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第41話 告白 -翡翠-

翡翠はハンバーガーを食べ終わると、またブラブラ外に出た。歩きながら考える。こういうとき、時間潰せるとこ見つけといたほうがいいな……これからも、こんな事きっとしょっちゅうあるんだろう、都筑さんと一緒にいる限り。だから慣れなきゃ……。 知らず知らずため息が出る。都筑さんは俺を2回も助けてくれた。あんなだけどさ、いいとこもあるんだ。でも最近少し……少しだけだけど……辛くなってきた。でも都筑さんは最初から意地悪だったから、あの人がああなのは俺のせいじゃない。だから気が楽なんだ。 光の時は……光は優しかったけど、俺は光にとって、いったいなんだったのかわかんなかった。それに俺といるうち……だんだん意地悪になっちゃった。付き合ってるうち変わっちゃうのは、俺のせい。それがわかったから、彼とはいられなかった…… またため息をつきながらあてもなく歩いていると、やがて駅前に出た。バスロータリーの周囲がちょっとした公園のようになっているそこに、ベンチがあったので腰掛けた。 改札に続く階段から大勢の人がひっきりなしに吐き出され、吸い込まれていく。帰宅ラッシュらしい。周りには待ち合わせらしい人々がそこここに立っている。みんなちゃんと……行くとこや会う人がいるんだな、と翡翠は羨ましく思いながらそれを眺めた。みんな、自分が行く場所を目指して急いでる。だから誰も……翡翠のことなんか見ない。 空がだんだん――暗くなってくる。夕方のこの時間は嫌いだ。自分が闇に吸い込まれるみたいで……心細くなってくるから。あの日、東京駅で、水谷さんを待ってたときの寂しい気持ちを思い出すから―― 胸が詰まってきてしまい、急いでポケットから名刺を取り出した。包みを開き、いつものように、水谷のつもりで心の中で話しかける――水谷さん、一緒にいて。 名刺を見つめながら繰り返し自分に言い聞かせた。これがあるから大丈夫。平気だ、寂しくなんかない。水谷さんが、一緒にいてくれるから。 ――でも…… ――でも……水谷さんは……東京のどこかで自分の生活をしている。ほんとは、本物の水谷さんは……翡翠の側になんかいなくて、これは只の――小さい紙切れにすぎなくて―― だめだ、それ以上考えちゃいけない、そう思ったが遅かった。 ――どうしよう。水谷さん助けて。俺もう……大丈夫じゃないかもしれない。駄目かもしれない。ほんとはもうずっと……平気なんかじゃ―― とうとう耐えきれなくなり、声を上げて泣き出しそうになったとき――ふいに横から手が伸びてきて、翡翠の大事な名刺を奪い取った。 心底驚いてそちらを見ると、そこに息を切らしながら立っていたのは水谷だった。 「水谷さん!?なんで――どうしたんですか?あの、それ!返してください」 「こんなもんもう捨てろ!こんな古ぼけた名刺なんか!」 「なん……なんで捨てなきゃならないんですか!?いやです!」 翡翠はベンチから立ち上がり、名刺を取り返そうと手を伸ばした。 「返して……それ返してください!酷いよ!」 思わず涙声になる。どうして?水谷さん。前こんな風にそれを光に取り上げられた事があった。でもまさか、水谷さんまでそんな意地悪な事するなんて―― 「大事にするならこっち大事にしろ!」 水谷はスーツの内ポケットに手を突っ込むと、名刺入れを掴んで取り出した。ケースごと翡翠の前に突き出す。 「もうヒラの時とじゃ肩書きだって変わってんだから!今やプロデューサーだぞ、俺ぁ!ホラ!全部やるから!」 「そん……そんなのいらないよ!そっちのが大事なんだから!」 翡翠がそう叫ぶと、水谷はひどく悲しそうな顔をした。 「……大事にするならこっちにしろ。