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第9話 夏合宿

 初夏から真夏に季節が移る。あっという間だった。  南西諸島沖で台風が発生したという。夏休み期間中の土井中が用意してくれた豚の生姜焼きを食べながら、真知は夜の天気予報を見た。  土井中は魚をよく食べる。肉が食べたいときは真知がスーパーで買い、そっと冷蔵庫に置いておくと調理され、夕食で提供されるシステムとなっていた。明後日から土井中は天文部の合宿で千葉に行く。でも、天気図を見るかれはなんだか難しそうな顔だ。真知は横目で見て不思議に思う。台風はまだ遠く、合宿には影響しない気がしたからだ。そんなことを考えていると、土井中の携帯が鳴った。かれはすぐに出る。 「もしもし、土井中です。こんばんは、日名子先生……私も、ちょうど天気予報を見ていました。ええ。ええ……残念ですが、仕方ないです。日名子先生も、お気をつけて。またお会いしましょう。……はい、……ありがとうございます。おやすみなさい」  短い通話を終え、土井中は携帯を置いた。珍しく気落ちしたようすだったので、真知は「どうしたの?」と訊く。「台風が原因?」 「ええ。明後日からの合宿で、沖縄に住んでいる僕の恩師にも来ていただく予定だったんです。天体の専門家で、たまたま先生が別件で関東に来る用事があったので、少しのあいだだけですが、来てもらおうと……でも、台風で来られなくなってしまいました」  土井中はそう言ったあと、「予定を見直す必要がありそうです」と腕組みをした。真知もうーんと考える。そして、 「その施設の名前、教えてもらえますか」と尋ねた。土井中から聞いた名前で、すぐにネット検索する。施設が運営しているサイトをタップし、施設情報を順番に見ていった。土井中も真知の携帯を覗き込む。真知は画面を指さし、 「プロジェクターもマイクもスピーカーも借りられる。ネット環境もある……土井中さん、ここ、けっこういろいろ揃ってますよ。遠隔でweb会議みたいに何かできないかな?」 「web会議……ですか?」 「そう。インターネットで天文部のいる部屋と沖縄をつないで、カメラとマイクでお互いの映像と音声を共有するんです。天文部のいる部屋は、きっと広いよね? プロジェクターで白いスクリーンか壁に映像を映し出せば、みんなで見られるし……」  土井中の顔がちょっと明るくなる。 「そういうこともできるんですね……相手側にはどんな設備が必要ですか?」 「パソコン、ネット、webカメラ、音が拾えるマイク……資料を見せたりするのなら、事前にその資料はパソコンに取り込む必要があります。あとは通話に必要なソフトがあればいいですよ。これは、ネットでいくらでも落とせるので、俺のおすすめをご案内します」  すぐに日名子に電話をかける。真知の話を伝えると、しばらく会話が続いたのち、 「ありがとうございます。ええ、ええ……それでは、当日はよろしくお願いします」  という言葉で通話を終えた。真知は、うまく話が進んだらしいと安心して食事に戻る。土井中は携帯を置き、真知に向き直った。 「真知くん、お願いがあるのですが」 「ああ、さっきのでしょ? どう設定すればいいかとか、そういうのでしょ? 後で説明書みたいにまとめますから……パソコンがいるなら、俺のノート貸しますよ。ぜんぜん、やります。晩ごはん作ってもらったし」 「いえ……真知くんにも合宿にご同行願おうかと」 「……はい?」  真知はかなり抵抗したが、土井中に頼み込まれて学生以来初めて、合宿に行くことになった。  翌々日の朝8時、合宿に参加するメンバーが校庭に集合する。天文部員は7名で、顧問の土井中と数名の保護者、それから真知で全員だ。真知は保護者たちに混じって気配を消していたつもりだったが、ひとりだけ部外者なのでかなり浮いていた。「あの人誰?」というひそひそ話も聞こえる。 「おはようございます。みなさんお揃いですね。人数が少ないので大丈夫だとは思いますが、一応確認します。青木さん、小鯖翔空くん、明菜さん、清水春也くん、正弘さん、……」  順番に名前を呼んでいき、最後に真知の名前が付け加えられると、何人かがかれのほうをチラッと見た。 「せんせー、真知さんってなにもの?」 「天文部のホームページを作ってくれているかたですよ」  その答えに、「あー」とか「おー」とか反応が来る。サイトが活用されている証拠だと思い、真知はホッとした。土井中は続けて、 「機械にとても詳しいので一緒に来てもらいました。短いですが、せっかくの合宿です。天文のことだけでなく、行ったことのない場所を楽しんでほしいし、話したことのない人とも話してみてほしい。……それでは、そろそろ出発しましょうか。途中で休憩は取りますが、必ずトイレには行っておいてください。それと、車に酔いやすい人はいませんか? 酔い止めを持ってきているので、心配な人は必ず言ってください」  そう言うと、何人かの生徒が手を挙げた。トイレを済ませ、荷物を積み込み、2台の車に分かれて乗り込む。ハイエースには真知と部員たちが乗り、土井中の運転で千葉までの長旅が始まった。 「……で、あなたが酔うんですね」 「ごめんなさ~い……」  目的地まであと少しというころ、山あいの曲がりくねった道に真知の三半規管が悲鳴を上げた。