7 / 12

第7話 借用書

 土井中とはその後打ち合わせを重ね、天文部のサイト構想を練っていった。コンテンツは気軽に読めるコラムと、論文や天文・宇宙に関するニュースなどを解説するページの2本柱に分け、まずは土井中が持ってきた資料の中から適切な話題を選択してネタを決めていく。真知は、土井中が不要と判断した走り書きなんかも、載せてみるよう提案した。土井中が勤め先の学校でどんな教師として働いているかは知らないが、人当たりのよさそうな見た目の割に、グサッとくる言葉を書くのが真知の印象に残ったからだ。2月から準備を始め、新学期まであと1週間ほどと迫った。その間にも真知のもとにはお客が来て、何件か契約に至ったものもある。真知は、それなりに忙しい日々を過ごしていた。 「……それじゃあ、あとのことはよろしく。マッチ棒、また明日ね」  [アイリスと占いのお部屋]は、基本的に15時で閉まる。大山は自分の占いスペースをきれいに片づけ、売上金をちゃんと持ったか確認して、事務所を出て行った。真知は、ホッと息をつく。大山は、油断のならない人物だ。彼女に隠しごとなどできそうにない。でも、今日のところは何も悟られずに済んだようだ。とりあえず、今日のところは……真知の頭は真っ黒いモヤモヤした不安でいっぱいだった。ブルブルと頭を振る。でも、ただめまいがしただけで、不安はもっと頭の奥深くに染み込んでいった。ビルの1階にある管理事務所に向かう。部屋を借りたころからお世話になっている管理人の男性に、「昼間のあいだ預かっていてほしい」と頼んだ荷物を受け取りに行った。男性は相変わらずワイシャツ・ネクタイの上にフリースを着込み、真知の顔を見るとすぐに挨拶した。 「こんにちは。預かってもらっていた荷物を取りに来ました。お忙しいのに無理を言ってすみません」 「いいんですよ。運ぶの、手伝いましょうか?」 「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」  人の優しさが、今は傷口に染みる薬みたいに痛い。荷物は、数個の段ボールだ。真知はそれを貸してもらった台車に載せ、事務所まで運び、また台車を返しに行った。わざとモタモタしているような気すらする。頭はぼーっとしているのに、心臓はいやにドキドキしていた。ちぐはぐな気持ち悪さがあり、落ち着かない。運んできた段ボールを開け、中を覗き込む。衣類と、数冊の本、ノートパソコン、タオルと食器が少し。それから、大事なものが入ったお菓子のカンカン、厚めの毛布。それらを今朝、住んでいたアパートから運び出し、管理人に預けた。真知は、簡単に言えばホームレスになった。  日曜の朝早く、真知はふと目覚める。携帯で時間を確認するとまだ5時だ。やりたい作業をしに事務所には行くつもりだったが、したくをするにはあまりにも早い。でも、二度寝はできそうにないほど目が冴えている。真知はカサカサと起き出して、寝間着のままそこらへんを掃除し始めた。ごみをきれいに分別し、ごみ袋に入れて玄関に並べる。あまり使わない台所のシンクも磨き、風呂場も掃除する。真知が学生のころから住んでいるこのアパートは、家具・家電が備え付けられており、部屋を見回しても「真知の持ちもの」といえるものはほぼない。ミニマリストというわけではなく、単に身の回りに置くものを選ぶのにあれこれ悩んで決められない、優柔不断なりの選択だが、真知はそのアパートが気に入っていた。  床もホコリ取りシートとフローリング用ウェットシートで仕上げ、ピカピカになる。掃除していない場所は、トイレだけとなった。真知は、重い腰を上げてトイレ掃除に取り掛かる。洗剤で便器を泡だらけにし、使い捨てのブラシでゴシゴシ擦って流し、便器もトイレ用の掃除シートを贅沢に何枚も使い、使ったそばから便器に放り込んだ。床も拭けるというので拭き、やっぱり便器に放り込んでいく。トイレはピカピカになった。多少の疲労感はあったものの、見違えるようにきれいになった部屋に真知は満足した。