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第35話 翡翠

その翌日、仕事を終えてから水谷は、翡翠の働く喫茶店へと向かった。 行く前は翡翠の顔が早く見たくて浮き足立つぐらいだったのだが――薄暗い店内の席に座った途端、なぜかひどく心細くなってしまった。 この間と同じように、翡翠が水を入れたグラスを載せたトレイを片手にこちらへやってくる。彼が着ているのは制服なのか、前見たのと同じただの白いワイシャツに黒のパンツだったのだが、その簡素さがかえって翡翠の美しさを際立たせていた。 見た目だけじゃなく――歩き方も綺麗なんだな、と水谷は思った。背筋がすっと伸びて姿勢がいい。それはきっと、厳しく躾けられたから――そう考えてから水谷は、あの家で老人が躾、と呼んでいた行為を思い出して背筋が冷えた。あの子の美しさは……あのむごい生活が作り上げたものなのだ――水谷は頭を振ってその記憶を追い出した。 「いらっしゃいませ――今日は、お一人ですか?」 「うん――あの……何時に終わる?良かったらだけど、一緒に食事でもしない?」 恐る恐る尋ねた水谷に、いいですよ、と翡翠は微笑んで頷いた――ひとまずほっとする。 あと1時間ほどであがれると言うので、水谷は何か飲んで待つことにした。メニューを見ていると、ふいに翡翠が軽く腰をかがめて耳元に顔を近づけたので、思わずドキリとして頬が熱くなった。 「あの、ここのね、コーヒー、高い割に美味しくないですから。できれば紅茶の方がいいですよ、ティーバッグだけど……この間は言う機会逃しちゃって」 柔らかい息が水谷の耳元をくすぐる。 「このお店ね、なんか特殊な商売の人達が打ち合わせに使うための場所なんですって……だからわざとあんまり良くないコーヒー出して、普通のお客さんがゆっくりしないようにしてるらしいんです」 「そ、そうなの?なんか……変わった店なんだな。この間はコーヒー頼んじゃったけど飲むどころじゃなくて気づかなかったよ……じゃ、紅茶もらうわ」 いたずらっぽく囁いた翡翠が可愛いと感じ――赤くなりながら水谷はメニューを返した。彼は微笑んでそれを受け取る。 紅茶を運んできた翡翠は片手にスポーツ新聞と週刊誌を持っていた。テーブルの上にそれらを置くと、じゃああとで、と言ってカウンターの向こうに戻って行った。水谷は新聞を広げながら、相変わらず気が利くんだな、と考えた。 仕事を終えて裏口から出てきた翡翠は、そこらにいる若者と変わらないカジュアルな格好をしている。その翡翠と並んで歩きながら水谷は、ひどく不思議な気分を味わった。 もう二度と会えないと思ったのに、こんな風に東京の街中を、翡翠と一緒に歩いている。あの浜辺で翡翠と出会った時――こうなるなんて思いもしなかった。 「ええと……食事、どこ行こうか……」 「んー……どこでもいいです、奢ってもらえるなら」 そんな遠慮の無い言葉が翡翠の口から出てきたのが意外で、水谷はやや驚いた。 「そ、そうか……誘ったの俺だしもちろん奢るけど……君がそんなこと言うなんてちょっと……意外だな」 「図々しくなきゃ生きていけないって、こっち来て学びましたからね」 翡翠がなんでもない風に笑ってそう言うのを聞いて、きっと苦労したのだと感じ、水谷は胸が痛んだ。 暫し考え、以前麻衣と行った事があるイタリアンレストランが近くにあるのを思い出したので、そこへ翡翠を連れて行った。静かだし、バーもあるので話をするのには丁度いい――麻衣と付き合っていた頃、店を探してくるのはいつも彼女の方だった。水谷は正直言って料理の味の良し悪しはさほどわからないのだが、麻衣がここは美味しいと言っていたから翡翠にも多分大丈夫だろう。 