……東堂は夢中でシャッターを切った。
――じき彼はこの間と同じに浜に向かって泳ぎだし、やがて浅瀬を歩き出した。そうだ、その姿だ、撮りたかったのは――東堂は魅入られながら、水から現れてくる翡翠を写真に収めた。
翡翠が近くまで戻って来たとき、東堂は思わず彼に駆け寄り、女性をエスコートする時のように片手を差し出した。髪から雫を滴らせながら翡翠は一瞬不思議そうな表情をしたが、すぐ素直に東堂の手を取った。波が打ち寄せて東堂の革靴とズボンの裾を濡らす――それに気づいた翡翠が目を丸くし、声を上げた。
「東堂さん!靴!駄目になっちゃう!」
「えっ!?あ!」
焦った東堂が慌てて足を持ち上げようとした時、さらに波が打ち寄せ、足元の砂が持ち去られてついバランスを崩した。しまった、と思い、東堂はカメラだけは濡らすまいと、持った方の片手をさし上げた格好で波打ち際に尻餅をついた。翡翠が握っていた手で支えようとしてくれたのだが、彼の力では止めきれず、倒れた東堂の上に重なってしまう。
「うわ。大丈夫ですか!?すいません、俺が急に靴のこと言ったから……」
助け起こそうとする翡翠の顔が、東堂のすぐ目の前にあった。思わず見つめる。
「東堂さん、だいじょう……」
言いかけた翡翠の唇に、我知らず東堂は接吻した。翡翠は抵抗しない。ほんの一瞬なのだが、彼は東堂に完全に身を委ねるような様子を見せ、目を閉じた。海から上がったばかりの翡翠の唇は冷えきっていて――そのつめたさで東堂は我に返った。そうでなければ――カメラも放り出して、彼を波打ち際の砂地に押し倒すところだった――
「な……!?俺、一体何を――すまない!」
うろたえて叫び、東堂は跳ね上がるようにして立ち上がった。今一瞬、翡翠が同性だとかそんな事はどうでも良くなってしまった。ただすぐ側に来たその柔らかそうな唇に……触れたくなってしまって……
「ああとりあえずカメラは無事だ……」
しかし上着の裾と、下半身はびしょ濡れだ。
「なにやってんだろうな全く……」
苦笑する東堂に翡翠が詫びる。
「ごめんなさい、俺のせいです……」
「いやそうじゃないよ。海から出てきた君があんまり綺麗で……つい出迎えたくなったんだ。気障 なことした自分のせいだよ」
それを聞くと翡翠は笑った。
家に戻ると翡翠は申し訳なさそうに言う。
「先に風呂用意しとけば良かったですね……ここ、古いんですぐに沸かないんです……」
「いやいや。あ、時間かかるなら俺んち来ない?シャワーあるからすぐ使えるよ。俺も着替えなきゃならないし」
東堂はバスタオルを借りて、浜の近くに置いておいた車のシートに敷きその上に座った。翡翠は着替えを持ち、大きめのタオルを頭から被って身体に巻きつけた格好で助手席にいる。アトリエへは、砂利道の坂を運転して上がればすぐだ。
「うーつめて……まだやっぱ泳ぐには早かった……君よく平気だね……」
「慣れてますから……」
そう答えた翡翠はなぜだかひどく満ち足りた表情をしている。
「なんか嬉しそうだねえ?」
「はい……車乗せてもらうの嬉しいんです……それに、誰かの家連れてってもらうの初めてだし」
「そうなのか……」
小さい子みたいなことを言うんだな、そう思って東堂は微笑した。
東堂の家は新築で最新の設備を備えてあるので、風呂も熱いお湯がすぐに溜まる。風呂場にはシャワーブースとジャグジーバスもつけた。
ブースに翡翠を入れて使わせようとすると、やり方がわからない、という。
「これ……ここ回すんですか?」
「いや、それは温度調節用のダイヤル。お湯出すのはこっちのレバー」
温かいお湯が出はじめて翡翠の肌を叩いた。彼は珍しがって両手でそれを受け、はしゃいでいる。ちょっと車に乗せたりシャワーをかしてやるくらいの事でこんなに喜んで……無邪気なもんだ。本当に純朴な子なのだな、と微笑ましく思いながら、東堂は濡れて尻にはりつくズボンを脱ぎ、湯を張ったジャグジーに浸かって身体を温めた。
やがて翡翠がシャワーを終えてブースから出てきた。
「すごいですねえ、東堂さんち……」
「そう?君んちだってすごいじゃない。今の建築にはない重厚さがあって立派だよ」
「あれは……古いだけです……」
裸のまま、珍しげに辺りを見回している翡翠に東堂はジャグジーをすすめた。
「ここ入るといい。あったまるよ」
「え!いいんですか?」
翡翠は弾んだ声で答えてすぐジャグジーに駆け寄ったが、白く泡立つ湯を見て緊張したのかへりに両手でしっかりつかまって、慎重に片方の足先を差し入れている。やがて無事中に入れると、ほっとしたように息をついて笑った。その様子を見守っていた東堂も微笑んだ。可愛いなあ、とあらためて感じる――自分が普段交流のある都会の若者たちも美しい。が、彼らとこの子の持つ雰囲気は全く違っていて――そこにひどく惹かれる。
「すごいなこれ。海みたいだ」
勢いよく吹き出す湯を見つめながら、感嘆したように翡翠が言った。
「海というか、洗濯機だな」
それを聞いた翡翠がまた笑う。その時突然――波打ち際で接吻されたその瞬間、東堂に身を委ねてくるようにした翡翠の姿が脳裏に蘇った。心臓がどきりとして頬に血が上る――のぼせたのか?いやまだそんなに温まってはいない。まさかこれは、彼に……欲情した?