満足してウェットシートを流そうとレバーを引く。ちょっと量が多すぎたのか、流れて見えなくなったあとに変な音がし、白いかけらのようなものが水中に舞う。こういう経験は、何度かある。もう一度水を流せば、きれいに流れてくれるはずだ。真知はもう一度レバーを引いた。流れるどころか便器の水位はどんどん上がってゆき、「ヤバイ」と察してインターネットで業者を調べ、電話した。間もなく業者が到着して修理を開始したが、かなり重篤な状態だということがだんだんと分かってくる。まず、真知が先日から使っていたトイレ用の掃除シートは水に流せるタイプではなかった。一気に排水管に流れた異物はちょっとやそっとでは取り出せない位置まで来ているらしく、便器を取り外して取り除こうとしても取れず、しばらく経って排水管の交換が必要であることがわかる。排水管を交換するには、床をはがしてコンクリートを壊す作業が必要で、すぐにアパートの大家に電話した。正直、真知にはその間の記憶があまりない。  他の部屋の住民に影響がなかったのだけはよかったが、結局、修理代として真知の手にはかなり高額な請求書が渡され、貯金をすべて使っても50万円ほど足りなかった。クレジットカードは限度額が足りずに使えない。真知は生まれて初めて消費者金融で借金をし、代金を支払った。しかも、修理のためにあれこれやった部屋はしばらく住めない状態になり、退去することになる。高齢の大家は、せめてもの情けで今月の家賃は請求しないと話してくれ、なぜか真知に「ごめんね」と言った。「こちらこそ、ご迷惑おかけしてごめんなさい。お世話になりました」とちゃんと言えたことは、悪いことだらけだった一連の出来事の中で、唯一よかったことだと思うことにした。  真知は、少ない荷物を段ボールに詰め、なけなしの現金を使ってタクシーで運ぶと、大山が出勤する前に管理室で預かってもらった。しばらくは、ここを拠点にしながらネットカフェ難民として暮らすのだろう。大山にだけは迷惑をかけたくないし、心配をかけてもいけない。真知のことを「マッチ棒」とあだ名して呼ぶが、彼女は全人類の中でも親切なほうに分類されると思う。頭の中を、不安を過剰積載したトラックがぐるぐる回っているようなイメージがあった。気を張り続けて今日は疲れた。深夜2時のような疲労感があるのに、時計を見るとまだ18時だ。ネットカフェを探すのも食事もぜんぶ明日にして、寝てしまおう。真知は段ボールから寝間着と下着を探すと、着替えて毛布を取り出した。バサッと応接用のソファにかける。鍵を閉め、電気を消せば、こんなところでも眠れるだろう……ドアに近づく。 「こんばんは、真知さん。たまたま近くまで来たものですから、……」  パン屋の袋を持った土井中が急に事務所のドアを開け、胸に熊の刺繍のある寝間着を着た真知と目が合った。真知は「あ」とも「う」とも言えなかった。今思えば、呼吸すら止まっていた。 「真知さん……会社に泊まらなければならないほど、お忙しいんですか?」 「いえ……あの……こ、これは……」  土井中の目に、事務所には似つかわしくない生活感のある段ボールが映る。応接用のソファにかけられた毛布。土井中は一歩事務所に足を踏み込み、少しだけ背の低い真知に視線を合わせる。 「少し、お話できませんか? せっかく買ってきたので、パンでも食べながら」  土井中が買ってきてくれたクリームパンはおいしかった。学級崩壊が問題視される昨今、土井中はきっとさまざまなタイプの問題児たちと向き合ってきたのだろうと想像する。疲弊した真知は、自分が事務所に泊まろうとしていた理由をすぐに吐いた。 「バカな男だと、笑ってくださってけっこうです……」 「まあ……思ったより、まあまあな……だとは思いましたが……過ぎてしまったことを悔いるのはさらにバカバカしいことです」  土井中は、真知が淹れてくれたコーヒーを飲む。 「真知さん、あなたはひとつ何かを捨てないと、この局面は乗り越えられない。