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第8話 タピる

 真知が土井中のマンションで暮らし始めて3週間ほどが経ち、季節はいつの間にか初夏となっていた。同居を始めた当初は、毎日夕方ごろになるとそわそわし、帰るのが少し憂鬱だった。501号室のドアの前に立ち、何度も部屋番号を確認する。深呼吸をしてからスペアキーを使い、そーっとドアを開ける日々……でも、少しずつ慣れてしまった。いくら緊張したところで、すぐに金の工面ができないのなら他に行くところもない。土井中の前でいちばん恥ずかしい状況を晒した真知は、いろいろと吹っ切れていた。  今日もそろそろ帰宅する時間だ。でも、その日の真知は別の問題も抱えていた。事務所の机の上に、4枚のタピオカミルクティー無料券がある。数日前、乾燥タピオカの卸業をしている真知のお客が事務所を訪問してくれ、30枚ほどの無料券をくれた。押しつけられたと言ってもよかった。大山のお客にもかなり配ったが、あと数枚がなかなかさばけない。 「ありがとうございました。またお待ちしてますね。あとこれ、タピオカの無料券……もしよろしかったら。裏面に地図が……川崎にあるお店です。ありがとうございます。ええ、また……」  ドアの外までお客を見送ったあと、大山が戻って来る。 「1枚減らしたわよ。タピオカ無料券に関しては、功労賞をいただきたいところね」 「本当に、ありがとうございます、大山さん……今度、いつも食べてるお菓子買ってきます」 「ありがたく頂戴するわ。でも、今日のお客さんは今のかたが最後よ。あと4枚ね……」 「配ったフリしちゃおうかなとも思ったんですけど、この無料券、シリアル番号ついてるんですよね。なーんか嫌な予感がして、努力はしておこうと……」  ふたりはうーんと考え込んだ。 「まず、マッチ棒は行くべきよ。そもそもあんたが戴いたんだから」 「男ひとりでタピオカですか?」 「なら2枚。2回飲むか、誰かお誘いするか選ぶのね。あと2枚は……仕方ないからアタシがもらってあげる。これは貸しよ」  えーっと真知は机にへたり込んだ。タピオカといえば、流行の先端をゆく飲みものだ。女子高生とか、女子大生とか、インターネットに自撮りを載せられる、光の中で生きるものたちの商品だ。自分とは縁遠い。恨めしそうに、2枚の無料券を見つめる。 「……土井中先生でもお誘い申し上げたらどう?」  急に大山の口から出た名前に、真知は心臓がギクッと飛び出しそうになるほど驚いた。でも、動揺するところなど見せられない。 「土井中さん、こういうのチャレンジするタイプなのかなあ」 「現役中学生と毎日会話するのよ。もしかしたらタピオカ玄人かもしれないわ」 「そう……かなあ……」  真知は自分の頭の中で、他に連絡できそうな人物を思い浮かべる。大学時代の友人である、安達、高村、以上。あまりの友達のいなさに、泣き崩れたくなった。無料券の隅に小さく有効期限が記載されている。明日だ。明日で終わってしまう。ますます真知は絶望した。誘えるのは土井中しかいなさそうだったが、どんな顔をして切り出せばいいのだろう。大山は自分の財布に無料券を仕舞うと、 「アタシは明日もお店を開けるから、そろそろ帰るわね。マッチ棒は、よい週末を」 「はーい……また来週、よろしくお願いします」  手を振り、大山は去って行く。真知も簡単に掃除をし、しぶしぶ無料券を鞄に入れ、戸締りをして帰った。 「ただいまー……」 「おかえりなさい」  リビングのほうから返事がする。真知は靴を脱ぐと自分の部屋へは寄らず、廊下の先にあるフラッシュドアへまっすぐ向かった。誰も見ていないテレビが今日のニュースを流しており、土井中はキッチンでお茶を入れているところだった。たった今お湯を沸かした電気ケトルを取り、急須にお湯を注ぐ。5秒ほど待ってお湯を冷ましたつもりの土井中は、最近お気に入りの玄米茶のティーバッグをポイッと急須に放り込んだ。真知はそれを横目で見ながら、テレビの正面にあるソファに座る。「疲れた~」と、思わず声が出た。 「1週間お疲れさまでしたね。お茶、あなたも飲みますか」 「ありがとうございます。いただきます」  取っ手のついたマグカップに玄米茶をなみなみと注いでもらい、真知はふーふー吹き冷まして一口飲んだ。炒った米のいい香りがする。「おいしい」と言うと、土井中はほほえんで、自分の湯呑を持ってソファのほうへ来る。 