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第21話 電話
あれから――翡翠を見捨てて水谷が、東京へ逃げ帰って来てしまってから――半年ほど経った。水谷はまた以前の通りの仕事に戻ったが、時折――波の音が聞こえるあの家での出来事を思い出した。
全てが――夢の中で起こった出来事のようだった。あれは……現実だったのだろうか?翡翠は、本当にいたのだろうか――?
忙しい麻衣との関係は相変わらずだった。うまくいっていると言えばそうなのだろう、だが――麻衣を抱いている時、つい、これが翡翠だったら、と夢想してしまい、慌てて打ち消すこともあった。
本当は、と水谷は想う――
本当は、逃げ出してきた事を後悔している。無性に翡翠が懐かしく、恋しくなり、あの家に戻りたくなる事がある。あそこに戻って翡翠を抱きたい。初めて会った夜のように。その衝動を抑えるのは、辛く、苦しかった。
――その日は麻衣に夕食に誘われていた。
待ち合わせ場所にした駅の改札に着いて水谷は、今しがた終えた取引先との面談中、出られなかった電話を確認しようとポケットからスマホを取り出した。メッセージが残されていることを示す表示が点いている。喫煙ブースに足を向けながら水谷はスマホを耳にあて、留守録を再生させた。
「水谷さん――」
録音された声が自分の名を呼ぶのを聞いて、出しかけていた煙草の箱を動揺して取り落とした。この声は――
「水谷さん、もし、もしもこれ聞いたら――ええと、俺、翡翠です。覚えてもらってるかわからないけど――あの、俺、今東京にいます。ここ――ええと、東京駅です。それと――母は……死にました……」
そこで暫く間が空いた。
「あの――会いたいです。できれば。あの、丸の内――駅前広場ってとこにいます。待ってますから――でも俺のこと覚えてなければ――」
翡翠の言葉は、録音時間が終わったためそこで途切れていた。
時計を見る。彼が電話をしてきたのは1時間ほど前だった。東京駅までは地下鉄を使えばすぐだ。が、もうすぐ麻衣がやってくる――。
麻衣には用事が出来たと言おう。水谷は考えた。今翡翠に会えば――もう自分は、彼女の所へは戻れないかもしれない。けれど――
「仁、待っちゃった?」
後ろから声を掛けられた。麻衣だった。
「ん?うん、あ、いや。今来たところ……」
「そう?良かった」
すまないが今日は用事ができた、水谷がそう言いかけたところに麻衣が口を開いた。
「あの、今日ね、ちょっと……知らせる事……大事な話、あるんだ……」
「大事な話?」
「うん、店についてから……いい?」
「え、うん、いいけど……」
麻衣はいつもと違い、妙に緊張したような顔をしている。それを見て水谷は何も言い出せなくなり、彼女と肩を並べて歩き出した。だがそうしながらも、時間が気になっていた。
麻衣が予約を入れておいてくれたレストランで食事をしながら、水谷はこっそり何度も時計を盗み見た。翡翠は一体――どの位の時間待っていてくれるつもりなのだろうか――。
「話ってなに?」
「食べてからでいい?」
「うん、いいけどさ……なんだよ……」
食べ終わった後、サービスのエスプレッソが運ばれてきた。それを見つめながら麻衣が言う。
「あのね、知らせる事ってね……」
「――なに?」
「ええとね……うーん……」
麻衣は、水谷のほうにわずか身を屈めると、声をひそめて囁いた。
「あの……ええと……私ね、妊娠……したかも」
「ええ!?」
思わず叫び声をあげてしまい水谷は慌てて辺りを見回した。幸い誰もこちらを見てはいない。声を抑えて尋ねる。
「ほ、ほんとに!?」
カップの中のエスプレッソを小さなスプーンでかきまわしながら、麻衣は頷いた。
「うん、多分――今日会社でこっそり……薬局で買えるやつで調べたんだけど、陽性だった――まだちゃんと病院行ってないけど、あれってまず間違いないって聞くから、きっと……してると思う」
