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第22話 東京

列車が東京駅についた。 翡翠は戸惑いながら大勢の人々と一緒にホームに降り立った。駅は映像で見た事があったから知っている。でも本物は、思っていたよりもっとずっと広く大きくて立派だった。 色んなアナウンスがあちこちで響いている。数え切れないほど沢山の表示があって、店も信じられないほど沢山――その賑わいに圧倒されながら、翡翠は周りの人の流れについて構内をあちこち歩き回り、公衆電話を探した。 壁際に設置された電話を見つけ、ポケットから大切にしていた水谷の名刺を取り出す。本当はいつも見返していたから、そこに印刷されている文面は全て覚えている。会社の番号も、彼個人の電話番号も。でも念の為、もう一度名刺をよく見て、翡翠は緊張しながら水谷の個人番号を慎重にダイヤルしていった――生まれて初めて自分からかける電話が水谷さんの番号だなんて、夢みたいだ、とそう思いながら。嬉しかった。 番号はつながったが留守番電話だった――自動音声が対応する。これも実際に使うのは初めてだ。一生懸命自分が東京にいることを伝えたが、上手く喋れたかどうか自信が無かった。そうだ、目印が無いと、そう思って慌てて辺りを見回すと、駅前広場、という案内表示が目に入ったので、そこで待っている、と告げた。 それから翡翠は広場に行き、足早に行き交う人々の邪魔にならない場所に佇んだ。留守番電話をいつ水谷が聞くかは分からない。ともかく待ってみるつもりでいた。――例え彼が来なくても。 夕方になった。翡翠はひたすら立ち続け、待ち続けた。やがて脚が疲れてきてしまったので、休める場所を探してしゃがみこんだ。来なくてもいいんだ、期待してない。翡翠は夕焼けの広がる空を見上げながらそう思った。 そのうちオレンジ色だった空が薄青くなり、濃紺になっても――彼は現れなかった。もう一度電話をかけてみようか……そうも考えたが、できなかった。今度は直接繋がって、迷惑だと言われてしまうかもしれない――それに、翡翠の事などもうとうに、すっかり忘れているのかもしれない――それを知るのは怖い…… 空は暗くなっても、東京の街はそこら中に光が溢れてとても明るい。明るいから、寂しくない。翡翠はそう考えて自分を慰めた。人もいっぱいいる、だからいいんだ。翡翠は想う。寂しくなんかない。がっかりなんかしてない。こんなに大勢、人がいるから。座り込んだ膝に顔を埋め、心の中で、平気だ、と繰り返した。 でもほんとは――平気じゃない。ほんとは寂しい。ほんとはすごく…… 水谷さんは来ない。それがはっきりしてしまって……すごく辛い…… 涙が滲んで風景が揺れた。 いくら沢山の人がいても……誰も翡翠を見ない。おんなじだ。あそこと同じ。翡翠の家があった、あの小さな村と同じ。 東京は、特別な場所じゃなかった。 願いがかなう、奇跡みたいな場所なんかじゃなかったんだ―― そう思い知らされ、翡翠はのろのろと立ち上がって歩き出した。やっぱり浜に帰ろう。海に潜って、最初に思った通り、あそこで死のう―― その時駅舎から――水谷が走り出てきたのが見えた。 あたりは既に暗く、距離も離れていたのに、どうしてかすぐに彼だとわかった。翡翠は一瞬、息が止まって胸を押さえた。 来てくれたんだ。覚えててくれたんだ。東京ではやっぱり、奇跡が起こるんだ―― 喜び勇んで水谷に駆け寄ろうとしたその時――翡翠の頭の中に突然、言行の言葉が蘇った。 ――お前は人を――男を変えちまう。関わる人間を取り込んでおかしくするように、あのじいさんが、そういう風にお前を作ったんだ―― その瞬間――急にその意味がわかった気がして、翡翠は慌てて物陰に飛び込んだ。水谷がこっちへ近付いてくる。必死に翡翠を探しているらしく、そこここに立つ人々のうち、若い男性を選んで相手が驚くのにも構わず顔を覗き込んでまわっている。 出て行かなきゃ。水谷さんがいる、すぐそこに。あんなに懸命に――俺を探してる。翡翠はそう思ったのだが、動けなかった。 一番大事な、大好きな人。 だから――会っちゃいけない。側にいちゃいけない。 ――俺はきっと、水谷さんを変えてしまう。おかしくしてしまう。あの、家に突然火を放ってしまった東堂さんのように―― 水谷さんは俺を覚えていてくれた。ちゃんと会いに来てくれた。それがわかったから、それだけでいい。 東京は、やっぱり奇跡の場所だった。それがわかったから―― 翡翠は隠れていた場所からそっと出ると、通行人に紛れて東京駅を後にした。

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