東堂は慌ててお湯から出ると、バスローブを羽織りながら言った。
「あ……あのさ、あったまったら出ておいで。何か喰おう。そこのバスローブ使っていいから」
翡翠は出て行く東堂の顔を見上げて頷いた。
東堂はキッチンに行くと、簡単に食べられそうなものは買ってあったかと冷蔵庫を覗いた。何しろこの辺りはレストランもなければデリバリーをやってくれるような店もないのだ。ハムの塊やらパンやらを引っ張り出していると、翡翠が風呂から出てきて隣に立った。東堂が何も言わないのにカウンターに載っていたもので手早くサンドイッチを作り出している。その様子を見て東堂は、今まで付き合った事がある女の子たちよりよほど気が利くじゃないか、と感心した。
翡翠は貸してやったバスローブを羽織っていた。彼にはサイズが大きいので、肩がわずかにすべり落ちて胸の袷が開いてしまい、手を動かすたび東堂の位置から翡翠の乳首が覗き見れる――純白のタオル地の隙間にちらつくそれが妙になまめかしく感じられてしまい、東堂は頭を振って気を取り直した。さっきからどうもおかしい……いったいどうなってんだ。そりゃこの子は色が白いから、乳首も桜色で綺麗……そうじゃない!いくら色っぽく見えたって男のものだぞ、自分と同じじゃないか!東堂は動揺したのを誤魔化すように、翡翠に声をかけた。
「あの!なに飲もうか!?何がいい?」
「ええと、じゃあ……」
手早くサンドイッチを作り終えた翡翠は東堂の顔を見上げ、少し恥ずかしそうに訊いた。
「あのう……こないだ頂いたみたいなワイン、ありますか?あれ美味しかったから……あの後一人で全部飲んじゃった……」
「ほんとに?あれ気に入ってくれたんだ?勿論あるよ」
自分の好きなワインを美味しかったと言ってもらえるのは嬉しい。翡翠はなんだか……こちらの感情を甘くくすぐる方法を自然に身に着けているようだ。
同じワインを出してきて開けてやると、翡翠はそれを美味そうに飲んだ。
「ああ……やっぱり美味しいな……このハムなんかもすごく美味しいですね。東京のですか?」
「うん、あっちで買った」
「いいなあ……東京には……なんでもあるんだな……」
「そうだねえ、ここの魚も美味いけど……まあ都会は便利だよね。そうだ、こんど東京遊びに来ないか?僕があっち戻るとき連れてってあげるから。うちで良ければ泊まっていいし」
東堂が誘うと翡翠は哀しそうな顔になり、首を横に振った。
「……だめなんです。俺、ここにいないと」
「だめ?どうして?」
「生活の面倒見てもらってる人がいるんですけど、その人に……ここ離れるなって、そう言われてるから。ほんとはこんな風によその家に遊びに来たりしてもいけないんです……」
「面倒を……見てもらってる?」
そういえば東堂は翡翠のことを何も知らない。
その時翡翠が――決心した様子で言った。
「あの、東堂さん。俺、多分普通じゃないと思います。きっとどこかおかしいと思うんです。だから……これ以上……親切にしないでください……」
最後の方は彼は俯き、弱々しく小さな声になった。
おかしいとは?どういうことだろう。病気か何かということか?だからこんな田舎に一人きりで――ひょっとして隔離でもされているのか――?
東堂が混乱しているのを翡翠は悟ったようだ。
「すみません。はじめて友達ができたと思って嬉しくて――つい甘えちゃって。だめだってわかってるのに――あの、俺、帰ります。ここに来たのばれたら叱られるから。近いから……帰りは歩きで大丈夫です」
そう言うと急いで立ち上がり、持って来た服に手早く着替えて出て行った。
東堂は考え込み暫く動けなかった。翡翠が飲んでいたグラスを見つめる――まだ少しだけワインが残っていた。東堂はグラスを掴むと残りを飲み干し、立ち上がってテレビキャビネットに近付いて、モノクロ映画のDVDを取り出した。
あの浜辺で我知らず翡翠に口付けたとき、この映画のワンシーンが鮮やかに思い浮かんだのだ――打ち寄せる波に洗われながら抱き会ってキスを交わす二人――その場面を探して再生しながらタイトルを確認した。「地上 より永遠 に」だった――
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