水谷は顔が強張るのを感じた。そんな――どうして、今なんだ?今までずうっと――できなかったじゃないか。
黙っている水谷を気遣ったのか麻衣が言う。
「びっくりした?ごめんね――私も――びっくりした……できないんだろうと思ってたから」
「あ!いやごめん。うん、びっくりしたけどさ――そっか、そうだったか。ええと、じゃあ俺、親父だな」
「……いいの?」
「いいって……え?だって俺が……父親でしょ?」
麻衣は笑い出した。
「もちろんそうよ……でも今まで……私がもっと仕事したいって言ってたせいでずっと結婚しないでいたのに、今更いいのかな、と思って」
「いいに決まってるじゃんか……」
そうだ、ずっと……麻衣が早く結婚する気になってくれればいいのにと、そう思っていたはずだ。家庭を作り子供を持って――家に帰れば夕食の支度が出来ている――そんな生活に憧れていた。
でも――
レストランの窓から外の夜景を眺め、東京駅の方向を見やる。
翡翠は――覚えてなければ、と言った。覚えてなければ来なくていい、きっとそう言うつもりだったのだろう。暫く待っても俺が来なければ、そういうことなのだ、と彼は理解するだろう――
食事の後、彼女を家まで送った。お互い明日も仕事があるし、妊娠しているならバーに寄って一杯、というわけにもいかない。水谷は念を押した。
「大事にしろよ?酒、飲むなよ?」
「うん、わかってる。でもずるいな、男の人は」
「なんで」
「子供できたって、生活何も変わらないじゃない。私なんかあとタバコも止めなくちゃ。仕事だって、産休とらないと――」
「何も変わらなくないよ。結婚するんだから」
そう言って水谷は、門の所で麻衣の額に口付けた。麻衣は目を閉じ、そっか、と呟いた。
「自分がデキ婚するとは思わなかったな。水谷麻衣か――変な感じ」
「変って……ひどいな」
苦笑しながら水谷は、今度は唇に接吻すると、麻衣の家を後にし駅に向かって歩き出した。
麻衣の両親も、いつも早く結婚しろとせっついていたから、これでほっとするだろう。水谷が今住んでいるマンションでは、子供が出来ては手狭だから、どこかに引っ越さなければならない。一人娘の麻衣は実家からあまり離れるのは嫌がるだろう、この辺りに部屋を借りることになるのだろうか。ひょっとすると同居かなあ……。
そのうち赤ん坊のおしめをかえたりするようになるのか。なんだか信じられない。水谷の脳裏に、そうしてごく平凡に、おとなしく齢を取っていく自分の姿が浮かんだ。前はそれでいいと思っていたのだが――それらが現実味を帯びてくるとなんだかため息が出る。
なにがっかりしてんだ。平凡なのが一番じゃないか。そう自分に言い聞かせた。でもこうして――俺は一生何かから、顔を背けて生きていくんだろうか――
何か――
本当に欲しい何か。
常に無難な方向を選択して生きてきた。そうするのが賢いという事だと思っていたから……いや、今でもそう思っている、そのはずだ。けれど――。そこまで考えて、水谷はふいに走り出した。その何かに――身体の内部から突き上げられた感じだった。
翡翠。
翡翠に会いたい。
飛び乗った電車で東京駅についてから、また水谷は走った。駅前広場につくと、不審がられながら、辺りに立つ若い男の顔を片っ端から覗き込んで確認した。――翡翠は、いなかった。
当たり前だ。留守電が入ってから何時間経ってると思ってるんだ。そんなに長い事俺なんかを待ってくれてるわけがないじゃないか。来る前からわかり切ってた。だがこれで――彼には二度と会えないだろう。
水谷は走り回るのを止め、俯いて片手で顔を覆った。会えたとしても、今更――どうなるものでもない。妊娠している麻衣を捨てられるはずがない。でも……俺は翡翠に……会いたかったんだ……
無性に悲しくて――寂しかった――
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