「いつも朝のうちに洗濯を片付けてくれて、ありがとうございます。帰宅したら取り込むだけでいいので、すごく助かってますよ」 「そうですか? お役に立ててるなら、俺も嬉しいです」 「それで……実は……」  土井中がかなり申し訳なさそうに続けるので、真知は身構えた。 「な、何でしょう?」 「これを……」  かれは近くのカゴから見覚えのある衣服を出すと、真知のほうに広げて見せる。以前から使っていた、胸に熊の刺繍のある寝間着だ。腹のところが黄色いペンキで汚れ、ちょっともう着られそうにない状態だった。 「洗濯物を取り込んでいたら、不注意で落としてしまって、この通りです。下にペンキ塗りたてのところがあって……」  真知は、割ともうボロボロの寝間着を受け取った。着古した着心地のよさみたいなものがあって愛用していたが、ここまで着倒すともう未練はない。 「別に特別な思い入れがあったわけじゃないから、気にしないでください。明日、しまむらにでも行って買うから……あ、そうだ、土井中さん」  川崎にはしまむらがある。真知は、魔がさしたようなタイミングでかれを呼んだ。キョトンとした土井中を見て一瞬後悔するが、ここまで言ったのならもう誘うしかない。 「急なんですけど、明日ヒマですか? 川崎まで出てタピオカ行ってみません? お客さんが乾燥タピオカの卸業をやってて、タピオカミルクティーの無料券をもらったんだけど……」 「今、流行っているアレですね。生徒のみなさんもよくその話をしているので、気になっていたんです。わかりました……連れて行ってもらえますか?」 「こちらこそ、一人で行かなくて済んでよかったです」  内心のドキドキを隠すように笑って、マグカップを持ったまま立ち上がる。 「寝間着は俺が掃除用のボロにでもしますね。あとでお風呂、いただきます。それじゃあ、おやすみなさい」 「ええ。おやすみなさい」  短いやり取りをして、自分の居場所としてあてがってくれた部屋に戻る。もともと土井中が物置きとして使っていた空室で、真知が初めて来た日は寝具や扇風機などの季節ものが雑多に置いてあった。そこから真知のために布団を選んで敷き、段ボールを運び入れ、ノートパソコン用に折り畳みテーブルを置いてくれたのが、真知の自室だ。  真知は、マグカップを折り畳みテーブルに置き、今日は敷きっぱなしにしていた布団に横になる。どんなに疲れても、きちんと休める部屋があれば体は回復するものだ。もしあのままネットカフェ難民になっていたらと考えて、ぞっとすることがある。とてもじゃないが体が持たない。あのとき自分をなんとかつなぎとめてくれた土井中には感謝しかない。そして、真知のことをいい意味でそっとしておいてくれるのも、ありがたかった。その距離感が心地いい。  土井中は、真知のことを何も訊かない。真知も、かれのことをなんにも知らない。でも、一緒に暮らす中で、土井中が裏も表もない男なのはわかってきた。自分が思ったことは正直に話すし、不必要なかくしだても、本音建前の探り合いもしなくて済む。生活時間がずれていることもあり、一つ屋根の下で暮らす割に会話は少ない。でも、明日は初めて一緒に出かけるのだ。風呂から上がった真知は携帯を充電しながら駅周辺の地図を確認し、少ない持ちものを鞄に入れた。頭の中には、土井中とタピオカミルクティーのことがグルグル回っていた。かれと、どんな話をするのだろう。おいしい店なのだろうか。話し込んで笑ったりすることがあるのだろうか。そんなことを考えているうち、いつの間にか眠ってしまった。  真知は夢を見た。ハリボテのような病院におり、目の前に医師と、看護師がいる。医師はシャウカステンに生々しいレントゲン写真を2枚貼り、『申し上げにくいですが』と言った。真知の隣には、実の父親がいた。『持ってあと3ヶ月です』。医師は、真知の父に言う。真知の頭はまっしろになった。うまく動かせない首で隣の父を見ようとしたが、Tシャツのはじっこが見えただけだった。ザーッとおもちゃが片づけられていくように、ハリボテの病院も、医師も、看護師も父も、真知だけを残してみんないなくなる。まっしろな空間に、真知は放り出された。 『父さん!』真知は叫ぶ。『死んじゃ嫌だ!』  父を探して、真知は駆け出した。壁も床もわからない、ただ白い空間に目をこらして走る。見つからない。どこにもいない。そのうちに走り疲れ、息が上がった。嗚咽と涙が止まらなかった。 