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第23話 光

東京駅を離れて、翡翠はとにかく人の流れて行くほう、多いほうへと向かった。映像でしか見たことのなかった賑やかな街に今、自分自身で立っていると言う事が信じられなかった。嬉しいのかどうなのかはわからない。ただ、不思議だった。 あたりを見回す。ひっきりなしに人が通る。のんびり話しながら歩いている二人連れもいれば、やや俯いて足早に翡翠を追い越していく人もいる。でも――誰も翡翠に目を留めないのは相変わらずだった。 流れに乗って周りの人々と歩調を合わせて歩いているうち、翡翠はだんだん――人の中にいるのではなく、水の中―― 潮に乗って運ばれているような、そんな感じがしてきていた。でも運ばれているだけでなく、自分がそこに溶け込んで――消えていくような気がしてくる。今自分は……透明なのではないだろうか。誰の目にも――見えていないのではないだろうか。 そのままふらふら歩いていると、前方にあるガードレールにもたれて立っている男性がいた。大勢の中、なぜその人が気になったのか――それは、彼が翡翠を、じっと見つめていたためだった。 翡翠は男性の視線に気付き――人の流れから外れて、彼に向かって真っ直ぐ歩いて行った。男性はその間、近付く翡翠から一度も視線を外さなかった。 翡翠は男性の目の前に立ち、訊いた。 「俺が……見えてるんですか?」 相手は笑い、頷くと、翡翠の肩に手を添えて歩き出した。 彼は翡翠に食事を奢り、ホテル代を払い、一晩翡翠と一緒にいてくれた。そうして翡翠は、身体を売ることを覚えた―― それから翡翠は他の事も覚えた。言行にもらったあきらかに旅行用とわかる鞄を提げていると、家出人と思われて警戒されてしまうから、面倒を嫌う客に声をかけてもらいにくくなる。翡翠は街頭に立つ間は、その鞄を駅のコインロッカーにしまうことにした。 どの人が自分を買いたがっているか、そういうことにも敏感になった。どこに立てば余計な相手に絡まれず、うまく上客をつかまえられるか、そんなこともわかってきた。 明るい街は眠らない。客とホテルに泊まれなくても、どこかしら夜を明かす場所はある。同じように身体を売っている若い男達とも知り合いになった。彼らはお互い仲良くなったり、客の取り合いで揉めたりする。そんな同業の若者たちの振る舞いを見て、翡翠は金を持っている男に媚びる事も覚えた。 あるとき、翡翠は買われた相手に、ホテルではなく自宅――小奇麗なマンションの一室だった――そこへ連れて行かれた。相手はそこで翡翠を抱き――それが済んだあとも追い出さなかった。 相手の名前は(ひかる)と言った。郊外に実家があり、そこから都内の大学に通っているのだが、帰りが遅くなって家まで戻るのが面倒になった時用に、ここにマンションを借りてもらっているのだった。親はかなりの金持ちらしい。光は翡翠に、必要な物は自分が買ってあげるから、街頭で身体を売るのはもうやめてくれと頼んだ。翡翠はすぐ承知した。もともとお金というより、泊まる所と一緒にいてくれる人――翡翠を見てくれる人欲しさにやっていたことだ。光がいつも翡翠を見てくれるなら、もう必要無い。 光は優しく、それは水谷を思わせて――翡翠は懸命に光に尽くした。翡翠が料理ができると知ると光はひどく喜んだので、彼がマンションに泊まる時にはいつも翡翠が食事を用意した。そんな生活の間は――街頭で身体を売っていた時にはしょっちゅう取り出して見つめ、気持ちの支えにしていた水谷の名刺に頼らずにすんでいた―― ある時光が、大学の友人が泊まりにくるから、今夜は別の場所にいて欲しい、という。翡翠は特に不満も覚えず素直に頷いた。 光は翡翠に荷物を用意させると、知り合いが住んでいるという近くのアパートへ連れて行った。ドアをノックする。と、顔を出したのは、翡翠が身体を売っていたとき、同じ商売をしていたカズミと呼ばれている青年だった。互いに情報交換のため、何度か話した事がある。多少知っている相手だったので翡翠はほっとした。 「あの、こいつが話しといた翡翠。頼むな、今晩」 「了解。宿泊費よろしくねー」 カズミは光に向かって片手を出した。光はそこに札を握らせ、じゃあ明日迎えに来るから、と言って翡翠に口付け、出て行った。 部屋に上がらせてもらい、おとなしく隅っこの方に座っている翡翠に、カズミが缶ビールを渡してくれながら言う。 「たいへんだねえ、翡翠ちゃんも。日陰の身暮らしは辛いでしょ……」 「え?日陰……?」 何が辛いんだろう?翡翠は不思議に思った。 「ん?だってほら、光ちゃんはさあ、自分がゲイだってこと学校の友人とかには隠してるから……親もモチロン知らないし?彼お金あるし、優しいから魅力なんだけど……だから逆に僕なんか、のめりこまないようにしてカラダだけの関係に抑えといたの。翡翠ちゃんも、光ちゃんにはあんまり本気にならないよう気をつけた方がいいと思うよ……」 カズミの言う意味が翡翠にはよく理解できず、訊ねた。 「あの、ゲイって……?」 カズミはぽかんとした顔をする。 「自分がそうじゃない……え?まさかわかんないの?」 翡翠と暫く話し、大体の生い立ちを聞くとカズミは納得したようだった。 「あ、そう~、そんなユニークな育ち方したんじゃわかんないのも仕方ないか……。あのね、一般社会じゃ、同性と寝たりする……というか、同性が好きな人間はあんまり受け入れられていないんだよ。場所によっちゃあ、まだまだ差別する人いるしね」 「差別……」 差別と言う言葉は翡翠にはひどく重かった。あの浜辺の村で……翡翠達親子は、タブーとしてずっと差別されていたから……でもなんでだろう、どうして同性の人を好きになると差別されるんだろう。 「光ちゃんとこは、いいおうちで、彼もお坊ちゃまでしょ。学生の今はいいけど、多分就職したりもう少し年がいったりしたら……世間体重視するだろうから、きっと女の人と結婚しちゃうよ。そうなっても翡翠ちゃん囲う位のお金はあるかもしれないけど……一緒に外も歩けないんじゃさ、空しいよねえ……」 一緒に外も歩けない。そういえば……街中では光は、翡翠が並んで歩くのを嫌がる。身体を売っていた翡翠が、どこで前の客に会うか分からないから、と言って。どうしてそれがだめなのか翡翠にはよくわからなかったのだが、仕方無く、言われたとおり彼のやや後ろを歩くようにしている。だが――背が高く大股で歩調の早い光に、人ごみの中、小柄な翡翠がついていくのは大変で……。 ――お金と引き替えに同性と寝ていた翡翠と一緒にいると――差別されるから?それとも光自身が――翡翠を差別しているから……? 翌日光が迎えに来てくれたとき……彼の所に帰れて嬉しいはずなのに翡翠は気が塞いだ。光はそんな翡翠の様子には気が付かず、相変わらずすたすたと前を行く。翡翠はうなだれてその後を追った。歩くのが速い光に翡翠はついて行けず……二人の間の距離は段々と広がった…… それから……翡翠は今までほとんど取り出さずにいた水谷の名刺を、たびたび眺めるようになった。それに向かって心の中で話しかける。水谷さん……水谷さんに頼らなくて、やっぱり良かった。だって俺と一緒にいると、差別されちゃうもの――

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