こっちにしてくれ。俺は……過去じゃない。過去の思い出なんかじゃないんだぞ」 水谷は訴えるように繰り返した。 「俺をただの……過去にしないでくれ。俺は今、ここにいるんだ、翡翠」 それを聞き、翡翠は名刺を取り返そうと伸ばしていた手を下ろし、黙り込んだ。水谷も黙る――そのまま二人は並んでベンチに腰掛けた。 水谷は名刺入れをしまい、古びた名刺を翡翠に返した。翡翠はそれを受け取るとしばらく見つめ、ポケットに納めた。その様子を見ながら水谷が言う。 「翡翠、都筑と別れろ。あんなひどいやつとは。そしたら、俺を頼りにしてくれていいから。お前のことは俺がちゃんと責任持って面倒を見る。だから翡翠、俺と……付き合ってくれ」 水谷さんと?翡翠は驚いた。もしそうできたらどんなに――。嬉しさが込み上げて来る。だがすぐに、駄目だ、と思い直した。水谷さんは――俺なんかと一緒にいちゃいけない人なのだから。 「都筑さんとは別れないです、俺」 翡翠は足元の地面に視線を落として答えた。水谷が信じられないと言う調子で叫ぶ。 「なんでだ!?なんで別れないんだよ!稼ぎは……お前にたかってるくらいだからピィピィしてるんだろ!?だったら俺のが絶対マシだし、あの性格は最低だから……ツラか!?俺よりあいつの方がいけてるからなのか!?」 「いや、顔自体は水谷さんの方が整ってると……思いますけど……」 「じゃあなんなんだよ!?一体あんな奴のどこが……」 水谷は顔をひきつらせて考え込んだが、すぐに勢い込んで言った。 「あ!あれか!身体がいいってのか!ちくしょう、俺だって負けてねえぞ!アル中気味のあんな野郎より俺のほうがよっぽど絶倫のはずだッ!」 よほど必死なのか、そんなことまで喚き出した水谷に面食らってしまい、翡翠は目を白黒させた。 「水谷さんてばちょっと、何言って……!?やだなもう……」 「やだだと!?あ、そっちか?ひょっとしてテクのこと言ってんのか!?だったら心配すんな!俺もな、最近はアダルト物の現場に立ち会ってな、勉強してんだ。悦ばせる方法だって色々見て知ってんだから自信あるぞ!昔とは違う!」 翡翠はため息をついた。 「違いますってば……そんな理由じゃないですよ……俺、都筑さん相手だと、楽なんです。だから別れたくないんです」 水谷がますますいきり立つ。 「楽ってなんだよ!部屋追い出されてこんなとこフラフラして……それのどこが楽なんだ!やせ我慢も大概にしろ!それにあいつは何人も相手がいるんだろ?尻軽の浮気モンだぞ!?俺はな、翡翠一筋だ!身体を許してくれる男なら誰でもいいっていう都筑なんかとは違う!男が欲しいんじゃない、翡翠が欲しいんだ!だから俺を選んだほうが絶対得だから俺にしろ!」 「得って……買い物してるんじゃないんだから……訳わかんないなもう……」 「わかんないだと!?何がわかんないってんだよ!?こんだけ言ってるのに!」 「だって、そんな変なことばっかり言われたって……」 「別に変なことなんか言ってないだろ!お前が理解しようとしてないからじゃねえか!もっと頭使ってちゃんと考えろよ!」 「あ、俺が馬鹿っていうことですか?どうせそうです、学校も行ってないですもんね、俺――」 翡翠がわざと傷ついた風にしてみせると、水谷は慌てた様子になった。 「いやそうじゃない!そういう意味じゃないって!お前を馬鹿になんかしてない、ええと……」 しどろもどろになっている。その水谷を可愛く思いながら、翡翠は謝った。 「ごめんなさい……本気で言ったんじゃないです。わかってます、水谷さんの言いたい事。嬉しいです」 「え。じゃあ……」 期待した風な水谷を、翡翠は首を横に振って遮った。 「でも駄目です。俺なんかと一緒にいたらだめ。水谷さん、きっと変わっちゃうから……」 「変わる?」 