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第28話 都筑-1-

――お前のせい 楽しげに自分を嬲り続ける光にそう言われて翡翠は……暗く、深い穴に思い切り突き落とされたような心持ちがした。そうだ、自分のせいだ。自分のせいで皆変わってしまう。変わって……おかしくなってしまう。顔を覆って泣き出したかったができなかった。両手は光が嵌めた手錠で後ろに繋がれてしまっている── これは罰だ、と翡翠は思った。光のやり方が酷くなるのは――翡翠のせいだから。だから自分は――犯罪者を拘束するための手錠で――自由を奪われて当然なのかもしれない。 そうだ、自分が悪いんだ―― 翌日、翡翠は光が出かけた隙に急いで荷物をまとめた。自分が買った物だけを選んで鞄につめる。そうすると着るものなどほんのわずかしかないが、光に申し訳なかったので、彼が支払ってくれた物は持っていかないつもりだった。 鞄を提げて部屋を出、マンションの廊下をエレベーターに向かって歩き出すと、間の悪いことに光が戻ってきてしまった。慌てて向きを変え、反対方向にある階段を目指す。と、翡翠に気付いた光が追って来た。 「なんだよ?翡翠お前なにやってんだ?その荷物……どこ行くんだよ?」 追いついてきた光は、階段を下りる翡翠に驚いて尋ねる。翡翠は硬い表情で答えた。 「どこかはわかんないけど、とにかく出てく。今まで置いてくれてありがとう……」 「出て行くって!?なんでだよ!?」 光が声を荒げた。 「どういうことだ!?俺が嫌いになったのか!?」 「違う……好きだけど……俺が側にいたら、光どんどんおかしくなっちゃうもの」 「おかしく!?何言ってんだ。おかしいのはお前だよ!行くとこもないくせに」 「もういいんだ……ありがとう」 階段を下りきった所で自分を止めようとする光を片手で押しのけ、翡翠はマンションの敷地から出た。足を速めて裏手の道を駅に向かって歩き出す。 「待てよ!おい、待て!勝手なことすんな!」 追いついてきた光は翡翠の前に立ちはだかり、凄むような声を出した。怖気づきそうになったが、翡翠はなんとか気を奮い立たせて光の顔を見返し、言った。 「ごめん、光……俺、光のとこ来なきゃ良かった。そしたら光だってそんな風にならないで済んだんだ。俺が悪いんだよ」 「そんな風って……!?どんな風だってんだ!言ってみろ!」 「……前は、光、すごく優しかった。そんな風に怒ったり、脅かしたりしなかっ……」 その時、光が翡翠の頬をいきなり平手で打った。翡翠はショックで目を見張った。 「ひか……なに……」 光は怒りに満ちた目で翡翠を睨みつけている。やめてよ。怖い。そんな風に見ないで。身体が竦んで動けなくなる―― 恐怖で抵抗出来なくなった翡翠の腕を掴み、光はマンションに向かって来た道を戻り始めた。 「今更俺から逃げようなんて……冗談じゃねえよ……」 歩きながらぶつぶつと呟いている。 逃げないと。腕を振り解かなきゃ。そう思うのだが身体が言うことをきかない――井衛に長年、支配しようとしてくる相手には逆らわないよう、厳しいやり方で身体に教え込まれたため、翡翠はいまだにその呪縛から逃れられないでいた――光は竦みあがってしまった翡翠を脇に抱えこみ、引きずるようにして歩きながら言う。 「これからは……自由に出られないようにしておくからな。そうだ、アレがいい。首輪と鎖買ってあるから、裸に剥いてアレで繋いでやる……」 首輪!?本気なのだろうか。本気で光は翡翠を犬のように繋いでしまうつもりなのだろうか。 「……やめ……光、放し……」 叫びたいが喉が干上がってしまい、囁くような声しか出てこない。 するとその時、誰かが二人の前に立ち、行く手を遮った。 