料理が来ると翡翠は話すのも忘れたように、夢中になってあっという間にたいらげた。それを見て水谷はほっとした。翡翠が気に入ってくれるかどうか心配で……内心かなり緊張していたようだ。そのせいか自分は食欲が失せてあまり食べられない。まだ大分残っている皿を指し示して水谷は言った。 「随分腹減ってたみたいだな……よかったら、俺のも食うか?」 「え、いいの?じゃあ……いただきます」 翡翠が照れ臭そうに笑って言う。差し出した皿から、自分の食べかけの料理を、それを気にする様子もなく彼が口に運ぶのを見て、水谷は何故か少し嬉しかった。 結局残っていた水谷の分も全部食べてしまい、翡翠は満足げにため息をついた。 「ああ美味かった……すいません、がっついて。ここんとこまともに食べてなかったから」 「そうなの?どうしてまた……なんか忙しかったのか?」 「いやべつに忙しくは。ただ……なんとなく」 「腹減ってんのになんとなく食わないって……なんなんだよ……よくわかんないな」 そうだ、翡翠の言うことは前もよくわからなかった。そしてそうなってしまうのは……裏に事情があったからだ。 「……お母さん亡くなって……こっちへ出てきたんだよね?」 「そうです」 ナプキンで口を拭い、グラスの水を飲みながら翡翠が答える。 「なんだかね、馬鹿馬鹿しい話なの。母さん、俺が水谷さんと会った日よりも、もうずっと前に死んでたそうです。自殺だったんだって」 「え!?」 「でもそれ俺に言ったら、逃げちゃうでしょ?だから教えてくれなかった。お墓の場所もわかんないんです」 「そんな……」 聞いて水谷は悲しくなった。じゃああの時、翡翠が母のためにと逃げずにあそこへ戻ったのは……全く意味がなかったと言うことか。 「でもいいんです。もう……どうでもいいんだ。ぜんぶ――済んだ事だから」 翡翠はグラスを見つめながらひとり言のように呟いた――それから、急に水谷に向き直ると 「この間の役者の仕事の話、どうなりました?」 と訊ねた。 「俺、やりたいんですけど。使ってもらえますか?」 「それ……それ止めさせようと思って来たんだよ!」 水谷は叫んだ。すると翡翠はがっかりしたように俯いてしまった。 「そっか……やっぱ俺じゃダメでしたか……」 「いや違う。監督は君の事気に入ってる。でも俺が――」 水谷が言うと翡翠は悲しげな声を出した。 「水谷さんが?水谷さんが俺じゃ気に入らないんですか……?」 「違うって!気に入るとか入らないとかそういうんじゃなくて……もう君に、身体売るみたいな真似はして欲しくないからだよ!」 翡翠はきょとんと水谷の顔を見る。 「でも……お金にできるものって言ったら……俺身体しかないんですけど……」 そうか、水谷ははっとした。出生届も出されていない翡翠の境遇では……まともな仕事には就けるはずが無い。 「でも水谷さん、なんで俺が身体売ってたの知ってるんですか?」 翡翠は不思議そうだ。水谷は少し迷ったが、正直に答えた。 「こないだ君があの手のやつに前も出た事があるって言ったろ――だからつい、調べたんだ……」 「ああ、あの。なんだ、わざわざ調べなくても俺に訊いてくれればいいのに。そうだ、スタッフに頼めば見本もらえますけど、いりますか?それ見たら俺が水谷さんの会社の仕事で使えるかどうか分かりますよね?」 翡翠は屈託なく言う。水谷はなんとも言いようの無い気持ちになった。 「いや――ちゃんと自分で買ったから――けど翡翠……辛かったろ……」 「辛かないですよ?自分の身体がお金になるってわかって嬉しかったんだもの。最初に街うろついてたら、俺のこと買ってくれた人がいたんです。言行さんがお金くれたからこっちに出てこれたんですけど、電車代とかですぐなくなっちゃったし、他になんにも持ってなかったから」 「ち、ちょっと待って!?