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第24話 名刺
光はここ数週間、翡翠の態度がぎこちないのに気がついていた。
前はよく甘えて、光に絡み付いてくるのが好きで、終わった後、抱いて寝てもらうのも好きで――だが最近は、光が抱き締めても翡翠の方から身体を離してしまう。ベッドの中では変わらず従順で、奉仕も熱心なのだが……光は、まさか他に好きな男ができたのか、と疑いはじめていた。
翡翠は翡翠で……カズミに言われたとおり、光にのめり込みすぎないように自分を抑えているつもりだった。
今まで何も知らず光が許してくれる限り甘えていたのだが、あまりそうはしないようにした。――いつ光に――出て行ってくれと言われてもいいように、徐々に自分を強くしようと思っていた。でもそれは――寂しかった。そう感じるたび、翡翠は水谷の名刺を取り出して眺めた。
自分にはこれがある。これがあれば大丈夫。これ――名刺は水谷さんの身代わりで――名刺なら……いくら甘えて頼っても……迷惑にならないから。
ある日光の両親が突然、息子の様子を見るためマンションの部屋に入ってきた。丁度ベッドで翡翠を裸にしたところだった光は、服を着せる暇もなく慌てて翡翠をクロゼットに押し込んで隠した。
寝室は一応リビングとはわかれている。だが、こっちの部屋もちゃんと片付けてるかどうか母親が覗いてチェックするかもしれないから、この中で静かにしててくれ、と光に頼まれ、翡翠は素直に吊るされた洋服の間で裸のまま息をひそめていた。
クロゼットの中の空気はひんやりとしている。掛かっている上着をとって羽織ろうかと思ったが、ハンガーが揺れて音を立ててしまうかもしれない、と我慢した。
膝を抱えて、裸足のつま先をいじりながら考える。こんなの、平気。家族にばれて、光が差別されたらかわいそうだもの。でもそんなに……自分は悪い事をしてるんだろうか――
その後両親が帰ってから、光はクロゼットの中から翡翠を出し、取り繕うように抱こうとした。翡翠は身体が冷えたからシャワーを使う、と言い、光の腕をすり抜けてバスルームに向かった。その時、さっき脱いだシャツを拾い上げ、ポケットに入れてあった水谷の名刺を取り出した。
名刺を胸に隠すように抱いてバスルームに入り、掌の中のそれを見つめていると、光がドアを開けて突然入って来た。その手がさっと動いて翡翠の持っていた名刺を奪う。
「ちょっ……それ返して!」
翡翠は叫んだ。光は翡翠の手が名刺に届かないよう片手で肩を押さえつけ、取り上げた名刺を読んでいる。
「いいから見せろよ。株式会社四条ビジュアル……メディア制作部、水谷仁?誰だよこれ?」
翡翠は光に取り縋り、懸命に名刺に手を伸ばして叫んだ。
「光に関係ないよ!返して!」
「たかがこんな名刺一枚に、なに必死になってんだよ?」
「なんでもないよ!返してってば!」
翡翠の様子が尋常でなく映ったのか、光は名刺を返そうとはせず、さらに高くさし上げると翡翠を見下ろし低い声で言った。
「……まさかお前……この水谷って男と浮気してんじゃないだろうな?」
「ちが……そんなわけないだろ!だってもうずっと……会ってないんだから!」
「会ってない?」
光の声に怒気が含まれる。翡翠はつい怯えて、光の腕を掴んでいた手を引っ込めた。
「じゃあ……前は会ってたってことか?付き合ってたのか、こいつと?」
「付き合ってなんかないし、それもらったのもすごい前だよ!お願いだから返して……」
翡翠は懇願した。あれは翡翠が持っているもので唯一、水谷に関連するもの、一番大切なものだ――だが光は返そうとしない。
「やったのか?良かったから忘れられないとか、どうせそんなとこだろ。買われてたのか?こいつに」
「違うよ!水谷さんは……そんなんじゃない!」
水谷の事など実は何も知らないのに、翡翠は懸命にそう叫んだ。あの時彼は自分を抱いてくれたけど――自分を慰み物にした連中や、金で自分を買った男たちとは違う。翡翠はそう信じていたかった。
「お願い。お願いだからそれ返して。ほんとに――大事なものなんだ――お願いします」
翡翠は頭を下げて頼んだ。それを見た光はなぜか……意地の悪い表情になった。
「じゃあ……言う通りにするか?」
翡翠は緊張しながらこくりと頷いた。
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