そんなことがあってからしばらく経った。 　心配していたうなじの噛み跡もその後すぐに消えてくれて、売れっ子である真神くんと仕事場で会うこともなくいつもと変わらない日々を過ごしていた。 　そもそも冷静になって考えれば、いくらヒートが邪魔だからといって、それをなくすために適当な相手と番になるというのはありえない話だった。 　どんな気持ちで番になったとしてもやっぱりなにかしらの特別な絆は生まれてしまうし、そんな重大なことを酔っ払った勢いでするのは理性と知性がなさすぎた。なにより中途半端にうなじに噛み跡を残してしまったら俺がオメガだとバレるじゃないか。 　やけ酒だったとはいえやっぱり飲みすぎは良くない。と、ありきたりではあるけれど身をもって思い知った教訓で自分を戒めて、より一層役者の仕事に心血注ごうとしたタイミングで、その電話はやってきた。 『因幡さん！　映画来ました！』 　電話の相手はマネージャーの佐倉(さくら)くん。 　大学を出てすぐに大手の芸能事務所のマネージャーになったけれど、仕事熱心なあまり担当するタレントに仕事を取りすぎて追いつめてしまいクビにされたという過去を持つ若いマネージャー。 　その仕事一筋の熱心さが、オメガを隠して俳優としてやっているせいで体調の変化に波がある俺と噛み合い、これがダメでもあれがと色々仕事を見つけてきてくれてとても助かっている。 　とはいえ、うちの事務所は小さいから、マネージャー業務を何人も掛け持ちしているために俺個人のマネージャーではないんだけれど。どうやら彼はそれぐらい忙しくてちょうどバランスが取れているらしい。 「映画？　なんて映画？」 『「メサイアメーカー」ですよ！　前にオーディション受けた』 　言われて思い出す。 　確かに受けた。だいぶ前だ。人気の小説が実写化すると話題になっていたし、俺も読んでいて好きだった話だからぜひ参加したかったけれど、残念ながらそれは叶わなかった。 「あれ、だいぶ前に落ちたんでしょ？　それにもう発表されてた気が……」　 　キャスティングもすでに発表されていたし、それどころかもうクランクインしていたような気がするんだけど、と返すと、佐倉くんは力いっぱい「はい！」と返してきた。 　佐倉くんと気づいた時点でスピーカーにしているからいいけれど、耳元で聞いていたら鼓膜がやられそうな力強い声だ。 『代役です！　でもすごくいい役ですよ！』 　やっぱりクランクインはしていて、いくつかのシーンを撮った後にその役の人がバイクで事故って骨折したらしい。全治二ケ月ほどらしく、足場が悪いところでの軽いアクションのある役は無理ということになって降板になったそうだ。その代わりに、俺に白羽の矢が立ったらしい。 　小説の通りなら舞台は廃墟となった遊園地だから、足場は悪いだろうしロケ地に移動するだけでも大変だろう。だから仕方なく代役となったわけか。 『元々オーディションもいいとこまで残ってたんですよ。その上で「イチゴノキ」のときの演技がイメージに合ったそうです。あと前の方と体形が似ているのと、ぶっちゃけ舞台の稽古分と公演期間分のスケジュールが丸々空いていたので！』 「あー……そういうことか」 　色々と並べてくれたけど、最後がとてもわかりやすい理由だ。 　今すぐ一か月近くを撮影のために空けられる、体形の似ている役者となればそうはいないはずだから。納得はできるけど、そこまではっきり言われると少し釈然としない。 　それでも、仕事は仕事だ。 　しかも普段なら、撮影期間が長くなるとヒートの期間にかぶって困るがゆえに、なかなかメインのキャストのオーディションは受けられない映画の仕事。だけど今回は途中からの参加で、ギリギリなんとかなりそうな感じで、なにより代役とはいえ大作のオファーは嬉しいに決まってる。それだけ多くの人に見られるのだから。 『良かったですね、因幡さん！　捨てる神あれば拾う神ありですよ！』 　……佐倉くんに悪気はない。本当に思ったままを言っているだけだ。気持ちいいほどにストレート。 　でもまあ確かにポジティブに考えれば、そのチャンスに滑り込む運を持っていたといえる。それはいい。運も必要な素質だから。 　ただ、どうにも気になるのはすでに発表されていたキャスティングのことだ。 「それ、主演って……」 『真神薫さんですよ。若手実力派俳優って言われている』 　どうやら俺の記憶違いじゃなかったらしい。思った通りの答えを返されて、思わずため息をついてしまった。 　知っている。名前を知っているレベルじゃなく知っている。 　この前知り合って、酔っ払った末にかなりの失態を演じた相手。ついでに言うと、たまに悪夢を見て飛び起きる相手。ただでさえ有名だというのに、人に言えない関係を持ってしまった相手のことを簡単に忘れられるほど都合のいい記憶はしていない。 　思うところあって黙っている俺をどう思ったのか、いやどうも思っていないのか、詳しいスケジュールはあとで送ると言って電話は切れた。テンションが高いというよりも勢いがすごい佐倉くんとの会話は、なかなかパワフルで飲み込むのに少々の時間を要する。 　つまり代役として選ばれた映画の主役があの真神くんだと、そういうことか。 「まさかの共演かぁ」 　連絡先を交換するわけでもなく、またあのバーで会うわけでもなく、だからもう縁が繋がらないものだと思っていたけれど。まさか本業の方で会うとは。 「……ていうか、まずくないか」 　俺、オメガだって言っちゃったよな？ 　どうせもう会うことはないだろうし、あの時は勢いでわりと簡単にバラしてしまったけれど、今考えるとあまりにも軽はずみすぎた。 　いやでも、だ。あそこは薄暗くて細かい顔の作りは見えていなかっただろうし、俺は名前しか名乗っていないし、いちいち覚えてないんじゃないだろうか。モテるアルファだったらきっと一夜限りの相手なんて大勢いて、そんなの一人ずつ認識なんかしていないに違いない。 　日常的ではないセットの中でメイクをして衣装を着て会ったら同じ人物だとはわからないはず。 　それに万が一疑われたとしても、お互いプロだしプライベートで酔った上での醜態は別勘定にしてくれるだろう。というかしていただきたい。 「なんで俺はこういっつもアルファに……」 　言っても仕方ないことをそれでも嘆いて、十秒ほど頭を抱えてから、すぐに切り替えて電子書籍版のメサイアメーカーを購入した。 　読んだことがあると言っても読み込んだわけではないし、イメージをしながら改めて読めばまた違った世界が見える。ああ、役作りができるってなんて楽しいのだろう。 　だからきっと一緒に楽しく映画を作る仲間としてうまくやっていけるはずだ。……本当に、そう心から願いたい。