ハザードランプをつけて路肩に停車してもらい、外に出て座り込む。土井中が背中をさするのを、窓から顔を出した生徒が心配そうに見守った。そんな中、ひとりの部員が「ザコじゃん!」と真知をからかう。土井中は珍しく語気を強めた。 「具合の悪い人に言うことですか?」 「いえ……油断して酔い止めを飲まなかった俺も悪いので……」  真知はそう言って立ち上がると、 「あそこですよね。少年自然の家。もう見えてるので、僕は歩いて行きます。風に当たっておきたい気分で……あとで合流します」 「……かなり気温が高いですが、大丈夫ですか?」  土井中が念押しすると、 「水も持って行きます。いざというときは連絡しますから……15時までに、視聴覚室の準備ですよね。それには間に合います」  一瞬逡巡したが、土井中は頷いた。 「……わかりました。何かあったら、すぐに連絡をください。携帯も持っていますね?」  車の中にあった、真知のペットボトルを手渡す。 「気をつけて来てください。みなさんは出発しましょう。ちゃんとシートベルトをつけて。窓は閉めて……」  ガヤガヤとしたハイエースは先に行き、真知は久しぶりにひとりになる。生徒たちの声の代わりに、ステレオで蝉の声が鳴り響いていた。さっき見た看板に、目的地となる少年自然の家まで300mとあった。真知は水を飲み、気合いを入れる。坂道を登り始めた。  機材をあれこれ乗せた台車を押し、真知はひとり視聴覚室に入る。集中管理の冷房が効いていて涼しいが、涼んでいる場合でもない。施設から借りた機材の説明書を読みながら、着々と準備を進めていく。だいたいの設定を終えたころ、日名子とテスト通話を約束している時間になり、真知はweb会議システムからチャットを送信した。間もなく日名子から返信があり、通話を開始する。パッとお互いの画面に顔が映る。日名子は、優しそうな雰囲気のおばあちゃん先生だ。真知は会釈する。 「こんにちは。真知と申します。日名子先生、こちらの音と映像は見えますか?」 「はい、見えてますよ。……真知さん、音をもう少し大きくできますか」 「できますよ」設定画面から、マイクのボリュームを上げる。「どうですか?」 「大丈夫。聞こえやすくなりました」  会話しながら、細かい調整を繰り返す。最後に真知は、パソコンの資料を見せたいときなどの操作方法を説明した。日名子の部屋には孫だという女性がひとりおり、彼女がサポートをしてくれるそうだ。 「……説明は以上です」  真知は腕時計を見た。 「15時になったら、天文部のみなさんが来る予定です。あと10分弱ですね。よろしくお願いします」 「いろいろありがとう。聞いていた通り、機械に詳しいんですね。真知さんは、土井中くんのお友達?」  日名子からそう問われ、真知は少しだけ返答に困る。 「友達ではありませんが……土井中さんが天文部のサイトを僕に依頼してくださったことがきっかけで、仕事以外でもたくさんお世話になって……」 「そう……あの子は楽しそうに暮らしてる? 笑ったりする?」 「……どういう、ことですか……?」  そのとき、視聴覚室の扉がバタン! と開き、さっき真知をザコ呼ばわりした生徒を先頭に、ぞろぞろと合宿参加者たちが入ってきた。ウォータージャグなどの大荷物を抱えた土井中もやってくる。真知は、思わずかれを見た。たくさんの記憶の中から、土井中が楽しそうに笑っているところを探そうとする。でも、探せば探すほど、ひとつひとつ指からすり抜けるように消えていく気がした。 「これ、もう繋がっているんですか?」  土井中から訊かれ、真知はドキッとする。 「はい。バッチリ準備できてますよ」 「日名子先生、聞こえますか? 土井中です」 「ええ、聞こえます。部員のみなさん、こんにちは。土井中くんはちゃんとやってる?」 「さっき怒られた……」生徒のひとりが涙声の演技で言うと、 「あなたがムカデを触ろうとするからでしょう」と突っぱねる。 「この人は、先生の先生?」 「そうですよ。土井中くんが怠けていたら、おばちゃんに言ってね。すぐに沖縄から飛んでいくから」  日名子が言うと、生徒たちが笑う。土井中もほほえむ。それを見ると、真知の胸はさっきの彼女の言葉でぎゅーっと圧迫され、苦しくなった。「あの子は楽しそうに暮らしてる? 笑ったりする?」。真知は土井中のことをなんにも知らない。かつてのかれに何があったというのだろう。真知と暮らすあいだにも、土井中はかれの中に何かの闇を抱えたまま、ずっと生活してきたのだろうか。これからも、そうなのだろうか。  15時になると、施設のチャイムが鳴る。視聴覚室の電気を消し、千葉と沖縄の遠隔活動が始まった。ネットワークは安定しており、音声も映像も鮮明だ。最初は嫌だった合宿参加も、天文部員たちと出会え、土井中の役に立てたのなら来てよかったと思う。アダルトサイト業界で夜闇の中の仕事をしてきたような真知にとって、誰にでも胸を張って言える商売ができることは嬉しかった。それで満足しようと思った。でも、心にモヤモヤが残る。もしも土井中が今、心から笑えていないのなら、笑ってほしい。かれにだけは、笑っていてほしい。

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