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第20話 偽り
「……死んだ?ほんと……ですか……?」
翡翠はぼんやり繰り返した。産まれた時から……母と自分を支配していた巨大な影。あれが本当に――死んだのだろうか。
「うん。少し前から大分悪くはあったんだけど――とうとう今朝方にね。それで……じいさん事切れる前に、僕を枕元に呼びつけてこう言ったんだ――翡翠、あのな、落ち着いて聞けよ?」
言行が今までは見せたことのない険しい表情をしているのを見て、翡翠は戸惑った。
「……翡翠。お前のお袋さんは……とっくに亡くなってるそうだ」
「……え?」
意味がわからなかった。
「……病院の、監視の目を盗んで……自殺してしまったんだって。もう結構前のことらしい。でもじいさんはお前にそれを知らせなかった。お前が――逃げ出すのが分かりきってたから」
「……でも……俺……電話で……」
「あれは録音だったそうだよ」
「録音――?」
「そう。たまたま録音してあった、生きてた頃のお袋さんの言葉を電話口で流させていたらしい……会話が――成り立たなかったんじゃないか?」
翡翠は蒼白になった。いつからか、母はうわごとのように同じ言葉を繰り返すようになっていて――でもそれは――病気だから――仕方がないんだと思いこんでた。じゃあ、あの時には既に――
なんてみじめなんだろう、と翡翠は思った。井衛が持ってくる電話を使わせて貰う時、母がその向こうにいると信じて、許された時間内、必死になって少しでも耳に届いて欲しいと話し続けた。ちゃんと食事をして、ちゃんと眠って、薬も飲んで。そんな風に、録音された声に向かって話しかけていた自分はなんて――
膝の力が抜けて倒れそうになった翡翠を、言行が支えてくれた。そのまま、砂の上に座らせる。
「翡翠。お前は自由だ。じいさんも、お袋さんも逝っちまった。じいさんは遺言であの家は翡翠にやれと言っていたけど――」
言行は煙を上げる家に目をやった。
「――あんなことになっちまった。翡翠。僕と、一緒に来ないか?じいさんの後ろ盾がなくなっても、僕と組めば食わせてやれる。僕の仕事を手伝ってくれれば」
翡翠は言行の顔を見上げ、首を横に振った。
「そうか……いやか。どうするんだ?」
翡翠は黙って海を眺めた。母がいなければ――生きている理由もない。あそこに入って――そのままもう、帰ってこない――何度も想像した通りに――
そのとき……握り締めた名刺の角が――掌を刺した。
水谷さん。
水谷さんが東京に行こうと言ってくれたあのとき――本当は一緒に行きたかった。でも母さんが心配だからと、ここに戻って――水谷さんまで巻き込んで――なのに――
ごめんなさい。水谷さん。ごめん。
そこに視線を落とした翡翠を見て、言行が訊く。
「その……水谷って男を頼るのか?そいつはお前から逃げ出した腰抜けじゃないか。アテにならないぞ。お前のことを覚えてるかどうかもわからない」
「そう……ですね。覚えていないかも。俺のことなんか……」
水谷さん……会いたい。でも、会えなくてもいい。東京に行きたい。水谷さんが、行こうと言ってくれたから。
「それでも……いいんです。東京、行ってみたいから」
翡翠が答えると言行はそうか、と頷いた。
「まず何か着よう。お前、シャツ1枚じゃんか。僕の車に着る物あると思うよ」
浜を出てまだ燃えている家の脇を抜けようとすると、庭の生垣の陰に東堂が蹲っていた。火傷しているらしい。
「……翡翠、良かった。いなくなってるから、まさか中で死なせたかと……」
その時ようやく消防車が近付いてきたようで、サイレンの音がし始めた。
「ああやっと来た……いくらここが村はずれでも時間かかりすぎだ……ひょっとして全焼するの待ってたんじゃないだろうなあ……この家にゃ村の連中、複雑な感情があったみたいだから……」
そう呟きながら言行が東堂に目をやる。
「さて、悪いけど、僕は面倒なのいやだからもう行くよ。東堂さん、あんたはそこにいれば消防の人が見つけて手当てしてくれるだろ。後は頼んだから、適当に、うまく言い訳しといてな。どうせまともに調べやしないさ」
「翡翠は……」
うつろな視線を向ける東堂に翡翠は言った。
「俺、一人で行きます。もうここにいる理由なくなったから。東堂さん、一緒に行けなくてごめんなさい。俺を助けてくれようとしたのは、わかってます。ありがとう――」
力なく頭を垂れた東堂をその場に残し、二人は家から離れた。
言行が車の後部シートから、服とスニーカーを引っ張り出してきた。
「サイズ合わないだろうけど、まあ当座はこいつで間に合わせな。あとほら、これも持って行っていいから」
自分用の着替えや旅行用品一式が入れてあるらしい鞄を渡して寄こす。言行はさらにポケットから札入れを出し、中にあった紙幣を抜いて翡翠に持たせた。
「これは餞別。これっぽっちでごめんな。カード使うから現金たいして持ち歩いてなくて」
「でも言行さん……こんな……どうして……?」
翡翠は驚いていた。いつも翡翠を縛り上げ、意地悪な振る舞いをする言行が、どうしてここまでしてくれるのか。翡翠のことを嫌っていたんじゃ……なかったんだろうか?
「どうしてかって?まあお前にはいい経験させてもらったからね……そうそう」
言行は内ポケットから名刺を出すとそれも翡翠に渡した。
「困ったらここに連絡してきな。翡翠ならいつでも大歓迎で面倒見るよ。ただし、縛らせてくれたら、だけど」
翡翠はただ、首を横に振った。
「そっか。じゃあ、駅まで乗ってくか?それとも都内まで?」
翡翠はまた首を振ると、
「自分で歩いてこの村から出たいから……大丈夫です」
と答えた。
「そうか」
言行は頷いて車に乗り込んだが、エンジンをかけようとしていた手をふと止め
「翡翠、気をつけろよ。お前は気付いていないだろうが、お前は人を――男を変えちまう。関わる人間を取り込んでおかしくするように、あのじいさんが、そういう風にお前を作ったんだ。だからそれはお前のせいじゃないけど、でも気をつけろ――」
そう言い添えて、翡翠の前から走り去って行った。
車を見送りながら翡翠は暫く考えた。だが、言行の言う意味は――よく分からなかった。
村境にある駅に向かって歩き出す。歩きながら思う。
駅に着いたら、電車に乗ろう。電車に乗って――東京へ行こう。
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