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第33話 再会 -1-
その後水谷は、麻衣とは結婚しなかった。
水谷が翡翠を求めて東京駅まで走ったあの夜から数週間後――麻衣は結局、水谷の子を流産してしまったのだった――だがそうならなくても……堕ろしていただろう、と彼女は硬い表情で水谷に告白した。
麻衣は仕事をあきらめきれなかったのだ……水谷と結婚し、子育てしながら家庭と仕事を両立させる、そんな事を想像した……だが考えれば考えるほど、それは――無理だと感じるようになった。きっとどちらも中途半端になり、自分に対して不満を募らせる結果になるだろう……それに今、麻衣がこれまで辛抱強く実績を積み上げ、ようやく中心的役割をまかされて動き出した大きなプロジェクトがあって――産休を取ることを社に報告すれば、その仕事からはきっと外される――
子供が欲しくないわけではない。でも――今はやはり、産めない。産みたくない。そう自覚した途端……流産してしまったのだそうだ――水谷は、それでも結婚しよう、と言ったのだが、麻衣はその申し出を断った。
医者には元々弱い細胞だったのだと説明されたが、麻衣には――母の自分に本当には望まれていないと知った子が――自ら命を絶ったように思えてしまうのだと言う……自分が許せなかったのに、心の奥底では自分の意思で中絶を選ぶことによって、自ら手を下さず済んだのにほっとしてもいる。身勝手なのは分かっているが、どうにもならなかった。冷たい女でしょう――麻衣はそう言い、これからは仕事だけに打ち込んで結婚はしないつもりだ、子供も産まない、と……水谷に話した。
おそらく男の自分には――彼女の気持ちを本当には理解できないのだろう……水谷はそう感じ――麻衣のその決意を変えさせることは……結局できなかった。
そうして二人は会わなくなった。
10年以上の関係はそれで終わった――
水谷は麻衣と別れてから、飲みにも遊びにも出ず、ただ仕事だけしていた。麻衣ほど仕事に生活全てを捧げようと決意している訳ではないが、他の事をしようという意欲も湧かない。心配性の友人が女性を紹介してくれようとした事も何度かあったが、誰とも付き合う気になれなかった水谷は、それを断った。
会社は相変わらず不景気で、最近では今まで作っていなかったジャンルのものにも手を出し始めた。うけそうなものはなんでもとりあえず制作する。しかも低予算で。ポリシーもなにもあったものではないが、生き残るためには仕方がなかった。
水谷は勤めるうちそれなりに昇進していたが、ある時アダルト部門の作品のプロデュースを割り振られた。昨今時々話題になる、男性同性愛を扱った物だという。経験が無いジャンルだからと断りたかったが、元々ぎりぎりの人員でやっている弱小だ。人手は慢性的に足りないし、他に経験がある誰かがいる訳でもなくて――水谷は仕方なく引き受けた。プロデューサーと言えば聞こえはいいが、この会社では単なる中間管理職で、調整係だ。予算とスケジュール内で役割を果たしてくれる人間をなんとかかき集めなければならない。
そんな状況で、水谷は監督と脚本を兼ねる男との初打ち合わせに出向いた。
その彼が指定してきた店は、都内の古い雑居ビルにあるうら寂れた風情の喫茶店だった。クラシック音楽が低く流れるガラガラのその店で、監督は水谷に向かって声をひそめ
「あのね、ここにね、働いてる若い子がね、今回のメインキャラに雰囲気ぴったりなんですよ」
と言う。
それでこんな場末の店を指定したのか、水谷は思いながら頷いた。
「だからその子見て貰えば、一緒に役者探すのにイメージ掴みやすくていいかなと思って。えーと、この時間は働いてるはずなんですが……なんか誰もいないですねえ?彼、いつもホールやってるんだけどな……?」
二人で暫くきょろきょろしていると、やがて監督が小さく声を上げた。
「あ!いたいた、あの子です」
見ると細身のウエイターが一人、こちらに向かってやってくる――その顔を見た瞬間、水谷は心臓が止まりそうになった。なんてことだ。あれは翡翠だ。
翡翠は流れるような動作でテーブルに近付くと、手にした水のグラスを二人の前に置きながら微笑んで言った。
「いらっしゃいませ――お久しぶりです、水谷さん」
「え?」
監督がぽかんと翡翠の顔を見上げ、次いで水谷を見て尋ねた。
「ええー?お二人、お知り合い?」
「いや。え。あ。まあ、ちょっと」
しどろもどろに水谷は言い、グラスを掴んで水を一口飲みこんだ。
「こ……ここに、いつから?」
動揺を必死に押し隠して尋ねたが、声が裏返る。
「先月です」
翡翠が答えた――変わってない。いや、少し顔が大人びたか。
水谷がむやみにグラスの水を煽っていると、急に監督が軽い調子で翡翠に訊いた。
「あ、そー。あのさあ、君、俳優業とか、興味ない?俺ら今、役者探してんだけど、君、イメージピッタリなんだよね……」
「げほっ!」
水谷はむせ、慌てて監督を止めた。
「な!なに言ってんの!駄目だよ!」
それを見て監督が笑う。
「あはは、そりゃそうですよね。知り合いの方じゃね。いや言ってみただけ。なにしろアダルト向けだからさ、冗談冗談。やだなあ水谷さん、そんな慌てないでくださいよ」
翡翠が渡してくれたお絞りで水谷は口と襟元を拭った。
「じょ、冗談も大概にしてくれ」
「いいですよ」
焦る水谷を尻目に、翡翠がこともなげに答えた。
「役者探してんでしょ?俺でよけりゃ、出ますよ?」
「はあ?」
水谷と監督が同時に叫ぶ。
「だって、エッチなシーンもある奴だよ?いいの?」
監督はなんだか声を弾ませている。
「いいです。そういうの、出たことあるから」
「え、そうなの?じゃ~話が早いや……」
「待て待て!待てって!」
水谷は慌てて遮った。
「翡翠もなに安請け合いしてんだよ!内容知らないくせに!エッチなって言ったってな、男同士の……」
「そうですか。いいですよ。前に出たのもそういうのだったし」
あっさりとそう言う翡翠に水谷は絶句した。また水を飲もうとしたが、小さなグラスはすでに空だった。まったく、なんていう再会だろう――
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