アダルトに出ただけじゃなく――ば、売春してたの!?」 「ばい……?」 「売春!お金もらって誰かと寝てたのかってこと!」 「ああ……あれが売春ていうんですか」 「なに感心してんの!だめだよそんなの!」 「だめ?どうしてですか?」 「どうしてって……その……」 考えてみれば……頼る人が誰もいない東京で、所持金もなく放り出されてしまったら……。翡翠にしてみればそうするしかなかったのだ……俺がさせたんだ、と水谷は感じた。 「けど一番てっとりばやくお金になるのって、売春なんだけどな」 翡翠は呟いている。 「今のバイトじゃ給料そんなに貰うわけにいかなくて。でもお金もっと欲しいから」 「もっと――?」 水谷は無意識に翡翠の服装を見た。そこらの量販店で売っているような代物で、高そうにも見えない。贅沢をしているようには思えないが――考え込んだ水谷に翡翠が尋ねる。 「水谷さんの作る物に……出させてもらえませんか?頑張りますから使ってください」 「がんば……だめ!アダルトはだめ!」 「だめなの……?水谷さん、やっぱ俺じゃ気に入らないんだ……」 翡翠がまた、がっかりした顔になる――これじゃ堂々めぐりだ。 「違うって!だから言ったろ、身体を売るのはもう止めて欲しいんだよ!」 「だって……他にできることないし……」 翡翠は水谷の顔を不満げに見た。 「お金必要なんです。今一緒に住んでる人に、もっとあげたいから」 水谷は翡翠がそう言ったのを聞いてショックを受けた。恋人に金を貢いでるって事か?そんなことって……。事情を尋ねる水谷に翡翠は、相手は都筑という男で、彼のために少しでも多くの金を作りたいと思っている、と語った。 水谷は翡翠に、そんな金目当てのような人間はどうかと思う、と意見してみたのだが、翡翠は、頼まれてるわけではなくて、お金を渡すことで自分が彼を大事に思ってるという気持ちを伝えているつもりなのだ、と説明した。それが一番具体的で分かりやすいし、喜んでもらえるから、と。何も言えなくなって水谷は、翡翠を伴って店を出た。 「母さん死んで……俺もう、生きてる理由がなくなっちゃって……あの家の前の海に入って死のうかな、そう思ったんです。でもその前に、東京来てみたかったから。それで都筑さんに会って……あの人、俺がこんなでも気にしないし……お金も喜んで受け取ってくれる。そうやって、ちょっとでも都筑さんの役に立ってる間は、俺も生きてる意味があるかなあって思ったんです。だからもしあの人と別れちゃったらもう次は……あそこに帰って、死ぬしかないかなって……」 駅に向かう道で、翡翠はぽつぽつとそう話した。 「ごめん。俺のせいで――」 水谷は、たまらなくなって呟いた。 「え?」 翡翠がぽかんと水谷の顔を見る。 「なにが水谷さんのせいなんですか?」 「俺が……翡翠から逃げたから。俺が……君が電話くれた時……あの時にちゃんと迎えに行かなかったから……俺が――」 もう遅い。 今更翡翠が好きだと気付いても――自分はもう、遅かった―― ふいに翡翠が言った。 「水谷さんは来てくれたじゃないですか。俺のこと覚えててくれたってわかったから、それだけで良かったんです」 「え?」 水谷は翡翠の顔を見た。俺が東京駅に行ったことを――どうして彼は知ってるんだ? 「だからもう――充分なんです。ありがとう。今日はご馳走様でした」 駅前に着くと、翡翠はぺこりと頭を下げ、改札へ向かう階段を上がって行った。後に残されて水谷は、そこにぼんやりと立ち尽くした――やはり翡翠の言うことは――よくわからない――

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