でも、捨てるものを間違えば、すべてが一つずつ順番に壊れていくように思います。あなたが努力して作った会社、あなた自身の健康……財産……真知さんに仕事を依頼した身としては、それは困るわけです」  真知は投げやりに言った。 「ご心配なく。仕事はちゃんとやります……って言っても、今の俺じゃぜんぜん説得力ないですけど……でも、俺にはそれしかないから、仕事だけはきちんとやり遂げたいんです」 「わかりました。仕事が真知さんにとって、いちばん大事なものですね。それでは、仕事をするために健康な状態の維持も重要になってくるでしょう。真知さんの借金は、一朝一夕で返せる額でしょうか。ネットカフェや会社に泊まるような生活が長く続いたとして、健康の維持はできそうですか?」 「……」  少し考えて、自分でも言い訳じみていると思うことをつらつら言う。 「もう若くないって思うけど、少々のことじゃくたばりませんよ。仕事をがんばれば、辛い期間も短くなるはず……」 「甘いですね。残業を続けて作業時間を伸ばしたのに、かえって能率が悪くなって後悔した経験など、社会人なら何度もあるのでは?」  脳裏に、前職でのあれやこれやが蘇った。 「そりゃ、あります……たくさん……でも、『捨てるもの』ってそれくらいしかないでしょ? ちゃんとした住まいとか、生活をあきらめて、しばらくガムシャラにやらないと……」 「ひとつだけあります。捨てるものが」  土井中は、真知の目を見ながら言った。 「『プライド』です」  自宅で食後のお茶を楽しんでいた大山は、ふいに妙な胸騒ぎを感じて立ち上がった。 (あたしの結界の中で、チャクラの乱れを感じる……この気配は、マッチ棒……?)  いても立ってもいられず、上着と鞄を引っ掴んで家を飛び出した。 「さゆり? どこ行くの?」 「ちょっとお店見てくる! すぐ戻ってくるから、嵐の番組録画してて!」  大山の家は、事務所から5分と離れていない。走って向かいながら、事務所のあるビルを見上げた。灯りはついていないように見えたが、自分の目で確かめたい。だんだんと仕事が入るようになってきて、真知は忙しそうに見えた。今日の昼間も、かれのチャクラは少し乱れていたように思う。健康状態は必ずチャクラにも現れる。もしもまだ仕事をしているようなら、無理をしないように言うつもりだった。ガチャガチャと入口の鍵を開ける。ドアを開け、大山は呼びかけた。 「マッチ棒? まだいるの?」  大山の声に、返事をするものはない。人の気配もない。気のせいか……大山は呟いて、もとの通りに鍵をかけ、事務所をあとにした。  熊の刺繍のある寝間着を着替え、さっき着ていたスーツに戻る。真知の持ちものが入った段ボールを土井中とふたりでタクシーに積み込み、後部座席に並んで座った。落ち着かない。でも、それを上回るほどの疲れと、やるせなさと、ずっとグルグルついて回る不安が頭にも、体にもこびりついていた。土井中が運転手に行き先を告げる。事務所のあるF駅からほんの一駅先にある、快速電車が停まらない駅のあたりだ。そこに、土井中の自宅があるという。真知は、事務所で土井中と話したことを思い出す。 「プライドを捨てる……?」  真知は、眉間をギュッと寄せた。 「プライドなんて、俺にはありません。あったらこんなこと、お客さんに話してませんよ」 「それが、真知さんの最後の可能性です。私は、あなたがご家族にも、友達にも、大山さんにすら話さなかったことを、私に話してくれたことを嬉しく思います。あなたにはまだ、この事態を打開するためがんばる力が残っている」  そう言ってやわらかい笑顔を見せたあと、 「真知さん、ひとつ提案があります。真知さんが消費者金融から借りたお金は、今日のうちに私がすべて返済します。それで、あなたはがんばって私に返してください。私は職業上、問題があるので利子はつけません。それから、あなたの生活拠点を私の住むマンションに移しましょう。家賃だけ折半し、家のものは好きに使ってかまいません。