「ちょっと聞き捨てならねえな、今の。只のケンカかと思って見物してたけど、兄ちゃん繋ぐとかなんとか……随分物騒なこと言ってたじゃねえか。監禁でもする気か?」 脱いだスーツの上着を右肩に引っ掛けた背の高い男だった。顎に無精ヒゲが残っている。その隣に彼の連れらしい痩せた若い男がおり、困った顔をして、男のワイシャツの腰のあたりを引いていた。 「あんたにゃ関係ないだろ!」 光が怒鳴った。 「まあ関係ねえっちゃねえけどさ……犯罪をみすみす見逃すのも俺の主義じゃないからよ」 それを聞いた痩せた若者が隣でブツクサ言う。 「なにカッコつけてんスか。都筑(つづき)さんは単に揉め事が好きなだけでしょ……」 「犯罪だって!?人聞き悪い事言うな!」 光は翡翠を抱えたまま言い返す。男が訊いた。 「じゃあなんだっつぅの。そんなひ弱そうなのひっぱたいたりしてさあ。あ、あれ?もしかして痴話ゲンカ?あんたホモ?ひょっとしてその子恋人だとか?」 「違う!俺はホモじゃない!こいつは……恋人なんかじゃねえよ!」 光が吐き捨てるように言うのを聞き、翡翠は一瞬目の前が暗くなった。恋人なんかじゃない……家族や友達から隠すだけじゃなく、こんな時にまでそんな風に言われるなんて。やっぱり……光にとって翡翠は、恋人と呼べる価値のある相手などではなかったのだ…… 光を無視し、都筑と呼ばれた男は翡翠に向かって訊ねた。 「おい、ちっこいの。大丈夫かお前?なんなら助けるぜ?」 翡翠は都筑を見返した。それから、 「助けて……ください」 と絞り出すように答えた。 都筑はそれを聞くと担いでいた上着を手放し、素早い動きであっという間に光の顔と横腹を殴りつけた。その拍子に身体を急に放され、翡翠はよろよろと傍らの路面に倒れ込んだ。さっきの痩せた若者が翡翠を抱え、もみあう二人から遠ざけてくれる。 「大丈夫?」 「大丈夫、です」 翡翠はやっと答え、路上でケンカしている二人を眺めた――なんだかテレビの映像を見ているようで現実感が無い。 「あーあ……都筑さん、さっきパチンコで盛大にスってさ……ちょうど機嫌悪かったんだよ……いい八つ当たりの対象を見つけたってとこかなあ……」 若者がブツブツ言う。都筑という男は相当ケンカ慣れしているようで、光は数発殴られただけで足元が定まらなくなり、地面に座り込んでしまった。若者がその折を見て声を掛けた。 「ホラ都筑さん!そんくらいにして!それ以上やったら警察沙汰になっちまう!」 「おおっしゃ!これに懲りたら……ええとなんだったっけ。なんでケンカしたんだ?俺」 「この子助けたんでしょ……あきれたね。まったく……」 「ああそうだ。これに懲りたらその子にゃ手ぇ出すんじゃねえぞ!……と、こんな感じ?」 「はいはい、そんな感じで結構です。じゃ、行きましょ。俺この後バイトあるんですよ、遅刻しちゃう」 都筑たちは地面にへばっている光と、まだしゃがみこんでいた翡翠を後に残し、駅の方へ向かって去って行く。それを見て翡翠は慌てて立ち上がり鞄を掴むと、光のことは振り返らず、二人の後について歩き始めた。 前を行く都筑はまだ少し興奮しているらしく、ボクシングの真似事のような仕草でそこらの空気を殴りつけながら、何事かケンカの講釈でも垂れているらしい。痩せた若者の方はフンフンと頷き、適当に聞き流しているようだった。やがて駅前に出ると若者は都筑に向かって片手を上げ、居酒屋の看板が出ている雑居ビルの中に入って行った。 都筑はそのまま道を歩き続けている。翡翠は駅の前で立ち止まって改札へ上がる階段を暫し見やったが、そちらには行かず都筑の後を追った。

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