翡翠は頷いた。 「俺といると……みんなおかしくなっちゃうんです。どんどん意地悪になって――でもそれはいいんです。そんなの我慢できる、他の人なら。でももし――もし水谷さんがそうなっちゃったら……それだけはきっと――耐えられない」 翡翠は静かに続けた。 「水谷さん、初めて俺抱いてくれた時の事覚えてますか?俺にはあれが……生きてる中で一番大事な思い出なんです。あれを壊したくない。だから……あの時もらった名刺が大切なんです、何よりも……」 水谷は目を見開き、翡翠をじっと見つめている。 「東京駅で――水谷さん、俺を探してくれたでしょ?俺あの時……隠れて見てたんです」 「やっぱり……そうだったか」 水谷が呟いた。 「来てくれて俺がどんなに嬉しかったか――どんなに感謝したか。あれで俺、東京で生きていける、って思った。だから充分なんです。ほんとはすぐ出て行きたかった。出て行って水谷さんに会いたかった。でも駄目だって思ったんです。迷惑だし、それに、俺といると、俺のせいでおかしくなる。それがよくわかったから……やっぱり水谷さんに頼らなくて良かった、そう思ってます……」 「違うよ。翡翠のせいじゃない。みんなが間違ってるんだ」 突然、水谷が、そうきっぱりと言い切った。 「え?」 翡翠のせいじゃない?みんなが……間違ってる?翡翠は水谷の顔を見た。そんなはずない。だって……浜を出る時言行さんにも言われたんだ。俺は……関わる相手を取り込んでおかしくしてしまう、そうなるように井衛(あのひと)に作られた、って……言われた時にはなんのことか理解できなかったけど、もう充分思い知ったから…… 水谷はさらに、力を込めて言う。 「俺はそれをわかってる。だから大丈夫なんだ、俺は変わらない。翡翠、俺は他のやつらとは違う。信じてくれ。俺は絶対変わらない。翡翠、俺だけなんだよ。俺だけが、お前を助けてやれるんだ」 「そんな……そんなの駄目です」 翡翠はうろたえて首を横に振った。水谷さん、なんか今までと違う。なんでこんなに……自信がある話し方するんだろう。そんな風に言われたら――縋ってしまう。水谷さんに。それだけは――しちゃいけないと思ってるのに。 「駄目じゃない!俺はな、全部わかってんだ!お前が知らないお前のことも、それから俺自身のことも!だから絶対大丈夫だ!信用しろ!都筑なんか駄目だ!あんなやつ、何もわかっちゃいないんだから!」 「駄目じゃないです!都筑さんはあれでいいんです。あの人は、もう色々捨てちゃってるから……今更俺みたいなのがくっついてたってどうってことないんです。でも水谷さんは違うでしょ!?ちゃんと……普通の生活してるでしょう?」 どうしよう。なんとかしなきゃ。翡翠は必死に考えた。このままじゃ――踏ん張りきれない。水谷さんに甘えてしまう――迷惑をかけてしまう。何か水谷さんが……躊躇するようなことを言わないと―― 「えと、ええと……だって、同性と付き合うのって、普通じゃないんでしょ?それで……差別されたら……どうすんですか?困るでしょ?」 「困らない」 「こま……困りますって!」 「俺が困らないって言ってんだから困らないんだよ!」 どうして?どうして水谷さん――駄目だよ。俺を放っといて。だってほんとは――俺―― そのとき――翡翠は思い出した。水谷さんと過ごした夜のあと――朝、車に乗せてもらって、彼が隣の市まで連れて行ってくれた……井衛に厳しく言われていたし、歩きではすごく遠かったから――自分には絶対越えられないと思いこんでいた村境。でも水谷さんの車は、それをあっさり越えてしまって―― 水谷さん。水谷さんなら、もしかして―― でも駄目だ。絶対駄目。あの時助けてなんて言ってしまって……優しい彼を巻き込んだこと、すごく後悔したんだから。 