狭いですがひとつ空き部屋があるので……」  真知は喉が焼けるように熱くなった。 「そんなことできませんよ! あんた、俺がもし踏み倒したらどうするつもり!? 金だけもらってあんた殺して逃げるかも……なんで、俺にそこまでする? そんなにマジメそうに見える? メガネだから? メガネかけてるから!?」 「真知さん、夜間です。お静かに」 「静かにできない!」  土井中は、真知が落ち着くのを待つ。 「……真知さんの抵抗感は分かります。人間は普通、よく知らない人物から金は借りません。貸すこともない。あなたはさっき、『踏み倒したらどうするのか』と言いましたね。私が被るリスクの話です。でも、あなたもリスクは負うのですよ。私があなたに貸す金の出所の白さを、証明する手段は何もない。僕からお金を借りることで、真知さんは犯罪に加担するのかもしれません。同じ場所で生活することも一緒です。実はとんでもない悪漢かもしれない」 「土井中さんは……そんな人じゃ……多分だけど……」 「ありがとう。真知さんも、おそらくそんな人ではない。私の勘は当たるつもりです」  また、真知の頭の中が整理されるまで待つ。 「真知さん、人間の持ちものの中でいちばん大きくて、重くて、不要なものがプライドです。あなたは今日、少し心を無にして、私から金を借り、生活拠点を移す。明日からの日常は、表面上何も変わりないはずです。私もあなたも、これまで通りお互いの勤め先に出る。あなたが今日持ってきたこの段ボールや毛布も、すべて移してしまうのでここは元通り。消費者金融とのやり取りは終わる。ただ、私とあなたのあいだだけで、カネやモノの動きがあるだけなのです。お互いに黙っていれば、何も変わらない。そうでしょう。法律違反をしているでしょうか」 「してない……けど……」  土井中が言うことは正しいのか。いや、正しそうに聞こえるだけだ。聞こえのいい言葉にはきっと嘘がある。頭の中で必死に否定するのに、真知は土井中の言うことを論破できなかった。土井中は、そんな真知の内心がわかったように、 「私が屁理屈をこねているように聞こえるでしょう。それは当たり前です。法律的に問題がなくても、自分自身の感情が許さないということはいくらでもある。今は、何も考えないようにしましょう。表面だけ取り繕うのです。気持ちの整理はあとからつけて、とりあえずこの場をしのぎましょう。私は、あなたの会社が立ち行かなくなることも、あなたの健康が損なわれるのも嫌なんです。真知さん」  祈るように名前を呼ばれ、真知は初めて土井中の目をちゃんと見た。やわらかく淡々とした物言いなのに、かれの瞳は真剣そのものだった。必死だともいえた。 「……お願いです。僕に任せてみませんか?」  真っ黒に塗りつぶされた夜闇の中を、几帳面に並んだ車の列が法定速度を守りながら流れてゆく。途中で違う道に行く車とは別れ、別の車と一緒になって走る。赤信号で止まる。青信号で進む。カプセルのように包まれた車内の、腹の中でそれぞれどんな事情を持っているかは誰も知らず、ただ交通ルールを守っていれば舌打ちされることも、警察官から呼び止められることもない。真知は、だんだんと冷静になっていった。「そんなもんだな」と思った。冷静というより、「諦め」に近い気もした。  途中、コンビニに寄り、ATM一台であっさり借金を返済する。真知と土井中の借用書は、さきほど事務所で作って印鑑をつき、土井中に渡した。表面上は、まるでなんにもなかったようになる。すべて真知と土井中の腹におさまり、ふたりが口外しない限り、言いたくないことが外に漏れることはない。真知は、なんだか自分が中学生くらいに戻ったような気分になった。でも、明日からはちゃんと年相応の自分でいなくてはならない。  土井中の案内で10分ほど走って、5階建てのマンションに着く。501号室が、土井中の部屋だという。その日から、真知の仮住まいはその中の一室となった。

ともだちにシェアしよう!