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第4話 思い出
中学生のころ両親が離婚し、母親の連れ子となった真知には間もなく新しい父親ができた。弟と妹もできる。家庭はおおむね平和だったが、真知は結局、大人になった今でも「真知だけが他人」の家にはなじめなかった。
真知は真知なりに、認められたいとか、報われたいといった思いがあった。何も取柄といえるものはなかったので、とりあえず勉強をした。でも、弟や妹のようにサッカーやダンスができたほうがわかりやすくて華やかだったし、もてはやされた。注目されない。がんばっても報われる実感がない。次第に真知は無気力な若者となっていく。
情報系の大学を卒業した真知は、Web業界へ就職した。念願かなって希望の職につけたわけではなく、当時の真知にはやりたいことがなかった。勉強にも、遊びにも熱心になれなかった真知が就職活動で花開くわけもない。なんとなく面接を受け、内定をもらった会社を裏返してみると、Web業界といえど性風俗店情報サイトとかアダルト動画サイト運営を商売にしているところだった。
真知の職場は2畳ばかりの窓のないレンタルスペースとなり、そこで日々女性の裸体を見、局部に修正を入れ、クライアントから寄越される電話やメールに応じてサイトの更新などを行う保守業務が仕事となった。
「嘘の多い業界」というのが真知の印象だ。風俗店なら、実際に勤務するスタッフとは別に「写真用」のモデルがおり、そのモデルが店にいることはあまりない。それなのに、モデルの写真と実際のスタッフの源氏名を紐づけて掲載していることもある。苦情のひとつも来そうだったが、真知にクレーム処理の役目がくることはなかった。ただ指示を受け、サイトに反映し、公開する。給料に不満はなかったし、自由時間もほどほどにある。嘘の多い業界でも、時給いくらで買われるアルバイトとは違って工夫次第で待遇はよくなり、それが責任感とやる気につながった。無気力な学生時代を過ごしたものの、真知は本来物覚えがよく、勤勉だ。その性質を取り戻したこともあって、仕事は早く、真知の評価はかなりのスピードで上がっていった。そのうち新店舗の案件があれば真知のところへ話が来るようになり、真知は一人前のWeb技術者として成長していく。でも、自分が、自分の仕事のことを誰にもなんにも話せないことに気付く。両親はおろか、安達や高村にも、このことは話せなかった。誰にも、何一つ明かさなかった。
店にはいない、写真用モデルの顔を載せる。見られてはいけないところをモザイクで隠す。広告収入を得るため、あの手この手でリンクを踏ませるように仕掛ける。真知は、真知自身が、この仕事を続けるあいだ、「嘘が多い」と自分で称したこの業界に染まっていくのだろうと思った。
ぴよちゃんとは、24、5のときに高村から誘われた合コンで出会う。長い黒髪がきれいな、派手さのない女性らしい子だ。真知よりふたつ年下で、謙虚でおとなしく、いい意味で普通の価値観を持つ彼女と、いずれは結婚するのだろうと考えていた。一方で、やはり仕事のことが気がかりだ。今は隠せていても、結婚すれば? 子どもを授かったら? きっと隠していられなくなる。全てを明るみに出せばなにもかもなくなる気がするし、隠し続けるのも不誠実だ。不誠実どころか、自分は彼女を騙している。言い知れぬ圧迫感のようなものが真知の胸に居座るようになった。誰にも口外できない仕事など辞めるべきだ。誰にも内緒で転職先を探し、応募書類を準備する。指南書を書き写したような履歴書と、職務経歴書ができあがる。自分で読み返した自己PR文は嘘だらけだった。「簡潔」を盾に、もっともらしく専門用語を羅列した文章。中身のない志望動機。仮に書類選考を通過したとして、面接で何が話せる。アダルトサイト業界に身を置いて5年が経とうとしていた。どんなに親しい相手にも話したことのない仕事のことを、ほかの誰に話せるというのだろう。その応募書類は、自宅の机の引き出しの、いちばん下に仕舞った。誰にも見せられないと思ったが、捨てる勇気もなかった。
焦りとは裏腹に、仕事はどんどん忙しくなる。友達からの誘いはすべて断り、ぴよちゃんと会う時間も減っていった。忙殺されていたいのと、孤独に押しつぶされそうになる気持ちが半々くらいあった。そのころ真知は、新しくオープンするデリバリーヘルスのシステムを担当することになり、ピザのデリバリーサービスを下敷きにそのシステムを完成させた。運ばれる商品がピザか女性かの違いだけで、さして変わらないと思ったが、あまりの自分の倫理観のなさに全身が痛くなるほど落ち込んだ。ぴよちゃんに会いたい。性とか裸にまみれた異常な真知の日常にある、「普通」の目印が見たい。真知はかなり久しぶりにぴよちゃんと連絡をとり、その晩会うことになった。
ぴよちゃんは疲弊した真知に手料理を振る舞ってくれ、優しく抱きしめてくれた。テレビと電気を消す。ぴよちゃんの暮らすワンルームアパートの台所から漏れる灯りだけを頼りに首筋を触り、長い髪を梳く。あまい吐息をこめかみに感じながら、シャツのボタンを外した。かわいらしい下着も取り去ると、ぴよちゃんの肌があらわになる。それを見た瞬間、真知の胸になんにも言葉にできない気持ちがあふれ、たまらずその場で嘔吐した。吐瀉物にまみれたぴよちゃんと、真知の目が合う。時計の秒針が、チクッ、チクッ、と数回鳴る。ぴよちゃんは小さな声で告げた。
「ごめん。あたし、むりかも」
そのひと言が、ふたりの関係に終止符を打った。真知は振られたのに、今まで吐けなかったものを吐いたせいか、気持ちはむしろすがすがしかった。
「うん……ごめんね」
真知はそう言った。人としてせめて吐瀉物の片づけはしようとしたが、「だいじょうぶ」と断られた。荷物を持ってぴよちゃんのもとを去る。心のどこかで安堵していたが、築いてきた関係が壊れたという意味では、腹にぽっかり穴が開いたような気分だった。
真知は常々、自分の仕事を異常だと思っていた。人間が昔から夜闇の中でやりとりしていた、性とか裸に関するサービスを、機械でテコ入れしてシステム化する。より速く、より便利に。スマートフォンやパソコンでネットを見、タップひとつですぐ快感を買えるようにする。誰にも会わずに、誰の声も聞かずに、人間を買い、時間で縛る。享楽だけを追い求めるくせに、どこかでぬくもりを探している。それが、どうしようもなく気持ち悪かった。ぴよちゃんは、真知のテリトリの中にある「普通」の目印だ。ぴよちゃんが自分の意思で周りに置くものは、おおむね「普通」であろうと思った。だから真知は、ぴよちゃんから嫌われるときが来たら、真知が「普通」の概念からはずれ、「異常」になったサインだと思った。そして、そのときは来た。
しばらく眠れず、真知はなにをするでもなく数日徹夜した。眼鏡もかけず朝日を見、片づけも手につかないぐちゃぐちゃの部屋を眺める。出社した真知は、上司に「辞めたい」と告げた。上司は病んだ顔をした真知を見て、「お大事に」と言った。そして、5年ほど勤めた会社を辞めた。
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