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第19話 火

翡翠はシャツを羽織っただけの姿で廊下を足早に歩いた――ショックだった……東堂さんがあんな風に言うなんて。翡翠は懸命に、母の為に、この家から逃げ出さずに耐えている。それを無意味な事だと否定されてしまっては、翡翠にとっては、お前は生きている価値が無い、と言われたのと同じだった。 確かに母は、他の人から見ればなんの役にも立たない人間なのかもしれない。東堂がああ言ったのは、翡翠のためを思ってだという事は頭ではわかっていた。でも母は、翡翠にとっては、ずっと二人きりで支え合って生きてきた大事な家族なのに―― とても寂しく――打ちのめされた気持ちだった。 自分の部屋へ行き、置いてある文机の前に両膝をついて引き出しを開けた。そこには――水谷の名刺がしまってあった。 水谷さん。水谷さんは、母さんのこと、あんな風に言わなかった。俺が母さんのためにここにいたいって言ったのをわかってくれた。だから俺のために、無理して側にいようとしてくれて、酷い目に遭わされて―― 名刺を取り出そうと手を伸ばしかけた時、後ろから羽交い絞めにされた。東堂だった。 「なに……東堂さ……!」 言いかけた翡翠の口を塞ぐようにして強引に接吻し、東堂は 「絶対に君を連れて行く。こんな家に置いておけない」 と唸るように言った。 東堂はそのまま翡翠を抱えて廊下に引きずり出した。翡翠は叫んで訴えた。 「東堂さん!放してください!止めてよ!」 抱えられながら翡翠は必死に手を伸ばし、近くの柱に縋りついた。 「俺は行きません!お願いだから放して……!」 それを見た東堂が天井を見上げながら呟く。 「そうか。この家を……」 「え?」 柱にしがみつく翡翠の鳩尾を、東堂はいきなり殴りつけた。息が止まって翡翠はその場に崩れ落ちた。その体を担ぎ上げて東堂は、大股に廊下を進むと庭に降り、半分気が遠くなっている翡翠の両手を自分の首に引っ掛けていたネクタイで縛り上げ、その端を生垣の木の根元に括り付けてしまった。 動けない翡翠に向かって言う。 「家が無くなれば……君も気が変わるだろう。そこで見てるといい」 どういうこと?翡翠が朦朧としていると、そのうち、開け放たれた玄関の奥に火の手が上がった。驚いたためか意識がはっきりした。東堂さん――まさか―― そのまさかだった。東堂は、翡翠の家に火を放ってしまったのだ。古い木造の家は簡単に火が回り、煙が立ち上って明るい炎がそこここを舐めはじめた。翡翠は必死になって叫んだ。 「東堂さん――止めて――!」 なんとか縛り付けられた手を外そうともがく。すると急に、庭に誰かが走り込んで来た。言行だった。 「言行さん!?どうして……」 「そりゃこっちが聞きたいよ!暴れないで。余計締まっちまうから」 言行は慣れた手つきでネクタイの結び目を解くと、翡翠に手を貸して立ちあがらせた。 「知らせる事があって急いで来たんだけど――こりゃあ……」 煙を上げる家を見て唖然と呟く言行の手の中から飛び出すと、翡翠は家に向かって走った。 「翡翠!?どこへ――」 外壁に沿って回り、文机が置いてある部屋に向かった。そちらはまだ火が回っていないように見えたので、ほっとして外から引き戸を開けると、充満していたらしい煙が吹き出した。咳き込み、目が開けられなくなったが、中に這いこんで手探りで文机を探す。 なんとか見つけ机に取り付くと、開けっ放しになっていた引き出しから水谷の名刺を掴み出した。これは――絶対失くさない。 それだけを胸に抱いて庭へ這い出した。生垣の所まで逃げ、蹲って咳き込んでいる翡翠の元に、言行が走り寄ってきた。 「ああ驚いた……死ぬ気かと思った……何?なに取って来たの……?」 翡翠が掌を開いて水谷の名刺を見せると、言行は心底呆れた顔をした。 「こっちに――浜においで。ここは危ないから」 浜からパチパチと音を立てて燃える家を、翡翠は眺めた。なぜだか悲しくはなかった。東堂はどうしたろう……逃げただろうか。 言行が呟く。 「とっくに警報器から通報行ってるはずなのに、まだ消防車の姿も見えないって……一体なにのんびりしてやがんだ……まあここなら延焼の心配は無いけど……」 「言行さん、知らせる事って――?」 翡翠が訊ねると、言行は困ったような表情をした。やがてその顔を引き締め、翡翠に向かってゆっくり言った。 「井衛のじいさんが――死んだんだ」

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