「嘘だ!困るよ!絶対困る!だって俺と付き合ったって水谷さん人前でそんなこと言えますか!?言えないでしょう!?どうせ……隠さなきゃならないんでしょ?」 そうだ、期待しちゃ駄目だ。いくら水谷さんが変わらなくても、優しくても、きっと……光と付き合ってた時みたいに、隠されて……みじめな思いをするんだから。翡翠はもう、水谷をあきらめさせようとしているのか、自分自身をあきらめさせようとしているのか分からなくなってきていた。 「……街中で、あんな風に俺と肩組んで歩いたりなんかできないでしょ!?都筑さんは平気でやりますよ!」 翡翠はたまたま近くを通りかかった男女のカップルを指差して叫んだ。彼らは驚いてしまったらしく、あわてて足を速めて去って行く。祈るような気持ちだった。水谷さん、これであきらめて。お願いだから。 水谷はそれを聞くと、翡翠の顔をじっと見ながら呟いた。 「お前……この俺が人目なんか気にすると思ってんのか?だったら見てろ……」 「え?」 ぽかんとする翡翠の目の前で水谷は勢いよく立ち上がると、さらにベンチの上にあがって両掌を口の脇に添えて叫び出した。 「俺は今からこいつ口説くぞっ!好きだ!翡翠!俺と付き合えぇー!」 「ちょっ……!水谷さん!?頭おかしくなっちゃったの!?」 「やかましいッ!」 「やめなよ!みんな見てるってば!すいません、なんでもないです!酔っ払ってるんですこの人!」 翡翠は必死に水谷のスーツの裾を引いてベンチから下ろそうとした。 「酔ってなんかいねえっての!恥ずかしいんだったらあっち行って隠れてりゃいいだろ!俺はなあ、もう人目だろうがなんだろうが、なんにも怖くないんだよ!前みたいにお前と離れちまう事以外はな!」 言われて翡翠は目を見開いた。服を引っ張っていた手を止め、水谷の顔を下から見つめる。 喚くのをやめ、水谷が苦しげに呟く。 「あの時――すごく後悔した。なんであの家にお前を置きざりにして――逃げたりしたんだろうって。その後、お前が東京出てきた時もそうだ……すぐ迎えに行ってやるべきだったのに……長いこと放っておいたりして……一人ぼっちで、ずっと俺を待ってた間……お前が――どんなに心細い思いでいたか考えたら……可哀想でたまらなくて……ごめん翡翠。本当にごめんな」 「放って……そんな……あれは……俺が勝手に待ってただけだから」 翡翠は声を震わせた――水谷さんはわかってくれてたんだ。俺があそこで寂しかったこと。それを知っていたから、探しに来てくれたんだ。水谷さんは――全部わかってたんだ―― 「違う。勝手にじゃない。俺だって会いたかったんだから。翡翠が……翡翠が俺を待ってたんだから、すぐに行かなきゃいけなかったんだ。ごめんよ。あの時ちゃんとつかまえてれば……遅かったんだな、俺が遅すぎたんだ」 言いながら水谷はベンチから降り、翡翠の隣に力なく腰を下ろした。俯いて手で顔を覆う。 「こんなとこで叫んだりして……悪かった。でも翡翠……これだけは頼むから聞いてくれ……都筑とは別れろ。今すぐにとは言わない。けど、あんなやつとずっと一緒にいちゃ駄目だ。あいつといたって幸せになれない。別れたら死ぬなんて考えずに、他にもっとまともな、ちゃんと翡翠を大事にしてくれる相手を探せ。お前はほんとに優しい、良い人間なんだから、絶対に誰かすぐ見つかる。翡翠は……幸せにならなきゃ駄目なんだ。お袋さんの分も」 水谷は顔を覆ったまま、翡翠は幸せになんなきゃ駄目だ、ともう一度呟いた。 翡翠はじっと――水谷を見つめていた。母さんの分も――幸せに?こんな自分が……水谷さんの言うように、本当に――幸せになってもいいのだろうか――

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