「父さん!」  目が覚めたことにも気づかなかった。真知は布団から飛び起き、眼鏡もかけずに部屋を飛び出す。いつも父はリビングにいる。テレビを見るか、本を読むかするその後ろすがたをひと目見たい。一度壁に肘をぶつけてドタドタと短い廊下を走り、リビングのドアを開ける。あのころ住んでいた家と似つかぬ薄型テレビの前にいたのは、土井中だった。ちょっと驚いた顔で真知を見て、慌てて立ち上がってこちらへ歩いてくる。真知は、やっと夢を見ていたのだと気づいた。近視と涙でぼやけた視界で、真知はかれの顔を見た。 「どうしたんですか? なぜ……」  土井中の右手が、濡れた真知の左頬に触れる。真知は寝ぼけた恥ずかしさと、父の余命宣告が現実でないことに安心して顔を真っ赤にした。両手で両目を覆う。汗が噴き出してくる。真知はヘタッとその場に座り込んだ。 「ごめんなさい。俺、なんか夢見てて寝ぼけて……」 「そうみたいですね。冷たいものでも飲みますか? ちょうど、水出しコーヒーができているんです」 「うん、ありがとう……飲む……」  夢だ。あれは夢だ。そう思っても、真知の胸に居座った不安は頑として出て行かなかった。まだ立ち上がれない。手が震える。土井中は、数個の氷を入れたグラスにコーヒーを注ぎ、少し迷ってシロップと牛乳も足した。やや白いコーヒーを真知に手渡すと、かれはかすれた声でお礼を言って飲む。冷たいコーヒーが、夢の中で走り疲れた真知の体を冷やす。土井中は少しの間を置いて、 「『父さん』、と聞こえた気がしました」 「うん……父親が病気か何かにかかるみたいな、変な夢を見て……恥ずかしいところを見せちゃって、すみません」  涙を拭って、やっと真知は土井中に笑顔っぽいものを見せた。土井中はまた、言葉を選ぶような間をあける。 「ご実家に電話をしてみるのはどうですか? 真知くんが心のどこかで、ご家族のことを気にかける気持ちが、夢になって現れたのかもしれませんよ。少し話をすれば、気分も晴れるかも……」 「どうしてるか、気にはなるんだけど」  真知はグラスに口を当てたまま、もごもごと言った。 「……父さんの連絡先、俺……知らなくて」  可能な限り誰にも言わずにきたことを、真知はなぜか土井中にだけ話した。明確な意思はなく、ポロっとこぼれたカケラのような、心の中でどこにも居場所を与えられない気持ちが口から飛び出したようだった。真知も、土井中も、ふたりとも大人だ。そのひと言で、ふんわりとした事情が伝わる。 「そう……ですか……」  言葉を失って、土井中が黙り込んだ。こんな沈黙は嫌だ。真知は、昨夜思っていた以上に、自分が今日の外出を楽しみにしていたことに気付く。それをこんな夢なんかで壊されたくない。真知はコーヒーを飲み干し、立ち上がる。 「出かけよう、土井中さん。すぐしたくしますから。タピオカ行って、しまむらにも付き合ってもらうからね」  真知が空元気なのも気付いているのだろう。でも、土井中は頷く。 「……はい。連れて行ってください。やっと生徒のみなさんの話題に乗れますよ。今まで食べたことがなかったので……」 「食べる?」  真知は、ちょっと言いかたが気になった。 「土井中さん、あれはミルクティーだから飲みものだよ」 「飲みもの? でも中に団子状のものが入ってますよね。スプーンか何かですくって食べるものでは?」 「ストローで吸い込んで飲み込むものじゃ……? でも、俺も飲んだことがないから、いまいち自信がないんですけど……」  議論していてもらちが明かないので、ふたりは出かける前に動画でタピオカドリンクの飲み方を予習することにした。 『カップを振りたくなるんですけど、振ってはダメですよー! 好みの甘さになるまで混ぜたら、温度でタピオカが硬くなる前に飲みきってくださいね!』  画面の向こうでドット柄ワンピースを着た女性が笑顔で教えてくれるのを、真知は割と真剣に聞く。でも隣から急にきた「この女性の服、タピオカっぽいですね」という横やりが不覚にも笑いのツボに入り、ほとんど忘れてしまった。電車に乗って出かけ、やや緊張した面持ちで川崎のタピオカスタンドから商品をもらう。そこらへんのベンチにかけ、日差しを浴びながらタピオカが硬くなる前に飲んだ。おいしいものなのかはよくわからなかったが、胸のモヤモヤはいつしか消えていた。

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